ようやく終わった……。
薄暗い廊下をトボトボ歩く。俺は年四回発行される『桜坂高校便り』という生徒に配布される広報誌を作成する委員会に所属しているのだけれど……。広報部の委員長が几帳面な上、完璧主義なのだ。
より良いものをみんなに届けたい、という気持ちはわかるけれど、いつも委員会が終わるのは下校時刻がとっくに過ぎた時間になってしまう。
ぎっしりと資料が詰め込まれたファイルが重たく感じる。
「あ、雨が降ってきそう」
窓の外を見ると空は厚い雲に覆われている。
ふとポケットに手を入れると、カサッとビニールに触れる。音の正体は、昼休みに湊がくれた棒付きのキャンディーだった。
「委員会大変そうだね。これあげるから頑張って!」
いつもみたいに笑って、頭を撫でながらくれたんだっけ。「ガキ扱いすんなよ」って強がって見せたけど、本当は凄く嬉しかった。 それなのに素直にお礼が言えない自分が歯痒くて仕方がない。
ビニールを破り口に放り込めば、甘い苺の味が口いっぱいに広がっていく。
「あー、疲れた体に染みわたる……」
そのままペロペロと飴を舐めながら家路についたのだった。
◇◆◇◆
猫だまり日和商店街に着いた頃、突然雨が降り出した。
「あ、やっぱり降り出した!」
生憎、折りたたみ傘を持っていなかった俺は、レコードショップの軒下で雨宿りさせてもらうことにした。
突然の雨に行く場所をなくしたのか、数匹の猫も一緒に雨宿りをしている。
レコードショップと言っても、今流行りのCDやゲームが売られているわけではなく、商店街にひっそりと佇む小さなレコード店だ。
薄暗い店内を彩るのは、年代物のレコードがぎっしり詰まった木製の棚や、いつの時代のものかもわからないVHSが並べられているラックだ。
耳を澄ますと店内からは優しいジャズの音楽が聞こえてくる。
俺は一度もこの店に入ったことはないが、菊池さんという五十代くらいの人が経営しているレコードショップらしい。菊池さんは昔、映画関係の仕事をしていたようだ。そんな噂を聞いたことがある。
(当分雨は止まないかな)
俺が空を見上げると、店内から聞き覚えのある声が聞こえてくる。
「その映画、そんなに面白いんですか?」
「この映画ですか? 凄く面白いですよ。現代の世界が抱えるジェンダーという問題がテーマとなっているんです」
「へぇ。なんだか難しそうですね? ちなみにタイトルは?」
「お? 興味がありますか? その作品のタイトルはですね……」
「ふむふむ……。じゃあ、そのDVDをレンタルしていこうかな」
「はい。是非観てみてください」
それは湊の声だった。
(あいつ、こんな店にまで顔を出してるのかよ)
湊の交友関係の広さに感心してしまう。本当に誰とでも仲良くなれる奴なんだなぁ。
雨は降り止まず俺がレコードショップの軒下にいると、用事が済んだのか湊が顔を出す。
「あ、瑛太君。委員会、お疲れ様。遅くまで大変だったね」
「本当だよ。身も心もボロボロだ」
「それなのに雨に降られちゃったなんて、災難だったね。ここで雨宿りしてたの?」
「そう。運悪く、今日折りたたみの傘を忘れちゃってさ」
「そっか……」
湊が上目遣いで何かを考える仕草をしたあと、にっこりと微笑んだ。
「じゃあ、俺が瑛太君を癒してあげるよ」
「湊が?」
「そうだよ! 今、菊池さんに面白い映画を教えてもらったんだ」
「あー、そうなんだ」
まさか「立ち聞きしていたから知ってるよ」とは言えずに曖昧な返答をした。
「これから瑛太君の家で一緒に観よう?」
「別にいいけど……。俺、傘がないから帰れないもん」
「大丈夫だよ。俺が傘を持ってるから一緒に入っていけばいい」
「はぁ? でも、それって……」
「相合傘ってやつ? じゃあ行こう、瑛太君」
そう言って躊躇する俺を、湊は広げた傘の中へと引き寄せる。肩が触れ合うほどの近さに、心臓がトクトクと鳴る。
雨音に紛れて、湊の優しい吐息が耳元をくすぐる。
傘の雫がはらはらと落ちる度、二人の世界がたった一つの傘の下に閉じ込められていくようだった。
「瑛太君、今日クリームコロッケ作らない?」
「べ、別にいいけど……」
「じゃあ、帰りにスーパーによって材料買って帰ろうか?」
「うん」
クリームコロッケは子供の頃からの大好物だ。でも、こんなに緊張している状態で果たして喉を通るだろうか……。
◇◆◇◆
「なぁ、湊って誰とでもあんなに仲がいいのか? 俺、さっきのレコードショップの店員さんと話したことなんてなかったんだけど……」
「あー、うん、そうだねぇ。案外誰とでもすぐに仲良くるなれるかも」
「へぇ、そうなんだ。女の子とも?」
「うん。そうだね。性別とか年齢とか、特に関係ないかも」
「ふーん……」
湊が女の子と仲良くしているのを想像しただけで、心がズキッと痛む。
(そんなこと、俺には関係ないのに……)
ギュッと拳を握り締めて俯けば、頭上からクスクスという笑い声が聞こえた。
「それってヤキモチ?」
「え?」
「だから、瑛太君は俺が誰とでも仲良くするから、ヤキモチを妬いてるの?」
湊を見上げた瞬間、一気に顔が熱くなった。
「もしそうだとしたら凄く嬉しい。でも……」
「でも?」
「俺は瑛太君を不安にしたくないから、女の子とあまり関わらないようにしてる。だから、いつか俺の恋人……になってくれたら嬉しいな」
悪戯っぽく笑いながら、湊がスルッと指を絡めてきた。
「恋人って……」
「ふふっ。じゃあ、クリームコロッケ作るからリビングで待ってて。瑛太君、キッチン借りるね」
クスクス笑いながら黒いエプロンを身に着ける湊は、悔しいほど様になっている。
それに、俺の家を遠慮なく使うあたり、もう本物の恋人みたいじゃないか。
「駄目だ、死にそう……」
俺は、床に置いてあるクッションを抱き締めた。
湊が作ってくれたクリームコロッケは想像以上に美味しくて、喉を通らないかも……なんていう心配は取り越し苦労で、俺はペロリと平らげてしまった。
「美味しかった?」
「うん、凄く美味しかった」
「それは良かった。カボチャのスープもあるから飲んでみて?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
湊が満足そうに目尻を下げる。でも決してお世辞なんかじゃない。湊は料理がとても上手だ。
テーブルに並べられているカボチャのスープが入ったカップを手に取れば、フンワリと甘い香りがする。フーフーッと冷ましてから口に含んだ。
「あー、あったかい……」
思わず口から零れ落ちた。
「菊池さんが言ってた映画、ジェンダーがテーマとか言ってたんだけど、難しいかな?」
「でもお店の人がお勧めするくらいだから、面白いんじゃん?」
「レンタルしてきたから、観てみよう?」
「うん」
湊が隣に腰を下ろしながら「どうぞ」なんて、コーヒーの入ったカップを差し出してくる。テーブルにそっと置かれた砂糖とミルク。
コーヒーはブラック派の湊だから、砂糖もミルクも必要ないはずだ。俺の好みを把握してくれてるんだ……って思うと照れ臭い。
しかもここは俺のアパートだ。
こんなちょっとしたやり取りこそが、まるで恋人同士のように感じられて……また心臓がうるさい程に騒ぎ始めた。
自分自身の恋愛経験があまりにも少なすぎて、戸惑うことが多すぎる。
このリビングに着いた瞬間から抱きかかえていたクッション。もはやそれは命綱みたいに思える。そんなクッションを更に強く抱き締めた。
◇◆◇◆
映画が始まった頃から覚えていた違和感が、中盤に差し掛かり確信に変わる。
「なぁ? これってもしかしてBL映画……」
「みたいだね。多分ゲイカップルのお話なのかな……」
「えぇ⁉ だからジェンダーか……」
慌てふためく俺など関係なく、突然始まる主人公とその恋人のラブシーン。思わず目を覆いたくなったけど、好奇心のほうが勝ってしまう。
チュッチュッというリップ音と共に、重ねられる唇と唇。映像からも伝わってくる唇の柔らかさに、視線が釘付けになった。血液が沸騰したかのように熱くて、体がどんどん火照り出す。
(コラッ、鎮まってくれ。俺の体!)
クッションを抱き締めて目をギュッと閉じた。
そんな俺にお構いなしに、映画はどんどん進んでいく。卑猥な水音がするような熱い口付けが交わされ、二人はもつれるかのようにベッドに沈んでいった。ギシギシッと二人の重みで軋むベッドの音がいやに艶めかしい。
『愛してる』
『僕もだ』
蕩けるような視線が絡み合い、また唇が重なって。ヤバい、鼻血が出そう。
緊張してるのにそれ以上に興奮してしまって……。体に根っこが生えてしまったかのように動かない。
すぐ隣には湊がいるし、今俺達が寄りかかっているのはベッドだ。どちらかが仕掛ければ、きっと……。
『瑛太君。抱いてもいい?』
潤んだ瞳にテラテラと光る唇。熱の籠った声で誘惑されてしまえば、拒絶なんてできるはずがない。
『瑛太君……』
『湊……』
そっと唇が重なって、二人の中で何かが弾けて……それから、それから……。
(駄目だ、心臓が爆発しそう)
顔から火が出てしまいそうなくらい赤面してしまう。この部屋は酸素が薄いのかってくらい呼吸が苦しくて、金魚みたいにパクパクと口を開閉させて酸素を吸い込んだ。
こんなに心臓の音がうるさかったから、湊に聞こえてしまうのではないか? と怖くなって体にギュッと力を込めた。
「瑛太君、それは駄目だ」
「わ、悪い」
「あんまり緊張しないで。こっちにまで伝染してくる。それに……」
「なんだよ……?」
不安になって湊を見上げる。
「意識しちゃう。なんかエロい気持ちになってきた」
「エ、エロい……?」
「瑛太君と、エロいことがしたくなるって言ってるの。わかってよ、鈍感……」
口元を押さえながらそう話す湊の顔も、林檎みたいに真っ赤だ。
そんな湊を見てしまえば、心臓も脳も心も……全部が爆発しそうになる。もうどうしたらいいのかがわからない。頭の中はグチャグチャだった。
「抱き締めるくらい、してもいい?」
「え? あ、あの……」
「俺は、瑛太君を抱き締めたい」
「湊……」
「お願い、ギュッてするだけ」
不安そうに顔を覗き込んでくる湊に、胸が締め付けられた。
苦しい……。
緊張しすぎて頭がボーッとしてくる。湊の胸にコツンと額を押し当てて、静かに頷く。
俺も、湊に抱き締めてほしかったから。
突然腕を引き寄せられたからバランスを崩して、湊の胸の中に倒れ込む。湊の胸に頬が当たってギュッと抱き締められて……心臓がバクンと跳ねた。
少しずつ感じる自分以外の体温に体が蕩けそうになる。湊が首筋に顔を埋めてきたから、擽ったくて思わず肩が上がった。
逞しい胸に耳を押し付ければ、雷みたいにドキンドキンと拍動を打っている。
テレビから聞こえてくる低くて甘い喘ぎ声。その場面を見なくても、何をしているかがわかってしまうような布同士が擦れ合う音。そんな映画に感化されて、少しでも気を緩めるとタガが外れそうになる。快楽に、飲み込まれそうになってしまった。
少しずつ思考回路がトロトロに蕩けそうになる。
キスしてみたい……。そう思って指先でそっと湊の唇に触れてみたら、ビクンと体が飛び上がった。
「瑛太君、俺に泣かされたいの?」
「ん?」
「そんな可愛い顔して誘惑しないでください」
意識が少しずつ遠のいていく感覚。湊の声が現実味を帯びていない。
オーバーヒート……。
プシューッと空気が抜けていく風船みたいに、全身から力が抜けていく。そんな俺を、もう一度ギュッと抱き締めてくれた。
その夜、俺は久しぶりに熱を出した。
「もしかして知恵熱?」って、俺の頭を撫でながら湊が笑っていた。
高校生にもなって、抱き締められたくらいで熱を出したなんて、本当に恥ずかしいけれど……。「知恵熱なんかじゃねぇし!」と否定することもできない。
だって、湊の言う通り、本当に知恵熱なのかもしれない。
恥ずかしくなって、布団の中に潜り込んだ。
「可愛いなぁ。ゆっくり寝ててください」
「湊は帰れよ。家の人が心配するし、風邪だったらうつると困るだろう?」
「駄目ですよ。こんな状態の瑛太君を置いて帰れません。ちょっかいなんて出さないから、寝ててよ」
「…………」
布団の上から、ポンポンッと優しく叩いてくれる。少しだけ感じる湊の重みが心地いい。
菊池さんに教えてもらった映画の内容なんて、ほとんど記憶に残っていない。
ただ今度菊池さんに会ったら、『BL映画なんて聞いてませんでした』と言ってやろうと心に決めた。



