どんな顔をして湊に会えばいいのだろうか……。
俺は眠れない夜を過ごした。
俺は誰かに触れられたり、告白なんてされたことがなかったから……正直どうしたらいいかわからない。
人付き合いを疎かにした結果、相談できる友人もいないし……。
ましてや、『この猫だまり日和商店街で、俺と恋をしよう?』と言われて、俺は何と答えたらいい?
幼馴染、しかも同性から『好き』なんて言われたら、どうしたらいいのか反応に困ってしまう。
「一体どうしたらいいんだよ……」
湊に触れられた感覚がまだ残っていて、体が熱くなる。彼に会うことが、とても怖いことに感じられた。
考えれば考えるほど逃げ出したくなってしまう。それでも、今日湊と顔を合わさずにはいられないだろう。
「はぁぁ……」
大きく溜息をつきながらレストラン アルタの前を通った時――。
「あ、瑛太君。おはよう。一緒に学校へ行こうよ」
「み、湊⁉」
肩を叩かれると同時に元気な声が聞こえてきた。その声の正体は湊。一瞬で体が凍り付いてしまった。
「今日もいい天気で朝から気持ちがいいね。猫ちゃんたちも、おはよう。じゃあ、学校へ行こう!」
俺は、引きずられるように湊に腕を引かれる。
そっとその顔を盗み見れば、いつもと変わらない顔をしていたから心の底から安堵する。意識していたのは自分だけだったんだ。それはそれで悩んでいたのが馬鹿みたいだ……。
でも同時に湧き上がる不安。
(なんでこいつは、こんなにも通常運転なんだ? もしかしたら、ああいうシチュエーションに慣れてないとか言いつつ、本当は慣れているとか……)
不安が一つ解決すると、また新たな不安に襲われる。
湊は、俺と違って恋愛に慣れているんだろうか? それは嫌だな……。そう思ってしまう自分に戸惑う。湊といると心がグチャグチャに掻き乱される。苦しいくらいに。
胸がギュッと締め付けられた。
「今日部活もない日だから、帰りも一緒に帰ろうね」
「あ、う、うん」
「じゃあ、また昇降口で待ち合わせしよう」
「……わかった」
一緒に登校するだけでもこんなに緊張してしまうのに、一緒に帰る約束をしてしまった馬鹿な俺……。
(俺ってこんなにも押しに弱かったんだ……)
今まで気づかなかった、自分の意外な一面を知ることとなり、自己嫌悪に陥ってしまう。
それでも「瑛太君とこうやって登下校できるなんて嬉しいなぁ」と無邪気に笑う湊を見ていると、そんな気持ちさえ吹き飛ばされそうになってしまった。
「まぁ、こんな関係も悪くないかな」
そう思えてしまう自分もいる。
そんな俺たちを、商店街にいる猫たちが、呑気そうに眺めていた。
◇◆◇◆
学校の授業も終わり、いつも通り昇降口で待ち合わせをした俺たちは、家路へと着く。
猫だまり日和商店街に入ると、猫たちが「おかえり」とでも言いたそうに、俺たちの周りに寄ってくる。
この商店街の猫たちは人馴れしていて、とても可愛らしい。
そんな猫たちと一緒に商店街を歩いていると、いい香りが漂ってきた。朝登校するときには、こんな香りはしなかったのに……。
「なんだろう? カレーの凄くいい匂いがする」
「本当だね。いい匂い」
俺が猫のように鼻をクンクンとさせると、釣られて湊まで匂いを嗅ぎはじめる。
それは家庭で作るようなカレーの匂いではなく、鍋から立ち上る幾重にも重なった、咆哮なものだ。玉ねぎの甘みと肉の旨みと、何種類ものスパイスが溶け合った匂いは、本場のカレーのものに違いない。
(でも、この商店街にカレー屋なんてあっただろうか?)
俺が首を傾げていると、湊が少し先に新しくできた店を指さして教えてくれた。
「この匂いはあの店からだよ」
「あれ? あんな所に店なんかあったっけ?」
「うん。あそこにテナント募集の貼り紙がしてあったじゃない? あそこに、グハンさんっていうインドの人がカレー屋さんを始めるんだって」
「へぇ……」
「本場のインドカレーにナン食べ放題。今から楽しみだね」
「そうだね」
「お店がオープンしたら一緒に行こうよ!」
「あ、うん。別にいいけど……」
確かに本場のカレー屋さんがオープンするなんて楽しみだけれど、湊はなんでまだオープンもしていない店のことを、ここまで詳しく知っているのだろうか?
しかも店主の名前まで……。
疑問に思った俺は、湊にそっと声をかけた。
「なぁ、まだ店はオープンしていないのに、なんでそんなに店のことに詳しいんだ?」
「あぁ。店の前に見たことのない外人さんがいたから、声をかけてみたんだ。そしたらすぐに仲良くなれて、色々と教えてくれたんだ。グハンさん、日本語は片言だけど、とってもいい人だよ」
「湊は知らない人にも声をかけるのか?」
「だって、この商店街に悪い人なんていないでしょう?」
「そっか……」
湊は本当に警戒心の欠片もない。だから見ず知らずの、しかも外国の人とでもすぐに仲良くなってしまうんだ。
俺はそんな湊のことを羨ましいな、と思ってもいたし、尊敬もしていた。
湊が転校してきて一か月が経ったが、彼はすっかり学校にも馴染み、友達もたくさんいるようだ。
そんな湊が俺と一緒にいること自体、不自然なのかもしれない。
最近は、湊と自分は釣り合っていないのではないか? と不安に感じることもある。
さすがにこんなにカレーの匂いがすると、猫も嫌らしい。その店の周りに猫は一匹もいなかった。
すると突然店のドアが開き、黒人の男性が姿を現した。
俺はいつもの癖で一瞬身構えてしまったけれど、湊はその人に笑顔で話しかける。
「こんにちは、グハンさん。カレーのいい匂いが商店街中に広がってるよ。もしかして、今カレーを作ってるの?」
「おかえり、湊。まだ試作品だけれど、日本人に合うカレーを作っていたんだ」
「凄いなぁ。オープンするのが楽しみだよ」
「ありがとう」
恐らくこの人がグハンさんなのだろう。湊と親しそうに話している。
湊は、片言でしか日本語が話せないと言っていたけれど、グハンさんは流暢な日本語を使っている。
そんなグハンさんが俺に気づいたのか、笑顔で会釈をしてくれる。俺はこういう初対面の人とのやり取りが、とても苦手なのだ。
「あぁ、彼は俺の幼馴染の瑛太君」
「瑛太君?」
「そう。お店がオープンしたら二人で食べに来るからね」
「本当に? 嬉しいなぁ」
俺は「よ、よろしくお願いします」とグハンさんに向かってお辞儀をした。
俺はそんな二人のやり取りを見て呆気にとられてしまう。
だって湊はまだこの商店街に引っ越してきて間もないのに、こんなにもたくさんの人たちと打ち解けている。
つい先程、湊の顔を見た時の嬉しそうなグハンさんの顔がそれを証明していた。
(湊は本当に凄い)
俺は他人とコミュニケーションをとるのが苦手だから、素直に尊敬してしまう。
「それより本当にカレーのいい匂いがする。カレーを美味しく作るコツとかって、やっぱりあるの?」
「そりゃあ、あるよ」
「インド人が作る本場のカレーのレシピ……。俺、すごく知りたい!」
「うーん、そうだなぁ……」
「絶対誰にも言わないから! お願いします!」
「仕方ないなぁ。湊はここの商店街に来て初めてできた友人だから特別だ。これは企業秘密だからね」
グハンさんがそう笑いながら、俺たちに向かってウィンクをしてくる。俺は、それにどう反応していいのか戸惑っているのに……。
「勿論! 俺達三人の秘密です」
湊は目をキラキラさせながら体を乗り出していた。
◇◆◇◆
「なぁ、湊。カレーって、カレーだけで終わらないんだな」
「ね? グハンさんが教えてくれたカレーがあまりにも本格的過ぎて、頭が爆発しそうだもん」
「そんなことより、グハンさんが言ってた隠し味……全部覚えてないかも。トマトにニンニク、それにショウガ……」
「あと、ハチミツとか」
「それと、いろんなパウダースパイスもあったよね?」
「あ、そうそう! そんなにたくさん入れたら隠し味が喧嘩しそう」
「喧嘩?」
俺は湊の言っている意味がわからず、眉を顰める。
隠し味が、鍋の中で喧嘩をするとでもいうのだろうか?
「そう、喧嘩です。だって俺だったらカレー粉の一番の相棒でいたいですもん。好きな人の一番でいたいって思うじゃないですか?」
「好きな、人か……」
湊の口からその言葉を聞いた瞬間、心臓がトクンと跳ねた。
さっきまで普通に会話ができていたのに、今言葉を口にしたらギクシャクしてしまいそうで怖い。意識したら駄目だと自分に言い聞かせても、心臓が勝手にバクバクと拍動を打ち続けた。
駄目だ、湊の前から逃げ出したい。
唇をキュッと噛み締める。
こんな俺は、俺じゃない。
「ねぇ、瑛太君。瑛太君ってば!」
「あ? なんだよ?」
「俺、さっきグハンさんが教えてくれたレシピをスマホにメモっておいたから、今からカレーを作ってみない?」
「え? 今から?」
「そう! 隠し味を忘れないうちに」
「で、でも、この商店街だけで、それだけの材料が揃うとは思えないけど?」
「そこは揃った材料だけでいいじゃない?」
突然の提案に、頭が真っ白になってしまう。そんなに急に誘われたら、断る理由も考えられない。「いいよ」って言う以外にないじゃないか……。
「別に、いいけど……」
「え?」
「だから、いいよって言ってんだよ! 俺ん家に来たらいいだろう! 二度も聞くな!」
湊を軽く睨みつける。きっと今の俺は茹で蛸みたいに真っ赤な顔をしているはずだ。
俺の方が年上のくせに、恋愛に慣れていないことがバレバレで、恥ずかしくて仕方ない。めちゃくちゃ格好悪い……。
なんでだろう。湊の前ではスマートでいたいのに、無様な姿ばかり晒してしまう。
「嬉しい。楽しみだなぁ」
「……そ、そうか……」
屈託なく笑う湊に、もっと優しく「いいよ。家においで」って言ってやればよかったと後悔する。もう頭も心もグチャグチャだ。
「楽しみだよ、瑛太君」
湊の指先がスルッと自分の指先に触れると、体が小さく跳ね上がる。顔がどんどん熱くなって、体が小さく震えた。
でも、それ以上に心が震えて痛かった。
なぜ俺は、このイケメンと二人きりでカレーを作るなんて言ってしまったのだろうか? きっと今日も俺の舌は、カレーの味なんて感じないと思う。
そのままの足で、商店街にあるスーパーへと向かうこととなった。
「じゃあ、野菜とかはじいちゃんのレストランからもらうとして……。他の材料を買いに行こう!」
「え? ちょ、ちょっと待ってよ!」
楽しそうに歩き出す湊の後を、俺は夢中で追いかけた。
◇◆◇◆
やっぱり猫だまり日和商店街で、グハンさんが教えてくれたスパイスを全部揃えることはできなかった。
揃わなかった分は、湊のおじいちゃんに聞いて他のスパイスを代用することとなる。
それでも、グハンさんに教えてもらった、かなりの材料を揃えることができた。
「瑛太君、今日はジュースも買ったんだね」
「うん。今日はなんだか炭酸が飲みたい気分だったんだ」
「そっか……。早く二人でお酒が飲める年になるといいね」
湊がスーパーで買ったものを袋から取り出しながら口角を釣り吊り上げる。なんか良からぬ事を企んでるのか? と勘ぐりたくなってしまった。
ふと隣にいる彼を盗み見ると、ニコニコと嬉しそうにしていたからびっくりしてしまう。
「なんでそんなにニコニコしてるんだ?」
「だって瑛太君が、自分からアパートに来いって言ってくれたから、嬉しくて……」
「は? そんなことが嬉しいのかよ?」
「俺は嬉しかったんだ。瑛太君と前より仲良くなれた気がして」
「あぁ、そうかよ」
フニャリと目尻を下げる湊から、思わず視線を背けた。
「くだらないこと言ってないで、早くじゃがいもの皮を剥いてよ。俺は人参を切るから」
「はいはい。って、えぇ!? 瑛太君、カレーの具材をそんなにデカく切るの?」
「だって、カレーの具はデカいほうが美味いだろう?」
「それにしてもデカ過ぎるよ!」
「これでいいんだよ」
俺の手元を覗き込んで文句を言う湊。でもこんなくだらないやり取りが楽しく感じる。心が擽ったくて……胸が、柄にもなく甘く締め付けられた。
「これからも俺とカレーを食べたいなら、デカい具にも慣れなさい」
「え? は、はい! 俺、デカい具のカレーも大好きです!」
「プハッ! 都合良すぎだろう」
「俺、瑛太君とまたカレーが食べたい。だから、人参丸ごと入れてもいいよ」
やっぱり湊は大きな犬だ。お尻でシッポがブンブンと揺れているように見える。頭をクシャクシャッと撫でてやれば、嬉しそうに目を細めた。
「こんなんじゃ、グハンさんから教わった隠し味……忘れちゃいそうだよ」
俺は、自然と上がってしまう口角をキュッと結んで、包丁を握り直した。
「なぁ、これ本当に全部入れていいのかな?」
「でも、インド人のグハンさんが言ってたんだよ? 絶対美味しくなるに決まってるじゃん!」
「なんか混ざりきらなくて分離して……沼みたいになりそう……」
「そんな、沼って……」
二人してグハンさんの教えてくれた隠し味を見て呆然としてしまう。
本当に大丈夫かな……と、考えを巡らせていれば、湊が意を決したように口を開いた。
「もう、入れちゃおう!」
「え、ちょっと湊!」
「ほら、瑛太君も入れるのを手伝ってよ」
「あ、ああ!」
少し躊躇ってから隠し味を次々に鍋に放り込む。まるで魔法薬を作っている魔女の大釜みたいで笑えてきた。
「あははは! 変な色になってきた!」
「マジで瑛太君、それグハンさんに失礼だから!」
カレーを作るだけでこんなに楽しいだなんて、本当に頭がイカれてる。
でも楽しくて仕方ない。
ふと、子供の頃に買ってもらったお菓子を思い出した。様々な色の粉末に水を混ぜて更にトッピングして、色が変わって……あの時みたいにドキドキする。
男二人が集まって、一体何をやってんだよ、って思うけど。久しぶりにお腹の底から笑った気がした。
あー、涙が出てくる。
リビングの床に二人で並んで座る。目の前のテーブルには湯気をたてている出来立てのカレー。それに、湊が美味しそうなサラダまで作ってくれた。
そのあまりの完成度の高さに、俺は思わずスマホのカメラを向ける。
写真の中に映し出されたカレーは、まるで高級レストランのメニューに載っているカレーのように見えた。
「いただきます」
こうやってきちんと挨拶をする湊に好感が持てた。きちんと母親が躾をしてくれたのが伝わってくる。いい子だな、って思えた。
恐る恐るパクッと一口カレーを頬ばれば……言葉を失ってしまった。
「美味い! 湊、これめちゃくちゃ美味いぞ!」
「本当だ! マジで美味い」
お互い顔を見合わせて笑ってしまう。あんなに疑ってしまったグハンさんに申し訳ないようだ。
二人で缶ジュースを開けて乾杯をする。
腹が減ってるからカレーがこんなに美味いのかな?
それとも……。
目の前では湊が笑いながら色んな話をしてくれる。その穏やかな声色が心地いい。
幸せだな。こんな時間がずっと続けばいいのに……。
「瑛太君」
「ん?」
「瑛太君、俺にもそのジュースちょうだい?」
「え、なんでだよ? お前だってジュース飲んでんじゃん?」
「違う。瑛太君が飲んでるそのジュースを飲んでみたいの!」
「別に、こんなの普通のジュースだよ」
照れ隠しにジュースを口に含もうとした手を、湊にギュッと掴まれてしまう。
だって、このジュースを渡したら、か、間接キスになっちゃう……。
「ちょっとだけちょうだい?」
「……で、でも……」
顔を覗き込んでくる湊も恥ずかしいのかもしれない。目元が赤く染まり、切れ長の目にうっすら涙が浮かんでいる。そのいつもと違う表情に、クラクラと目眩がしそうだ。
「一口だけ、もらうね」
「え?」
俺からジュースを奪い取るとゴクゴクと勢いよく飲み始める。ジュースが喉を通る度に動く喉仏が男らしくて、顔がどんどん火照り始めた。
「ふふっ。間接キス、ですね……」
「みな、と……」
「俺、瑛太君とキスしたい……」
ペロッと自分の唇を舐めた後、フワリと湊の長い指先が俺の唇に触れる。そのまま輪郭をなぞられて……。
髪の毛が、逆立つほど気持ちが高揚してしまった。
「瑛太君、好き。ねぇ、好きです」
「湊、酔っぱらってんのか? これ、ジュースだぞ?」
「もしかしたら、アルコールが入ってたのかも……」
「そんなわけないだろう! これはただのジュースだし」
「でも、この雰囲気に酔っちゃった……」
「え?」
「なんだか眠くなってきちゃった……」
不意に視線がぶつかって、心臓が跳ねる。慌てて視線を逸らそうとしたけれど、口角が自然と上がってしまう。
無意識に、指先でお互いが口をつけた缶をなぞってみると、鼓動がどんどんと速くなっていった。
湊の優しい眼差しに包まれると、もう俺の緊張は隠しきれなくて。
お互いの伏せた睫毛から気持ちが滲む。はにかむような、それでいて世界中の光を集めたような幸せ笑みが、そっと溢れ出した。
「だって楽しかったから。瑛太君と一緒にカレー作って、一緒に食べて……幸せだった」
その言葉に胸がキュッと締め付けられる。
幸せだって思っていたのは、俺だけじゃなかったんだ。
「瑛太君……」
「おい、こら! 調子に乗りすぎた!」
「ふふふッ」
甘えたように体を寄せてくる湊を引き離そうとしたけど、あまりにも馬鹿力で抱きついてくるものだから諦めた。
本当にこいつは大きな犬だ……。
もう一度頭を撫でてやれば気持ちよさそうに目を閉じた。
「瑛太君、膝枕して……」
「こら、寝るならベッド行け! ベッド使っていいから」
「ここがいいんだもん。瑛太君の膝枕がいい……」
「お前が良くても俺は……はぁ……」
俺の言葉なんて全然聞いてない。湊はスースーッと穏やかな寝息をたてながら眠ってしまった。
「こいつ、起きたら文句言ってやる。足が痺れて大変だったんだぞって」
でも……。
美味しいカレーができてよかった。



