ハルノトリ医院は、渡り鳥の住まう巣のようだ。
患う人が羽休めにしばらく留まる、日だまりに満ちた場所。
傷が完全に治るまで琴絵は、医院の片隅にお邪魔することとなった。
元々この医院は入院患者を基本は受け付けないという。入院が必要な患者様は大きな専門医の元に紹介状を書くそうだが、琴絵の場合は毎日の消毒と、清潔な包帯の交換を必要とする外傷であったので「傷が塞がるまでは、お留まりください」という、春告父子のご厚意に甘える形となった。治療費も滞在費も驚くほどに少額である。これでは申し訳無い、と琴絵の両親が上等な菓子折を包んできたくらいだ。
「うん、出血はしっかり止まったね。化膿しなくて本当に良かった」
包帯を取り替える際、外傷に詳しいという基平がそう告げたので、琴絵は胸をなで下ろす。
「基平先生、すみません。私……頭が臭うでしょう? 夏場ですし、先生に申し訳なくて」
「大丈夫だよ。でも女性なら気になるのは当然だろう。今日から洗髪をして良いよ。うちの看護婦さんに任せよう」
ハルノトリ医院には三十代半ばの一人の看護婦が勤めていた。名を、萩野夏月。既婚者で九歳と十歳の男児二人の母親だ。夏月は近くの住まいから通いで勤めていた。
「さあ、琴絵さん。どうぞこちらへ」
「お手数をおかけします」
夏月は琴絵を風呂場へと誘った。鉄製の寝椅子を持ってくると、洗い場との境にタオルと首枕を敷く。琴絵はとまどいながらもそこに横になった。
「頭部の傷に沁みないように致しますね」
夏月は傷口に触れないよう、髪がからまらないように、丁寧に洗ってくれた。
「私の母がね、髪の美しさには、その人の心が表れると話していたの。触れていると、気持ちが良くてなんだか眠くなってくる。琴絵さんの髪はまさにそう。ねぇ、あとで結わせてくれないかしら」
「お手間になりませんか」
「私、子どもの頃は、妹の髪を結うのが好きだったの。でも生まれてきたのがどっちも男子だから華がないわ、ほんと」
夏月は子育ての苦悩を、笑い話を交えながら話してきかせた。洗髪が終わると、渇いた布でしっかりと水気を拭き取り、櫛を通す。風にさらわれるくらい軽く乾いた頃、庭のベンチに座る琴絵の元に、夏月がやってきた。
「お待たせして御免なさい」
夏月は楽しそうに髪を結い始めた。
「ねぇ、琴絵さんって、妹さんや弟さんがいるの?」
「上に兄と姉が一人ずつおります」
兄は帝都大学で学んでおり、姉は別の家に嫁いだ。
「あら、そうだったの。子どものお相手がお上手だから、なぜだろうと思って」
「巫女として奉仕していた頃、近所の子どもたちの遊び相手にはなっていました」
「なるほど。この前、廊下で、診療に来た子どもさんと話していたでしょ? あなたが膝を折って、あの子と同じ目線に屈んだのを見て感心したの。大人の方と会話する時にも、言葉遣いが綺麗で、物腰が柔らかで……あっ、そうだわ。良いこと思いついた」
左右の三つ編みを肩から胸へ流し、夏月はわくわくとした表情になった。
「ねぇ、琴絵さん。傷が癒えたら、この病院にお勤めになってみない?」
夏月の唐突な提案に、琴絵は仰天した。
「で、でも私……看護婦の資格などは持っていませんし、医療とは無縁で……」
「そうじゃなくって。私が頼みたいのは、医院の受付」
「えっ、受付、ですか」
「そう。貴女のように接遇に優れていて、子どもの相手が上手な御方を探していたところだったの」
夏月は目を星のように輝かせた。お世辞ではなく本心である。
「私が仕事の片手間に、待合室への呼び出しも、会計もやっているでしょ。基平先生と徹平先生も手が空いている時には補ってくださるけど、最近患者様が増えてきて、とても三人では回らなくって。ゆっくりできるのは、この昼休みくらいよ」
「な、なるほど。確かにお忙しくされている印象がありました」
「元々〝受付を雇ったらどうか〟と基平先生たちとも話していたの。以前は、基平先生の奥さんが受付をされていたのだけど数年前に亡くなられてね」
この医院にお世話になり始めてから、琴絵がずっと気になっていたことだった。聞いてはいけないのでは、と。夏月の語るところによれば本当に優しい人だったので、父子の悲しみは大きかったという。
「徹平先生が小児専門だから、うちの医院って待合室に子どもが多いでしょう? とにかく子どもは待つのが苦手でね、相手をしていたら大人の時間が溶けちゃうわ。どう? 考えてくださらないかしら? 先生たちには私から話しておくから」
「願ってもないことですが……本当に私で良いのでしょうか」
「ええ。なんといっても、貴女の纏う春風のような空気感が心地良いのだもの。基平先生も徹平先生も仰っていたわ。琴絵さんがそこにいるだけで安らぐものがあるって」
「お二人が……そのようなことを?」
「ええ。いっそのこと、貴女をお嫁さんに迎えたら良いのに、徹平先生は」
「なっ、い、いい、いきなりなにを」
琴絵は忽ち耳まで真っ赤になった。
「わ、わ、私などが、あんな神様のような人の番になど畏れ多い。罰が当たります」
「あらら、脈無し。徹平先生は案外貴女のことをとても気に入っているようだけどね」
「な、なな、なななな、ないです、それは。夏月さんの勘違いですよ」
「あら、そうかしら? まぁ、それはさておき、前向きに検討してくれる?」
「はい、受付ならば出来そうです。こちらでお世話になったことの恩返しがしたいと思っておりましたから、皆様のお役に立てるのならば、有り難いばかりです」
その後、受付の件はトントン拍子に話が進んだ。
琴絵がハルノトリ医院の受付として働くことを、彼女の両親は諸手を挙げて賛成した。
傷が癒えた後、琴絵は医院に住み込みで、働かせてもらうこととなった。医院へ徒歩で通える距離にある、木造平屋の集合住宅に部屋を借りることも考えたが。
「敦史みたいな男は多いんですから。女性の一人暮らしは危険です」
「そうよ、琴絵さん。医院に住み込みで良いじゃない」
「部屋なら余るほどあるよ。うちにしなさい、安全だから」
徹平先生、看護婦の夏月、基平先生、琴絵の両親にも反対され、お言葉に甘えることとなった。しかしただで住み込むわけにはいかない為、食事の準備や掃除洗濯は全て、琴絵みずからすすんで引き受けた。「僕がやりますから」「私がやるから」と徹平と基平が遠慮している間に、琴絵はあっという間に終わらせてしまう。もちろん病院の受付業も積極的にこなした。
「ことえさん、折り鶴もういっかいおしえて」
「わたしは、うさぎさんが折りたい」
「おれは、きばのはえた、おっきなトラ!」
待合室の子どもたちから声がかかると、琴絵は「はーい」と受付から出て来て、診療の順番を待つ子どもたちの相手をした。
「すっかり子どもたちの人気者ね、琴絵さん」
お昼休みになると、看護婦の夏月と一緒に御飯をとるのが慣例になった。
「人気者というよりは、同世代の友達のような感覚がするのでしょう。巫女だった時からそうでした。あれよあれよと、子どもたちの遊びの輪に引きずられていく感じです」
「子どもたちが壁を感じないということね。それって凄いことよ。それに琴絵さんが受付をしてくれるおかげで本当に大助かり。ありがとう、あなたは天使だわ、きっと」
夏月はロザリオを取り出すと胸の前で十字を切る。彼女はクリスチャンだった。
「キリストの神か、八百万の神かはいざ知らず、僕も神様が琴絵さんをここに遣わしてくださったという気がしてなりません」
休憩室に徹平が顔を出した。二人から褒めちぎられて、琴絵は「そんなこと、ないです」と恥ずかしそうにうつむき、口をむにむにと波立たせた。
「それはそうと琴絵さん、今日の夜、時間は空いていますか」
「夜ですか? そうですね……いつも通り夕方まで受付のお仕事をして、あとは夕食の支度をするくらいでしょうか」
「そのことなんですが、父は同窓と食事会だそうです。僕らも一緒にでかけませんか」
「徹平先生と御一緒に?」
思ってもみないお誘いだった。一体どこへだろう。
「いつもお世話になっている御礼に食事と、それから児童書を選びに行きたいのです。待合室の本は全部読んだという、未来が楽しみな読書家たちから喜ばしい苦情が寄せられたので」
徹平は苦笑いを浮かべながらも、その口調は楽しげだった。
「喘息持ちの子にとって、読み物は先の不安を和らげてくれる救いだ。琴絵さんの選ぶ本は好評です」
「分かりました。徹平先生のお役に立てるのなら」
「じゃあ、そういうことで。楽しみだなぁ。午後の診療も頑張れそうです」
徹平が退室する。ぽかんとしている琴絵の手を、夏月がすくいとった。
「琴絵さん、楽しみだね! 良かったね! 徹平先生とお出かけだよ」
「えっ、ええと、私は本を選びに、徹平先生に付き添いを……」
「何を言っているの。欧米ではではこういうのを、デートって言うのよ、デートって」
「へぇ。デェート? なんだか不思議な響きですね」
「めいっぱい楽しんでおいで。徹平先生、前から良いお店ないか探していたんだから」
「へ? 前から?」
夏月は「あっ」と自分の口を片手で塞いだ。
「え、ええと、患者様だった琴絵さんを成り行きとはいえ、ここの従業員にしちゃって、家事までさせちゃって、なんだか悪いから御馳走がしたいなぁ、良いところある? って相談されていたのよ。うちの旦那が意外と喫茶店が好きでね、連れ回されて詳しいのよ」
「夏月さんの旦那様、とってもステキでハイカラな御方ですね。喫茶店ですか。噂には聞いたことはございますが、ご縁が無くて。西洋の甘いお菓子をいただくところでしょう」
「徹平先生が御馳走してくれるわよ、きっと」
「うーん。あまりお食事にお金を使って欲しくはないのですが……食べ物っていくらお金をかけても、しばらくしたらまたお腹が空いてしまうので、勿体ないと思うんです」
琴絵は本心から告げたのだが、それを聞いた夏月は真顔だった。
「こんなに欲の無い人、初めて見た。琴絵さんは自分の欲望に正直になった方がいいわ」
「自分の欲望、ですか」
琴絵は考えてみたが特に思いつかず、彼女の煩悩の無さに夏月は頭を抱えた。

患う人が羽休めにしばらく留まる、日だまりに満ちた場所。
傷が完全に治るまで琴絵は、医院の片隅にお邪魔することとなった。
元々この医院は入院患者を基本は受け付けないという。入院が必要な患者様は大きな専門医の元に紹介状を書くそうだが、琴絵の場合は毎日の消毒と、清潔な包帯の交換を必要とする外傷であったので「傷が塞がるまでは、お留まりください」という、春告父子のご厚意に甘える形となった。治療費も滞在費も驚くほどに少額である。これでは申し訳無い、と琴絵の両親が上等な菓子折を包んできたくらいだ。
「うん、出血はしっかり止まったね。化膿しなくて本当に良かった」
包帯を取り替える際、外傷に詳しいという基平がそう告げたので、琴絵は胸をなで下ろす。
「基平先生、すみません。私……頭が臭うでしょう? 夏場ですし、先生に申し訳なくて」
「大丈夫だよ。でも女性なら気になるのは当然だろう。今日から洗髪をして良いよ。うちの看護婦さんに任せよう」
ハルノトリ医院には三十代半ばの一人の看護婦が勤めていた。名を、萩野夏月。既婚者で九歳と十歳の男児二人の母親だ。夏月は近くの住まいから通いで勤めていた。
「さあ、琴絵さん。どうぞこちらへ」
「お手数をおかけします」
夏月は琴絵を風呂場へと誘った。鉄製の寝椅子を持ってくると、洗い場との境にタオルと首枕を敷く。琴絵はとまどいながらもそこに横になった。
「頭部の傷に沁みないように致しますね」
夏月は傷口に触れないよう、髪がからまらないように、丁寧に洗ってくれた。
「私の母がね、髪の美しさには、その人の心が表れると話していたの。触れていると、気持ちが良くてなんだか眠くなってくる。琴絵さんの髪はまさにそう。ねぇ、あとで結わせてくれないかしら」
「お手間になりませんか」
「私、子どもの頃は、妹の髪を結うのが好きだったの。でも生まれてきたのがどっちも男子だから華がないわ、ほんと」
夏月は子育ての苦悩を、笑い話を交えながら話してきかせた。洗髪が終わると、渇いた布でしっかりと水気を拭き取り、櫛を通す。風にさらわれるくらい軽く乾いた頃、庭のベンチに座る琴絵の元に、夏月がやってきた。
「お待たせして御免なさい」
夏月は楽しそうに髪を結い始めた。
「ねぇ、琴絵さんって、妹さんや弟さんがいるの?」
「上に兄と姉が一人ずつおります」
兄は帝都大学で学んでおり、姉は別の家に嫁いだ。
「あら、そうだったの。子どものお相手がお上手だから、なぜだろうと思って」
「巫女として奉仕していた頃、近所の子どもたちの遊び相手にはなっていました」
「なるほど。この前、廊下で、診療に来た子どもさんと話していたでしょ? あなたが膝を折って、あの子と同じ目線に屈んだのを見て感心したの。大人の方と会話する時にも、言葉遣いが綺麗で、物腰が柔らかで……あっ、そうだわ。良いこと思いついた」
左右の三つ編みを肩から胸へ流し、夏月はわくわくとした表情になった。
「ねぇ、琴絵さん。傷が癒えたら、この病院にお勤めになってみない?」
夏月の唐突な提案に、琴絵は仰天した。
「で、でも私……看護婦の資格などは持っていませんし、医療とは無縁で……」
「そうじゃなくって。私が頼みたいのは、医院の受付」
「えっ、受付、ですか」
「そう。貴女のように接遇に優れていて、子どもの相手が上手な御方を探していたところだったの」
夏月は目を星のように輝かせた。お世辞ではなく本心である。
「私が仕事の片手間に、待合室への呼び出しも、会計もやっているでしょ。基平先生と徹平先生も手が空いている時には補ってくださるけど、最近患者様が増えてきて、とても三人では回らなくって。ゆっくりできるのは、この昼休みくらいよ」
「な、なるほど。確かにお忙しくされている印象がありました」
「元々〝受付を雇ったらどうか〟と基平先生たちとも話していたの。以前は、基平先生の奥さんが受付をされていたのだけど数年前に亡くなられてね」
この医院にお世話になり始めてから、琴絵がずっと気になっていたことだった。聞いてはいけないのでは、と。夏月の語るところによれば本当に優しい人だったので、父子の悲しみは大きかったという。
「徹平先生が小児専門だから、うちの医院って待合室に子どもが多いでしょう? とにかく子どもは待つのが苦手でね、相手をしていたら大人の時間が溶けちゃうわ。どう? 考えてくださらないかしら? 先生たちには私から話しておくから」
「願ってもないことですが……本当に私で良いのでしょうか」
「ええ。なんといっても、貴女の纏う春風のような空気感が心地良いのだもの。基平先生も徹平先生も仰っていたわ。琴絵さんがそこにいるだけで安らぐものがあるって」
「お二人が……そのようなことを?」
「ええ。いっそのこと、貴女をお嫁さんに迎えたら良いのに、徹平先生は」
「なっ、い、いい、いきなりなにを」
琴絵は忽ち耳まで真っ赤になった。
「わ、わ、私などが、あんな神様のような人の番になど畏れ多い。罰が当たります」
「あらら、脈無し。徹平先生は案外貴女のことをとても気に入っているようだけどね」
「な、なな、なななな、ないです、それは。夏月さんの勘違いですよ」
「あら、そうかしら? まぁ、それはさておき、前向きに検討してくれる?」
「はい、受付ならば出来そうです。こちらでお世話になったことの恩返しがしたいと思っておりましたから、皆様のお役に立てるのならば、有り難いばかりです」
その後、受付の件はトントン拍子に話が進んだ。
琴絵がハルノトリ医院の受付として働くことを、彼女の両親は諸手を挙げて賛成した。
傷が癒えた後、琴絵は医院に住み込みで、働かせてもらうこととなった。医院へ徒歩で通える距離にある、木造平屋の集合住宅に部屋を借りることも考えたが。
「敦史みたいな男は多いんですから。女性の一人暮らしは危険です」
「そうよ、琴絵さん。医院に住み込みで良いじゃない」
「部屋なら余るほどあるよ。うちにしなさい、安全だから」
徹平先生、看護婦の夏月、基平先生、琴絵の両親にも反対され、お言葉に甘えることとなった。しかしただで住み込むわけにはいかない為、食事の準備や掃除洗濯は全て、琴絵みずからすすんで引き受けた。「僕がやりますから」「私がやるから」と徹平と基平が遠慮している間に、琴絵はあっという間に終わらせてしまう。もちろん病院の受付業も積極的にこなした。
「ことえさん、折り鶴もういっかいおしえて」
「わたしは、うさぎさんが折りたい」
「おれは、きばのはえた、おっきなトラ!」
待合室の子どもたちから声がかかると、琴絵は「はーい」と受付から出て来て、診療の順番を待つ子どもたちの相手をした。
「すっかり子どもたちの人気者ね、琴絵さん」
お昼休みになると、看護婦の夏月と一緒に御飯をとるのが慣例になった。
「人気者というよりは、同世代の友達のような感覚がするのでしょう。巫女だった時からそうでした。あれよあれよと、子どもたちの遊びの輪に引きずられていく感じです」
「子どもたちが壁を感じないということね。それって凄いことよ。それに琴絵さんが受付をしてくれるおかげで本当に大助かり。ありがとう、あなたは天使だわ、きっと」
夏月はロザリオを取り出すと胸の前で十字を切る。彼女はクリスチャンだった。
「キリストの神か、八百万の神かはいざ知らず、僕も神様が琴絵さんをここに遣わしてくださったという気がしてなりません」
休憩室に徹平が顔を出した。二人から褒めちぎられて、琴絵は「そんなこと、ないです」と恥ずかしそうにうつむき、口をむにむにと波立たせた。
「それはそうと琴絵さん、今日の夜、時間は空いていますか」
「夜ですか? そうですね……いつも通り夕方まで受付のお仕事をして、あとは夕食の支度をするくらいでしょうか」
「そのことなんですが、父は同窓と食事会だそうです。僕らも一緒にでかけませんか」
「徹平先生と御一緒に?」
思ってもみないお誘いだった。一体どこへだろう。
「いつもお世話になっている御礼に食事と、それから児童書を選びに行きたいのです。待合室の本は全部読んだという、未来が楽しみな読書家たちから喜ばしい苦情が寄せられたので」
徹平は苦笑いを浮かべながらも、その口調は楽しげだった。
「喘息持ちの子にとって、読み物は先の不安を和らげてくれる救いだ。琴絵さんの選ぶ本は好評です」
「分かりました。徹平先生のお役に立てるのなら」
「じゃあ、そういうことで。楽しみだなぁ。午後の診療も頑張れそうです」
徹平が退室する。ぽかんとしている琴絵の手を、夏月がすくいとった。
「琴絵さん、楽しみだね! 良かったね! 徹平先生とお出かけだよ」
「えっ、ええと、私は本を選びに、徹平先生に付き添いを……」
「何を言っているの。欧米ではではこういうのを、デートって言うのよ、デートって」
「へぇ。デェート? なんだか不思議な響きですね」
「めいっぱい楽しんでおいで。徹平先生、前から良いお店ないか探していたんだから」
「へ? 前から?」
夏月は「あっ」と自分の口を片手で塞いだ。
「え、ええと、患者様だった琴絵さんを成り行きとはいえ、ここの従業員にしちゃって、家事までさせちゃって、なんだか悪いから御馳走がしたいなぁ、良いところある? って相談されていたのよ。うちの旦那が意外と喫茶店が好きでね、連れ回されて詳しいのよ」
「夏月さんの旦那様、とってもステキでハイカラな御方ですね。喫茶店ですか。噂には聞いたことはございますが、ご縁が無くて。西洋の甘いお菓子をいただくところでしょう」
「徹平先生が御馳走してくれるわよ、きっと」
「うーん。あまりお食事にお金を使って欲しくはないのですが……食べ物っていくらお金をかけても、しばらくしたらまたお腹が空いてしまうので、勿体ないと思うんです」
琴絵は本心から告げたのだが、それを聞いた夏月は真顔だった。
「こんなに欲の無い人、初めて見た。琴絵さんは自分の欲望に正直になった方がいいわ」
「自分の欲望、ですか」
琴絵は考えてみたが特に思いつかず、彼女の煩悩の無さに夏月は頭を抱えた。

