猫だまり日和商店街で恋をしよう


 湊と約束をしてから、俺の心臓は異常な程ドキドキしていた。
 誰かが自分の家に来て、一緒に料理を作る。そして一緒に作った料理を食べる。たったこれだけのことなのに、俺からしてみたら大事件であり一大イベントだ。
「どうすればいいんだろう……」
 イメージトレーニングをしようと試みても、そもそもイメージが湧いてこない。そんな経験が今までなかったから。あまりの自分の経験値の低さが憎らしい。
 どうしよう、どうしようと悩んでいるうちに時間はどんどん過ぎていく。 
 授業が終わったら、さっさと一人で帰ってしまおうか? そんな考えが頭をよぎるけれど、いくらなんでもそれは可哀そうだ。
 なぜなら、湊は(うち)で一緒にグラタンを作ることを、あんなにも楽しみにしていたのだから。
「もうこのまま消えてしまいたい……」
 ポツリと呟きながら重い足取りで、昇降口へと向かった。


 昇降口に向かう途中も呼吸困難になるのではないか、というくらい緊張してしまう。酸素をうまく取り込めなくて、目がかすんできた。
「このままバックレちゃおうかな……」
 そんな最低な考えさえ浮かんでくる。
 ようやく昇降口にたどり着いたとき、「瑛太君」という声が聞こえてくる。咄嗟に声のする方を振り向けば、湊がこちらに向かって近づいてきた。
 その姿を見たとき、心臓が更に大きく跳ね上がる。
「瑛太君、お待たせ。かなり待たせちゃった?」
「ううん。俺も今着いたところ」
「そっか。ならよかった」
 そう俺に向かって微笑む。そんな湊の笑顔に俺は見惚れてしまった。
(やっぱりこいつ、こうやって見るとイケメンなんだなぁ)
 呆然と立ち尽くす俺に笑いかけて、ポンポンと頭を撫でてくる。
 頭をポンポン……。それって恋人にするやつでは……? もうついていけなくて、完全にキャパオーバーだ。
「今更だけど、瑛太君って猫みたいで可愛いね」
「え?」
 湊が何気なく発した『可愛い』という言葉で、俺の心がトクンと跳ねる。それは雨粒が地面に落ちて、ピチャンと跳ね上がる瞬間のように感じられた。
「じゃあ、行こうか?」
「い、行くってどこに?」
「買い出しだよ。さすがにグラタンの材料はないでしょう?」
 何もわかっていない俺の腕を引いて、湊は鼻歌を歌いながら歩き出した。

◇◆◇◆

 ──これは、恋人同士みたいだ。
 猫だまり日和商店街の唯一ある、小さなスーパーに立ち寄り買い物をしているときも、俺は盛大に混乱していた。
 イケメンが買い物かごを持って隣を歩いているのだ。
 スーパーの入り口で呑気に昼寝をしていた三毛猫が、羨ましくなってしまう。
「何か食べたいものがあったらカゴに入れてね」
「……うん」
 俺は蚊の鳴くような声で呟いた後、俯いた。
 だって本当に恋人同士みたいだ。一緒に買い物して、一緒に帰宅して、一緒に料理を作る……。それは絵に描いたような幸せだった。


 スーパーを出て、果物屋の前を通ると、甘い香りが漂ってくる。俺がクンクンと鼻を鳴らすと、その甘い香りの正体は苺だった。
「あ、この苺美味しそう。瑛太君は苺好き?」
「す、好き……だよ」
「ならデザートに買って帰ろう。すみません、この苺一パックください」
 別に湊のことが「好き」ではなくて、苺が「好き」と答えているだけなのに、過剰すぎる反応をしてしまう。
 もう早くこの恋人ごっこを終わりにしたい……。
 湊はもうこの商店街の人とも仲良くなったみたいで、果物屋のおばさんと楽しそうに会話をしている。俺なんて、この果物屋に立ち寄ったことさえないっていうのに……。
 足元では、喉をゴロゴロ言わせながら茶トラの猫が俺の足に絡みついている。でも「申し訳ないけれど、今の俺にお前の頭を撫でる余裕はないんだ」と心の中で謝罪をした。
「瑛太君、見て。おまけにリンゴまでもらっちゃった」
「そうなんだ。よかったね」
「ここの商店街の人たちって、みんな優しくていい人ばかりだよね」
「そうかな……」
「本当に下町って感じがして、俺は好きだな」
 そんな風に湊は話すけれど、俺はこの商店街の人とあまり関わりを持ったことがない。
 

 学校に行くにはこの商店街を通り抜けるのが近道だから、この商店街は俺の通学路だ。
 朝、学校に向かう頃には、ちょうど開店の準備をしている時間帯で、店の人たちは店前を掃除したり、品出しをしている。
 そのタイミングで、俺が商店街を通ると「おはよう」「いってらっしゃい」とみんなが気さくに挨拶をしてくれる。
 帰宅途中に商店街を歩いていると、そこでも色んな人が声をかけてくる。
 総菜屋のご夫婦だったり、焼鳥屋のおじさんだったり。焼鳥屋のおじさんなんて、焼鳥を一本くれたりするんだ。買い物客まで「おかえりなさい」と声をかけてくれる。
 今までの俺は、それを「いちいち声をかけるなよな」と思っていたけれど、そういう親しみやすさがこの商店街の良さなのかもしれない。
 

(もしかして、この商店街って、優しい人が多いのかな?)
 今更ながらにそう感じる。
 俺は今までこの商店街を歩くときには、俯きながら、ただ綺麗に色付けされたコンクリートブロックを眺めて歩いていた。
 誰にも話かけられたくなかったのだ。
 でも、湊のように心を開いて接することができるのであれば、みんなが仲良くしてくれるのかもしれない。
(俺が猫だまり日和商店街で仲良くできるのは、猫だけじゃないのかな……)
 柄になく、そんなことを考えてしまった。
 俺はもう何年も、この商店街の近くに住んでいるにもかかわらず、そういったやり取りをしてこなかった。
 でも、こういった温かな交流こそが、小さな商店街のいいところなのかもしれない。
 湊に会って、今更ながらそれに気付かされる自分がいた。


 湊のおじいちゃんが経営している『レストラン アルタ』の前を通りかかると、「あ、おかえり」と中年の女性が声をかけてきてくれる。
 その女性は目元がどことなく湊に似ていて、咄嗟に湊の母親だと気付く。湊の母親に最後に会ったのは、もう何年も前だけれど、その変わらない雰囲気に俺は懐かしさを覚えた。
「瑛太君、しばらく会わないうちに大きくなったわね」
「あ、いや、そうですかね……」
「アパートで一人暮らしをしてるんですって? 凄いね」
「そんなことはないですけど……」
 離婚して生まれ故郷に戻り、今はアルタで手伝いをしているのだろう。明るくて、元気のいいところも湊にそっくりだ。
「これからも湊をよろしくね」
「いえ、こちらこそ……」
「母ちゃん、そういうのいいから。瑛太君も困ってるじゃん」
 湊が顔を真っ赤にしながら、俺と湊の母親との会話に割って入ってくる。
 俺こそ上手な受け答えができず、恥ずかしくなってしまった。
「瑛太君、行こう」
「あ、うん」
「あら、湊、もう行っちゃうの? 瑛太君、またね。たまにはご飯でも食べにいらっしゃい」
 湊の母親は、最後まで笑顔で手を振ってくれた。

◇◆◇◆

「すっげー! 本当に一人暮らししてるんだね。綺麗に掃除してあるし。瑛太君って綺麗好きなんだなぁ」
 家に着いた途端ルームツアーを始める湊。目をキラキラさせて、まるで冒険家のようだ。
「瑛太君ん()、本がたくさんあるね」
「うん、俺、本が大好きなんだ。湊は本好き?」
「俺は読書苦手かも」
 そう言いながら、湊がばつが悪そうに笑った。
 猫だまり日和商店街を抜けた少し先にあるアパートに、俺は高校一年生の時から一人で住んでいる。駅から遠いし、立地条件の悪いこのアパートは家賃もそれほど高くはない。
 実家にも徒歩五分で着いてしまう。それでも、俺は一人暮らしがしたかった。
 ただ少し広い1DKで、別に高価な家具が並んでいるわけでもないし、目を引くような面白いものがあるわけじゃない。
綺麗に掃除がしてあるわけでもなくて、一人で生活している分には部屋が汚れることもないのだ。
「広いだけで、誰も来ないんだけどね」
「え? 家に誰かを呼んだりとかしないの?」
「うん、しないよ。ここに来たのは家族以外では、湊が初めてだよ」
「恋人、とかは?」
「恋人なんて、いたためしがないよ」
「へぇ……なんかそれ、嬉しいなぁ」
 そう照れ臭そうに笑っている。
 そんな湊を見てしまえば、こっちまで恥ずかしくなってしまう。逃げるようにリビングから離れて、買ってきた食材をキッチンのカウンターに並べた。
 キッチンは男の一人暮らしには勿体ないくらい広い。でも、自炊はきちんとしたかったから、アパートを選ぶときにはキッチンにこだわったのだ。


 湊はベランダに出て外の景色を眺めている。彼の色素の薄い髪が、風にさらさらと揺れている。
「ここは二階だから、猫だまり日和商店街ってよく見えるんだね」
「うん。このアパート自体が小高い丘の上に立っているしね」
「へぇ、いい眺めだなぁ。世間は大きく変わってるのに、この商店街だけは全然変わってないね」
「時々ベランダに猫が遊びにくるよ」
「へぇ。めっちゃいいじゃん! 楽しそう」
 しばらく好きにさせてやろうと思って、俺はエプロンを身に着けた。手を洗ってから料理しやすいように腕まくりをする。
「湊、先に料理してるから好きなことをしてていいよ。テレビラックの中にゲーム機もあるし」
「本当だ! しかも入手困難な最新のゲーム機……。やっぱり瑛太君の実家ってお金持ちなんだね。あ、これやってみたかったゲームだ!」
 声をかけると少し離れたところから、嬉しそうな声が聞こえてくる。


 グラタンなんて普段作り慣れてないけど、どうにかなるだろう……と気軽に構えて、さっき湊がネットで見つけたレシピを見ながら作業を開始する。
 いつもは分量が一人分なのに、今日は二人分。なんだかくすぐったい。照れ臭くなってしまった。
 湊は手伝う気配もなく、早速ゲーム機で遊び始めている。「やったー!」と喜んでみたり、「マジかよ!」と悔しがってみたり。くるくる変わる表情は見ていて飽きない。
 見ているこっちまで、気持ちがほっこりしてしまった。


 結局湊は一度もキッチンに来ることなく、グラタンは完成してしまう。グラタン皿に綺麗に盛り付けて、オーブンを温め始める。
湊はプリプリの海老が食べたいって言ってたから、自分の分も湊の皿に入れてやった。
 ふんだんにチーズを乗せた頃、余熱が完了したオーブンがピーッピーッと鳴り響く。俺はワクワクしながらグラタン皿をオーブンに入れた。
「美味しくなれよ」
 小さく呟いてから静かに扉を閉めた。


 オーブンを覗き込むとチーズがトロリと蕩けていて、香ばしい香りが室内を包み込む。
「よかった、うまくできたみたいだ」
 ホッと胸を撫でおろせば「いい匂いだ~」と呑気な声が背後から聞こえてくる。それと同時に、背中にズッシリと重みを感じた。
「わぁぁ!」
 かがみこんでオーブンを覗いていた俺は、突然のしかかってきた重みに耐えきれず、床に座り込んでしまった。
「こら、突然乗っかってきたら危ないだろう? 俺は湊と違って体が頑丈じゃないんだから!」
「んー、瑛太君。チーズのいい匂い」
「おい、聞いてんのか? 殴るぞ?」
 いい加減、本気でキレて見せようか悩んでしまう。でも湊はそんなことはお構い無しだ。
「ふふっ。聞いてるよ。瑛太君って猫みたいな雰囲気で可愛いよね。華奢だし肌の色は白いし、髪はサラサラだし……女の子みたい。でもね、瑛太君に一番合う形容詞は綺麗だよ。こんな綺麗な男の人、見たことがない」
 クレームを付けても一向に離れようとしない湊に、大きく溜息をつく。


「ねぇ、瑛太君……」
「……え?」
 突然ギュッと背中から抱き締められた。耳元でいつもと違う、熱を帯びた声が聞こえてくる。首筋に湊の吐息を感じて、思わず固く目を閉じた。
 こんなにドキドキしたら湊に聞こえてしまう……というくらい心臓が鳴り響く。
 ……一体こいつは何を考えているんだ? 冗談にしては質が悪すぎる。「もう離れてくれよ!」そう言おうとしたとき、湊が静かに話し出した。
「少しだけ俺の話をしてもいい?」
「え? あ、うん。構わないけど……」
 ゆっくりと俺の反応を窺うように言葉を発する湊の顔を振り返ることもできずに、俯いたまま返事をする。文句を言ってやろうと思っていた俺は、すっかり出鼻を挫かれてしまった。


「俺、母親に連れられて、小さい頃この商店街に遊びにきてたでしょ? その時、瑛太君に会えるのがとても楽しみだったんだ」
「へぇ、そうなんだ……」
「瑛太君は意地っ張りで意地悪で、でも時々優しくて。一人っ子の俺にしてみたら兄弟ができたみたいだった」
 湊の言葉に、当時のことを思い出す。俺は猫だまり日和商店街の中にある、小さな公園で遊ぶことが好きだった。
 一人でブランコに乗ったり、砂場で遊んだり。友達がいなくてもその公園には猫がたくさんいたから、一人で遊んでいることが楽しかったんだ。
 そんなある日、母親に連れられて公園にやってきたのが湊だった。
 人懐こい湊は「あっちに行け!」と何度言っても、ニコニコしながら俺の後をついて歩いていた。
(俺は一人でいたいのに……)
 そう思っていても、湊は「瑛太君、瑛太君」と俺の後を必死について歩いていたっけ。
 懐かしい……。
 俺の心の中に、温もりが少しずつ広がっていった。


「瑛太君、こっちを向いて」
「ちょ、ちょっと、湊……」
「お願い、こっちを向いて」
 湊の方を向けと言われても、まるで凍り付いてしまったかのように身動きが取れない。怖くて、それ以上に恥ずかしくて……俺は俯いたままフルフルと首を振った。そんな俺の顔を、湊が覗き込んでくる。
 湊の綺麗な瞳に吸い込まれるんじゃないかって、錯覚を起こしそうになってしまう。鼓動がまた少しだけ速くなってきて、胸が締め付けられた。
 湊の傍にいると、いつも心がグチャグチャに掻き乱される。
 もう嫌だ、なんなんだよ……。これだからイケメンは……。


「再会した時にも言ったけど……。ずっと前から、俺は瑛太君のことが好きだった」
「……は?」
「ずっと黙っててごめん。俺の初恋は、瑛太君なんだ」
「湊、お前何言って……」
「俺は、瑛太君の恋人になりたい」
 ヤバい、緊張しすぎて心臓が爆発する。呼吸だってできない。
 どうしよう、湊の顔が見られない……。


 ピーッピーッ。


「わぁぁぁ!」
「ちょ、ちょっと、瑛太君!」
 突然オーブンの電子音が静かな室内に響き渡る。びっくりした俺は勢いよく立ち上がってしまい……。結果、湊を吹っ飛ばしてしまった。
 体中が熱くて涙が出そうになる。だって、こんな気持ちになるのは生まれて初めてだから。
 こんなイケメンから告白されたら、どうしたらいいかわからなくなる……。


「あ、瑛太君。グラタンが焼き上がったみたいだよ」
 オーブンのドアを開けた湊が「美味そう!」と満面の笑みを浮かべた。フワッと漂うチーズの焦げた香り。きっとグラタンは成功したんだろうけど……それを喜ぶ余裕が、今の俺にはない。
「瑛太君」
 呆然としていれば俺の手をそっと取って、キュッと指を絡めてくる。たったそれだけで、体がピクンと反応して、無意識に体に力がこもった。
「俺が思っていた以上に瑛太君が純粋だったから……。ごめんね、少し戸惑ってる。それに、俺もこういうシチュエーション初めてだし……」
「…………⁉」
 ガッカリされた……、そう感じた俺は咄嗟に顔を上げる。でもそこには、優しい笑みを浮かべて俺を見つめる湊がいた。
「瑛太君、めちゃくちゃ可愛い。だから、大事に大事に口説くからね。途中で我慢できなくて手を出しちゃうかもしれないけど」
「だ、駄目だよ。俺、人との間にどうしても壁を作っちゃうから、友達も少ないし、人付き合いも下手だ。今まで恋愛にだって興味がなかったから……」
「へぇ……」
「だからあまりグイグイ来られると、どうしたらいいか、わからなくなる……」
 そんな俺を見た湊が目を見開いたあと、クイッと口角を吊り上げる。それがあまりにも男らしくて心が震えた。
「それは俺も同じだよ。俺は瑛太君以外好きになったことなんてないし。だから、二人で一緒に恋をしていこう」
「……湊……」
「大事にするから。この猫だまり日和商店街で、俺と恋をしよう?」


 その後二人で食事をしたけど。
 一生懸命作ったグラタンの味なんて、わからなかった……。