児童書、玩具、院内で使う筆記用具。
何かを選ぶ時、徹平は決まって、琴絵を街へ連れて行くようになった。
そして喫茶店などで、いつも美味しいお菓子と紅茶を御馳走してくれるのであった。
――ひょっとして、徹平先生は……いや、まさか。
他者の好意に鈍い琴絵も、外出や食事を重ねる度に、徹平の気持ちに段々と気付いた。好意ならば嬉しいと思う反面、足枷のように彼女の心には一つの重荷がのしかかっている。
――私の戸籍は真っ白じゃない。
徹平はこれまで所帯を持った事が無い。にも関わらず、一度嫁ぎ、離縁を経験した自分が、彼に助けられただけでなく、その好意までも受け入れて良いのだろうか。
――私は、徹平先生の優しさに甘えているだけ。よこしまな考えを持ってはいけないわ。
自分に何度もそう言い聞かせたのは、琴絵自身が彼に好意を抱いていることに気付いていたからだ。助けてくれた恩人というだけではない。琴絵が青柳家の軒先にいた時から、徹平は朗らかに声をかけてくれていたし、困っていたら手を差し伸べてくれる優しい人だった。琴絵は無自覚のうちに、彼に惹かれていたのだ。
「琴絵さん。今から映画を観に行きましょう」
ある日の外出の折、徹平は琴絵の手を取った。手を繋いだ状態のまま歩き出したので、琴絵はそれはもう驚いて、耳まで赤くなってしまう。
「あの、徹平先生。手を……」
「このまま、繋がせて下さい」
徹平の指が、彼女の手の隙間にすべりこむ。手をからめとるように握られて、その解き方を琴絵は知らなかった。遠慮するのは気が引けた。自分は彼と手を繋いで良い人間じゃ無いと自分をいくら卑下しても、本心から耳をふさぐことはできなかった。
――嬉しい。とても嬉しい。本当に良いの?
「本当は……」
街灯の点り始めた道を歩きながら、徹平はゴクリと唾を飲み込んだ。
「青柳家の軒先で、初めて貴女をお見かけした時から……目が離せなくて。綺麗な人だなって。敦史は……こんなに綺麗なお嫁さんをもらったのかと、羨ましくて悔しくて」
琴絵の手を引く徹平の指先が強ばる。普段から冷静さを保つことに努めていた彼にとって、家族以外の誰かに、赤裸々な感情を曝け出したのは初めてのことだった。こんな格好のつかない本音を、琴絵は受け入れてくれるだろうか。だがそんな恐れをかき消すほどに「今、彼女に全て伝えなければ」という衝動が彼を突き動かしていた。
「大事にされていないと分かったら尚のこと、貴女がどんなに尊い人か、全く気付かない敦史に苛立ちました。同時に貴女が……ますます尊く輝いて見えたのです」
琴絵の頬は林檎のように赤くなった。謙遜を口にしようとするも言葉にならない。褒められ慣れていない琴絵の情緒を、徹平は燃えるような恋情で激しく揺さぶった。
「貴女が医院の玄関口に倒れていた時、このまま帰らぬ人になってしまったらと涙が止まらなかった。貴女を心から愛していることに僕は気付いたんです」
徹平は街灯の下で足を止めると、琴絵へ振り向いた。彼女がどんな顔をしているのか、気になったからだ。困らせてしまっただろうか、と。だが全ては杞憂であった。
「私も、徹平先生をお慕い申し上げております。心から、貴方だけを」
琴絵は目に涙を湛え、穏やかな笑みを浮かべていた。
「ありがとう。僕は幸せ者です」
徹平は相好を崩し、琴絵の手を握ったまま、映画館へ再び歩き出した。御伽のように甘い時間が永遠に続くかのような錯覚を覚えながら、上映室に二人は並んで腰掛けた。
上映が始まる前、室内照明が落ちて真っ暗になった瞬間、琴絵の頬に柔らかいものが触れた。一瞬のことで、琴絵は何が起こったのか分からなかった。徹平は彼女の頬に口付けしたのだ。
「愛しています、琴絵さん」
微かな吐息が耳元をくすぐる。徹平は琴絵の手を握ったままだ。無声映画に活動弁士が説明を加えるも、琴絵の耳には入らない。「愛しています」のたった一言が脳裏に焼き付いて、徹平の手の温もりを感じながら、幸せを噛みしめる。
――映画館を出たら、全部夢だった……なんてこと。
それもまた杞憂であったが、琴絵は現世にいながら浄土の花邑に佇むかのような夢見心地で、白黒に点滅するスクリーンを見つめ、やがてうつらうつらと舟をこぐ。人間は突然幸せを享受すると眠気を催す不思議な生き物であった。
――ああ、やっぱり夢だったのよ、さっきのは。
映画が終わると琴絵は青ざめた吐息を零した。寝ぼけていたのだ、自分はと。なぜなら映画が始まる前まで握られていた手が解かれていたからだ。幸せな夢だったなぁ、と琴絵が余韻に浸ったのもつかの間、徹平の手がふたたび琴絵の手をすくったので驚いた。
「琴絵さん」
「はい」
「僕の番となり、人生を伴に歩んでくださいませんか」
映画館を出て行く紳士淑女たちの中には、徹平の求婚が偶然耳に入り、足を止めて二人の様子をうかがう者もいた。ピュゥと外国人らしき男性が口笛を吹く。顔面が既に桜色に火照っていた琴絵は、数秒の間の後、鍋に放られた蛸の如く茹で上がる。無言が続いて十秒後、ポタリという音が二人の緊張した静寂を割り、琴絵の襟元で赤い花が散った。琴絵の返事を待っていた徹平は、頭の先から一気に青ざめた。
「琴絵さん! 鼻血! 鼻血が出てます!」
「えっ……え、うええっ」
徹平がハンカチを取り出して、琴絵の鼻に宛がう。琴絵の視界がくらくらとした。
「ごめんなさい。僕は唐突で軽率でした。琴絵さんを驚かせてしまいましたね」
琴絵はふるふると頭を振ったが。
「頭を振らないで! あ、安静に! 鼻血が止まるまでは!」
「す、すみません。なんだか頭がぼーっとして、のぼせてしまっただけなのです。何もかも初めてで……何一つ慣れなくて、恥ずかしくて。そうしたら鼻のあたりがツーンとしてきて、嬉し涙より先に鼻血がボタボタと……」
「ふはっ」
徹平は思わず吹き出した。
「なるほど。身体は正直ですね。嬉し涙より鼻血ですか。ふっ……くふふ、アハハ! ごめんなさい、笑ってしまって」
ツボに入った徹平は、瞼の端に涙を浮かべながら、琴絵の鼻血を拭き取った。
「貴女はいつも僕の予想の斜め上を行く。素直で嘘を吐かない、ありのままの貴女に惹かれてやまないのです。どうか僕のお嫁さんになって欲しい」
徹平は愛おしそうに琴絵を見つめた。
琴絵は鼻血を拭うと、彼を真っ直ぐに見つめた。
「私で、よろしいのなら、喜んで」
徹平の両手がのびて、琴絵は彼の胸の中にすっぽりとおさまった。
「徹平先生! 鼻血がお洋服に沁みたら……取れなくなってしまいます」
「構いません。医者は血と汗にまみれてこそですよ」
徹平は琴絵をさらに抱き寄せた。
「ありがとう、琴絵さん。どうかこれからは先生ではなく、僕を名前で呼んで下さい」
「徹平さん、と」
「さん、は不要ですよ。ああでも僕も、琴絵さんと呼んでいますね。参ったな」
徹平は後ろ頭を撫で、しばらく口ごもったあと「琴絵」と小さく呼んだが。
「やっぱり琴絵さん、で良いですか。いきなり呼び捨てにしたら不敬な気がして」
「私も、徹平さん、とお呼びさせて下さい。それもまた慣れるのに時間を要しそうです」
「アハハ、なんだかお互い……器用でないというか、似ていますね」
――似ている? 私と徹平さんが? 考えたことも無かった。
「誰よりも、君だけを一生守り抜きます。この先、貴女が何一つ憂うものがないように」
――ああ、神様。彼を愛しています。私の方こそ……徹平さんを幸せにしたい。
琴絵は徹平の背中に手を回した。血と涙と汗が彼の服に染み込んでしまうのも厭わずに、全身で彼の愛を受け止める。番の腕の中で、唯一無二の愛と喜びを知ったのだった。

何かを選ぶ時、徹平は決まって、琴絵を街へ連れて行くようになった。
そして喫茶店などで、いつも美味しいお菓子と紅茶を御馳走してくれるのであった。
――ひょっとして、徹平先生は……いや、まさか。
他者の好意に鈍い琴絵も、外出や食事を重ねる度に、徹平の気持ちに段々と気付いた。好意ならば嬉しいと思う反面、足枷のように彼女の心には一つの重荷がのしかかっている。
――私の戸籍は真っ白じゃない。
徹平はこれまで所帯を持った事が無い。にも関わらず、一度嫁ぎ、離縁を経験した自分が、彼に助けられただけでなく、その好意までも受け入れて良いのだろうか。
――私は、徹平先生の優しさに甘えているだけ。よこしまな考えを持ってはいけないわ。
自分に何度もそう言い聞かせたのは、琴絵自身が彼に好意を抱いていることに気付いていたからだ。助けてくれた恩人というだけではない。琴絵が青柳家の軒先にいた時から、徹平は朗らかに声をかけてくれていたし、困っていたら手を差し伸べてくれる優しい人だった。琴絵は無自覚のうちに、彼に惹かれていたのだ。
「琴絵さん。今から映画を観に行きましょう」
ある日の外出の折、徹平は琴絵の手を取った。手を繋いだ状態のまま歩き出したので、琴絵はそれはもう驚いて、耳まで赤くなってしまう。
「あの、徹平先生。手を……」
「このまま、繋がせて下さい」
徹平の指が、彼女の手の隙間にすべりこむ。手をからめとるように握られて、その解き方を琴絵は知らなかった。遠慮するのは気が引けた。自分は彼と手を繋いで良い人間じゃ無いと自分をいくら卑下しても、本心から耳をふさぐことはできなかった。
――嬉しい。とても嬉しい。本当に良いの?
「本当は……」
街灯の点り始めた道を歩きながら、徹平はゴクリと唾を飲み込んだ。
「青柳家の軒先で、初めて貴女をお見かけした時から……目が離せなくて。綺麗な人だなって。敦史は……こんなに綺麗なお嫁さんをもらったのかと、羨ましくて悔しくて」
琴絵の手を引く徹平の指先が強ばる。普段から冷静さを保つことに努めていた彼にとって、家族以外の誰かに、赤裸々な感情を曝け出したのは初めてのことだった。こんな格好のつかない本音を、琴絵は受け入れてくれるだろうか。だがそんな恐れをかき消すほどに「今、彼女に全て伝えなければ」という衝動が彼を突き動かしていた。
「大事にされていないと分かったら尚のこと、貴女がどんなに尊い人か、全く気付かない敦史に苛立ちました。同時に貴女が……ますます尊く輝いて見えたのです」
琴絵の頬は林檎のように赤くなった。謙遜を口にしようとするも言葉にならない。褒められ慣れていない琴絵の情緒を、徹平は燃えるような恋情で激しく揺さぶった。
「貴女が医院の玄関口に倒れていた時、このまま帰らぬ人になってしまったらと涙が止まらなかった。貴女を心から愛していることに僕は気付いたんです」
徹平は街灯の下で足を止めると、琴絵へ振り向いた。彼女がどんな顔をしているのか、気になったからだ。困らせてしまっただろうか、と。だが全ては杞憂であった。
「私も、徹平先生をお慕い申し上げております。心から、貴方だけを」
琴絵は目に涙を湛え、穏やかな笑みを浮かべていた。
「ありがとう。僕は幸せ者です」
徹平は相好を崩し、琴絵の手を握ったまま、映画館へ再び歩き出した。御伽のように甘い時間が永遠に続くかのような錯覚を覚えながら、上映室に二人は並んで腰掛けた。
上映が始まる前、室内照明が落ちて真っ暗になった瞬間、琴絵の頬に柔らかいものが触れた。一瞬のことで、琴絵は何が起こったのか分からなかった。徹平は彼女の頬に口付けしたのだ。
「愛しています、琴絵さん」
微かな吐息が耳元をくすぐる。徹平は琴絵の手を握ったままだ。無声映画に活動弁士が説明を加えるも、琴絵の耳には入らない。「愛しています」のたった一言が脳裏に焼き付いて、徹平の手の温もりを感じながら、幸せを噛みしめる。
――映画館を出たら、全部夢だった……なんてこと。
それもまた杞憂であったが、琴絵は現世にいながら浄土の花邑に佇むかのような夢見心地で、白黒に点滅するスクリーンを見つめ、やがてうつらうつらと舟をこぐ。人間は突然幸せを享受すると眠気を催す不思議な生き物であった。
――ああ、やっぱり夢だったのよ、さっきのは。
映画が終わると琴絵は青ざめた吐息を零した。寝ぼけていたのだ、自分はと。なぜなら映画が始まる前まで握られていた手が解かれていたからだ。幸せな夢だったなぁ、と琴絵が余韻に浸ったのもつかの間、徹平の手がふたたび琴絵の手をすくったので驚いた。
「琴絵さん」
「はい」
「僕の番となり、人生を伴に歩んでくださいませんか」
映画館を出て行く紳士淑女たちの中には、徹平の求婚が偶然耳に入り、足を止めて二人の様子をうかがう者もいた。ピュゥと外国人らしき男性が口笛を吹く。顔面が既に桜色に火照っていた琴絵は、数秒の間の後、鍋に放られた蛸の如く茹で上がる。無言が続いて十秒後、ポタリという音が二人の緊張した静寂を割り、琴絵の襟元で赤い花が散った。琴絵の返事を待っていた徹平は、頭の先から一気に青ざめた。
「琴絵さん! 鼻血! 鼻血が出てます!」
「えっ……え、うええっ」
徹平がハンカチを取り出して、琴絵の鼻に宛がう。琴絵の視界がくらくらとした。
「ごめんなさい。僕は唐突で軽率でした。琴絵さんを驚かせてしまいましたね」
琴絵はふるふると頭を振ったが。
「頭を振らないで! あ、安静に! 鼻血が止まるまでは!」
「す、すみません。なんだか頭がぼーっとして、のぼせてしまっただけなのです。何もかも初めてで……何一つ慣れなくて、恥ずかしくて。そうしたら鼻のあたりがツーンとしてきて、嬉し涙より先に鼻血がボタボタと……」
「ふはっ」
徹平は思わず吹き出した。
「なるほど。身体は正直ですね。嬉し涙より鼻血ですか。ふっ……くふふ、アハハ! ごめんなさい、笑ってしまって」
ツボに入った徹平は、瞼の端に涙を浮かべながら、琴絵の鼻血を拭き取った。
「貴女はいつも僕の予想の斜め上を行く。素直で嘘を吐かない、ありのままの貴女に惹かれてやまないのです。どうか僕のお嫁さんになって欲しい」
徹平は愛おしそうに琴絵を見つめた。
琴絵は鼻血を拭うと、彼を真っ直ぐに見つめた。
「私で、よろしいのなら、喜んで」
徹平の両手がのびて、琴絵は彼の胸の中にすっぽりとおさまった。
「徹平先生! 鼻血がお洋服に沁みたら……取れなくなってしまいます」
「構いません。医者は血と汗にまみれてこそですよ」
徹平は琴絵をさらに抱き寄せた。
「ありがとう、琴絵さん。どうかこれからは先生ではなく、僕を名前で呼んで下さい」
「徹平さん、と」
「さん、は不要ですよ。ああでも僕も、琴絵さんと呼んでいますね。参ったな」
徹平は後ろ頭を撫で、しばらく口ごもったあと「琴絵」と小さく呼んだが。
「やっぱり琴絵さん、で良いですか。いきなり呼び捨てにしたら不敬な気がして」
「私も、徹平さん、とお呼びさせて下さい。それもまた慣れるのに時間を要しそうです」
「アハハ、なんだかお互い……器用でないというか、似ていますね」
――似ている? 私と徹平さんが? 考えたことも無かった。
「誰よりも、君だけを一生守り抜きます。この先、貴女が何一つ憂うものがないように」
――ああ、神様。彼を愛しています。私の方こそ……徹平さんを幸せにしたい。
琴絵は徹平の背中に手を回した。血と涙と汗が彼の服に染み込んでしまうのも厭わずに、全身で彼の愛を受け止める。番の腕の中で、唯一無二の愛と喜びを知ったのだった。

