猫だまり日和商店街にある洋菓子店『シャルル』。
そのお店の前を通ると、ふわりと溶け出したような温かい甘い香りが漂ってくる。
それは、焼き立てのバターとバニラが混じった、ふくよかで濃厚な甘さ。それに、ほんのわずかなレモンの爽やかさが、ふわりと鼻腔を抜けていく。
その香りを吸い込んだ瞬間、まるでお菓子の国に迷い込んでしまった錯覚に陥ってしまう。
シャルルの店主は、パティシエの丸山さん。
丸山さんは百㎏以上ある体格に恵まれた人で、「いやぁ、ついつい自分の作ったお菓子が美味しくてね!」と、豪快に笑う姿は清々しささえ感じる。
一度だけ自分の誕生日にケーキを買うために、お店に入ったことがある。
ガラスケースの向こうには、夢のような世界が広がっていた。
一番目を奪われたのは苺がてっぺんに乗ったショートケーキ。生クリームが雲みたいにフワフワしていてとても美味しそうだ。隣のモンブランは、繊細な糸のようにマロンクリームが重なっていて、なんだか大人っぽくて憧れる。
どれもこれも美味しそうに見えたけれど、結局はショートケーキを買って帰ったんだっけ。
シャルルからもれるいい香りに釣られてか、店前にはいつも数匹の猫が店の中を覗いている。そんな光景もまた可愛らしいのだ。
ある日の昼休み、いつも通り湊と二人で弁当を食べているとき、湊が突然シュークリームをくれた。
湊は先ほどまでサンドウィッチを食べていたくせに、今はシュークリームを頬張って幸せそうな顔をしている。
「どうしたの? このシュークリーム?」
「それ、商店街にあるシャルルっていうお店のシュークリームなんだけど、超美味しくて。今、俺そのシュークリームにハマってるんだ」
「へぇ。湊って本当に商店街に馴染んでるよな?」
「そう?」
湊からもらったシュークリームは、黄金色をしていて、正面には砂糖が振りかけられている。それが光に当たり反射して、まるで星のように輝いている。その中にはフワフワのカスタードクリームがたっぷりと詰まっていて、見ているだけで涎が出てきてしまいそうだ。
「これもらっていいの?」
「うん。美味しいから食べてみて?」
「じゃあ、いただきます」
そのシュークリームを手に取り、一口噛むと、シューのカリカリした食感と、カスタードクリームのふわふわした食感が絶妙なバランスで、口の中で爆発するような味わいが広がる。
甘さもちょうどいい。
「このシュークリーム、凄く美味しいね」
「でしょ? 毎日食べてても全然飽きないんだ」
本当に湊という奴は、どこまで交友関係が広いのだろうか?
俺はシャルルに興味があっても、たった一度立ち寄っただけで、いつも目の前を素通りしていた。商店街の人たちと、できるだけ交流を持ちたくなかったから。
だから気になる店があっても入らないし、挨拶されても会釈を返す程度。そんな薄っぺらい人間関係しか構築することができない。
どうしても他人との間に壁を作ってしまうのだ。
でも湊は、もうすっかりあの猫だまり日和商店街に馴染んでしまっている。
「今、新しいチョコレートを開発中みたいで、味見に今度チョコレートをもらうことになってるんだ」
「へぇ……。お店の人と仲良しなんだね?」
「うん。恰幅のいい優しいおじさんだよ」
「そっか……」
湊から知らない人の話を聞く度に、俺は不安に襲われる。
俺の方が猫だまり日和商店街に長くいるくせに、湊の方が交流関係は広い。
今まで他人と壁を作って生きてきた俺からしてみたら、湊の「誰とでも仲良くしたい」という思いは本当に尊敬してしまう。俺には真似なんてできない。
だからこそ、湊に置いて行かれたような気がして寂しくなってしまう。
俺には湊しかいないのに、湊には俺以外にたくさんの知り合いがいるんだから――。
「今度チョコレートをもらったら、瑛太君にもあげるからね」
「うん、ありがとう」
俺の心がチクリと針で刺されたかのように痛む。
それを掻き消すために、俺はシュークリームにかぶりついた。
◇◆◇◆
「あー、疲れたぁ!」
屋上の床に座り込み大きく伸びをする。今日も空が晴れ渡っていて気持ちがいい。
ようやく午前中の授業が終わった。まだこれから午後の授業が待ち構えているなんて考えたくない。
今日の弁当は肉団子だ。甘じょっぱいタレをたくさんかけてきたから、きっとおいしいだろう。
隣で春巻きを食べていた湊が「一個もらい!」と箸を伸ばしてきて、肉団子を一つとられてしまった。
こうやって、昼休み湊と二人で弁当を食べることも、俺の日常になってきている。
そう考えてみると、湊は俺にとって、もう大切な存在になっているのかもしれない。……なんて、口が裂けても言えないけれど。
教室や学食で気を遣いながら休憩するより、湊と二人でいるほうがずっと楽だ。それに俺と一緒に休憩する相手だって、神経をすり減らして余計に疲れてしまうことだろう。
俺はみんなから敬遠されているなんて、わかりきっていることだった。
でも、湊といると不思議と疲れることなんてないし、本当の自分を曝け出すことができる。湊と一緒にいることは、俺にとって居心地のいいものに感じられていた。
「ふふっ。瑛太君、ちょっといい?」
湊がクスクス笑いながら俺の顔を覗き込んでくる。そんな笑顔にいちいちドキドキしてしまう自分が情けない。
本当にイケメンの笑顔の威力は半端ないのだ……。
「シャルルから試作品のチョコレートが届いたよ。一緒に食べよう?」
「え? 俺ももらっていいの?」
「うん。だって瑛太君と食べたくて、わざわざ持ってきたんだもん」
そう言いながらリュックサックの中から、小さなチョコレートの箱を取り出す。
「ね? 一緒に食べよう?」
その笑顔に胸が締め付けられる。体がポッポッと熱くなった。
なんなんだよ、これ……本当に心臓に悪い。湊の顔を直視できなくて、膝を抱えて蹲る。
そんな俺なんて関係なく、湊は瞳をキラキラと輝かせながらチョコレートの箱を開けた。
「見て! 超美味しそうじゃない?」
「うわっ! 高そうなチョコレートだなぁ」
「でしょ? 店頭に並ぶときは一箱二千円くらいする、超高級チョコレートらしいよ」
「二千円かぁ……」
重厚なマットブラックの箱を開けると、内側にはベルベットのような深紅の仕切り。その上に、宝石のように整然と並ぶ一粒のチョコレートたち。
一つ一つが丁寧にコーティングされ、表面には金箔が微かに光っている。見るからに高級そうなチョコレートだ。
「ねぇ、湊。このチョコレートの写真撮っていい?」
「別に構わないけど。確かに写真に撮りたくなるくらい綺麗だよね」
「うん」
俺はまるで宝石なようなチョコレートを、スマホで写真に収める。
スマホの中に映し出されたチョコレートは光を浴びて輝き、まるで宝石のようだった。
「一つ食べてみよう。どれにしようかな?」
湊が少し悩んだあと、「これにしよう」と嬉しそうに口に放り込む。そんな何気ない仕草が……悔しい程かっこいい。
無理だ……苦しい……。
「高いだけあってめっちゃ美味しいよ! 瑛太君も食べる? ほら、あーん?」
「え? あーんって……」
箱からチョコレートを一つ取り出し、俺に差し出してくる。
「え? じゃなくて、食べてみてよ。ほら、あーん、して?」
「で、でも……」
「いいから、ほら早くしてよ」
「あ、あ、うん。あ、あーん……」
湊の勢いに押され渋々口を開く。だって、これじゃあ子どもみたいだ。口の中に一つチョコレートが放り込まれた。
それでも仕方なくカリカリッとチョコレートを咀嚼しコクンと飲み込む。チョコレートの中に散りばめられたナッツの香ばしい香りが、口いっぱい広がった。
なんだこれ、めちゃくちゃ美味しい。
「美味しい?」
「う、美味い!」
「良かった。もう一つ食べる? ほら」
「え? ちょ、ちょっと……」
「ひゃやくして(早くして)。ひょら(ほら)」
何を思ったか、湊がチョコレートを一つ口に咥えて唇を尖らせた。その瞬間、俺の中の時間が止まったように感じる。
まさか、このチョコレートを食えって言うのかよ……。
俺の顔は熱を帯び、トマトみたいに真っ赤になってしまった。それでも湊が咥えているチョコレートは凄く美味しそうで……。食べてみたい衝動に駆られる。
きっと、あのチョコレートは甘いだろうなぁ。今まで食べてきたどんなチョコレートより。
そっと瞳を閉じて湊の咥えているチョコレートに噛み付く。その瞬間フニッと唇と唇が触れ合う。心臓がトクンと一つ跳ねた。
「……あッ……」
湊からもらったチョコレートが、口の中で溶けて甘い味が広がっていく。
「ね? めっちゃ美味しかったでしょ?」
「馬鹿野郎……」
「ふふっ、可愛いなぁ」
頬を両手で包み込まれ上を向かされる。吐息を感じる距離で視線が絡み合って……。
──キスされる。
そう思ったからギュッと目を閉じる。緊張のあまり体がプルプルと震えた。
「ねぇ、そんなに緊張しないでよ。凄く悪いことしてるみたいに感じる」
「す、するなら早くしろよぉ!」
「キスしてほしいの?」
「してほしくない!」
「本当にしてほしくないの?」
「た、多分……」
「あははは! 瑛太君って本当に素直じゃないよね」
こ、こいつ……。絶対に俺で遊んでやがる。
悔しいけど強がる言葉も思いつかないし、湊を突き放すこともできない。そんな俺をギュッと抱き締めてくれる。
結局俺は、抱き締められてしまえば、嬉しくて拒絶なんてできないんだ。
「でも、俺だってキスは初めてだから、なんだか恥ずかしい」
「え? そうなの?」
「言ったでしょ? 俺の初恋は瑛太君なんだよ? だから、俺だってキスなんてしたことないし……。瑛太君に触れるのだって、すごく緊張する」
そう言葉を紡ぐ湊の頬は少しだけ赤く染まっている。
「瑛太君に触れたいけど、触れるのが怖くて、恥ずかしくて……。手が震えるんだ」
「そんなの、知らなかった……」
いつも余裕そうに見えていた湊の意外な一面を見た俺まで、湊の緊張が伝わってくるようだ。
「それに、瑛太君がこんなに可愛いんじゃキスもできないよ。だから、瑛太君とはゆっくり距離を縮めて、確実に落とそうって決めてるんだ」
「な、なんだよそれ。ふざけんな。誰が落ちるもんか!」
「俺だって、両想いになるための作戦を一生懸命たてたんだよ!」
「さ、作戦?」
「そう、作戦。必ず俺のことを好きにさせてみせるから」
「お、俺は絶対に、落ちないからな」
精一杯の強がりが、暖かな午後の風に攫われていく。
絶対に落ちない。
そんなことは無理だ。だって、俺もう、湊のことが……。
火照った頬を両手で覆う。
なんでこのチョコレートは、こんなに甘いんだよ。



