ハルノトリのつがい ~白い結婚を求められた元巫女は、白衣の小児科医に溺愛される~

 夢には本人の心からの望みが鏡のように映し出される。青柳(あおやぎ)家に嫁いでからというもの、琴絵は毎晩のように、お世話になっていた神社の夢を見ていた。

 ――戻りたい。あの場所へ。

 ハルノトリ医院の診療台で、神社の祭壇を思い浮かべながら目を閉じたが、こうも思った。嫁入る為に社を去った娘が、今さら戻ったところで、白い目で見られるだけだろうと。離縁したら琴絵にとって居場所は実家の花柳(はなやぎ)家だけだ。しかし近所の者や親類縁者は「花柳(はなやぎ)の出戻り娘」と影で琴絵を冷笑するに違いない、とも。

 ――私、どうしたら良いのかしら。

 心安らぐ居場所がない。本当に帰りたい場所が無い。願望の無い琴絵の心の中は真っ暗で、その日彼女は久し振りに夢も見ないほど、意識の深淵に落ちた。新月の如き闇に包まれた眠りだったので、目覚めた時、診療室の窓辺から差す朝の光が、眩しく感じられた。

「おはよう、琴絵さん」

 声がした方を見ると、診療机で書き物をしていた青年が顔を上げる。

「徹平先生。おはよう……ございます」
「よく眠れました?」
「ええ、夢も見ないほど、ぐっすりと」
「それは良かった。湿布と包帯を変えましょう」

 徹平はそう言うと、医療道具の載った籠を診療台の側に引き寄せ、琴絵が身体を起こすのを手伝った。

「あの。徹平先生は眠ったのですか」
「僕は大丈夫ですよ」

 眠っていないのだ、一睡も。自分のせいだ、と琴絵は申し訳なさで一杯になった。

「実は、さっき帰ってきたのです。貴女のご両親と一緒に」
「えっ、両親と?」
「ええ。貴女はお薬がきいて眠っていらっしゃいましたが、怪我の具合をご覧になり、とても心配されていました。父の基平が別室で、琴絵さんのご両親に事情を説明してくださっています」

 琴絵の心臓が激しく脈打ち出す。自分が眠っている間にも、基平と徹平に迷惑をかけた上に、両親にも多大な心配をかけてしまった。

「あの。私、自分で両親に話さなければならないことが……」
「それはあとでも構いません。父の基平は、敦史の性格を昔からよく存じています。ご両親が知らない敦史の本性を、よーく。貴女が後から話しやすいように父が取り次いでくれますから、ご安心を。さあ、御顔をこちらへ向けて」

 徹平は、琴絵の頬に貼られた湿布をゆっくりと剥がす。少々ヒリヒリとした感覚はあったが、空気に触れた患部から湿布薬独特の清涼な香りがした。

「湿布でかぶれてしまうかもしれませんね。頬の腫れは大分引いていますから半日はこのままにしておきましょう。日に当たるといけないので拭きますね」

 徹平はおしぼりで湿布材でべたつく頬を拭き取ってくれた。

「痛くないですか」
「だ、大丈夫です」

 ――気持ちいい。なんて優しくて大きな手かしら。

「徹平先生、ありがとうございます」
「いえいえ。医師として当然ですよ。それに……」
「それに?」
「貴女のように心が綺麗な人を、敦史が傷付けたことが許せなくて」

 琴絵は「えっ」と驚いて目を見開いた。

「医師として毎日人を診ていますから。分かるのです。患者が嘘をついているか、そうでないか、心根が澄んでいるかまで。特に僕の専門は小児ですからね。子どもだけでなく親も同時に見ていると、子は親の鏡だということがよく分かる」
「子は親の……」

 ふと頭をよぎったのは、亡くなった(はじめ)の姿だ。彼は本当に敦史の父親だったのだろうか。

「琴絵さん。亡くなった(はじめ)さんのことを考えたでしょう、今」
「ど、どうして分かったのですか。徹平先生は私の心が読めるの?」
「まぁ、少しだけ。死人に鞭打つようで申し訳ないが……子の罪は親の罪です。貴女は(はじめ)さんを良い御仁だと思っていたでしょう。僕もあの老いた姿を見たら、過去の遺恨など責める気など起こりませんでした。晩年の彼と、若い頃の彼では、まるで別人です」
「若い頃?」
「ええ、そうです。現在の敦史の姿は、僕が幼い頃に見ていた(はじめ)さんの姿そのままですから」

 琴絵は言葉に詰まってしまった。ずっと考えないようにしていたことだった。なぜ敦史はあのような性格になってしまったのだろう、と。琴絵の知らない、若い頃の(はじめ)の姿を真似ていたというのなら納得がいく。だが、そうは思いたくない自分も琴絵の中にいた。なぜなら(はじめ)は最期まで琴絵に優しかったからだ。

「琴絵さんはご両親によく似ていらっしゃる」
「えっ」
「お優しい顔立ち。澄んだ心。悪い人に騙されないかと、余計な心配をしてしまうほどに真っ直ぐなお人柄だ。既に騙されてしまったあとなのが辛い。僕は貴女の力になりたい」

 徹平は頭に巻いた包帯を取り替えながら、今にも泣き出しそうな声色で告げた。まるで自分のことのように悲しんで、共感して、琴絵の力になろうとしてくれている。

「傷が治るまでは、しばらく当院にご滞在できるように、父が貴女のご両親に話してくださっています。頬の腫れはもちろん頭の外傷に細菌が入っては大変だ。うちは内科医ですが、父は軍医(ぐんい)の経験がありますから、外傷(がいしょう)にも詳しいのです」

 聞けば聞くほど驚くことばかりだ。
 腕の立つ経験豊富な名医とのご縁は、神様のお導きだろうか、と。
 琴絵が「これは現実かしら」と夢うつつで宙を見つめていると、チリンチリン、と病院の玄関が鳴った。

「おや? まだ開業時間ではないのですが……誰だろう」

 徹平は包帯をキュッと結ぶと、診療室を出る。病院の玄関口から何やら話し声が聞こえてきた。

 ――急患かしら? だとしたら私、ここにいたらお邪魔かもしれないわ。

 琴絵は診療台から立ち上がろうとした。


「おい、琴絵は、ここにいるんだろう!」


 敦史の怒鳴り声が聞こえてきたので、琴絵は身を竦ませた。

「いないです。どうかお引き取りを」
「嘘をつくな、徹平。血の痕がおまえの医院へ続く道に残っていたんだ。おまえが治療をしたんだろうが。ったく大した怪我でもないのに、病院なんかにかかりやがって。馬鹿高い治療費を請求されたら、たまったもんじゃない。とにかく、妻を家に連れ帰らせてもらう。どこだ!」
「おい! 勝手に入るな!」

 徹平が止めるのも聞かず、ドカドカと琴絵の恐怖心を煽る足音が診療室へ迫る。

 ――見つかる! 嫌だ、帰りたくない!

 診療室から逃げようとするが、立ちくらみが襲った。止血し、傷口を消毒したとはいえ、万全とは程遠い。それでも逃げようと膝に力をこめるが、足音が診療室のすぐ目の前で立ち止まった。敦史が扉を開けるかと思いきや、彼はその場から動こうとしない。

「えっ、いやあの、待ってください。なぜ……お二人が、ここに?」

 敦史の戸惑う声と、後ずさる足音が、診療室の扉越しに聞こえた。

「今、こちらの先生から全てをうかがったところだよ、敦史くん」
 ――これは……お父様の声だわ。

「貴女は娘を殺さんばかりの酷い仕打ちをしたそうじゃないの」
 ――お母様の声。とても……怒っているわ。

「殺す? いやいや、待ってください! あれはぶつかっただけですって。親しい友人が来ていて、酒も入り、話が弾んで……廊下にいる琴絵に気付かず……あの、ですから」

 敦史の声が弱々しいものになり、彼はすっかり口ごもってしまった。

「今、院長先生と話して、警察を呼ぼうかと相談していたところだよ」
「け、警察ですって! 大げさな! 昨夜のことは事故ですって!」

 敦史は素っ頓狂な声を上げた。

「今し方、貴方の大声が聞こえたわよ。あれだけの怪我をしながら、病院にも付き添わず、治療費を心配する大声がね。ご安心を、青柳(あおやぎ)家からは一文もいただきませんわ」

「流石あの見窄(みすぼ)らしい葬式を上げた青柳(あおやぎ)家だ。仮にも君の実父だというのに、まるで密葬だったではないか。やはり葬儀の日に、娘を連れ帰るべきだった。大事(おおごと)にされたくなければ今後二度と、娘には近付かないでもらいたい。娘とは離縁していただく」

 琴絵の両親に気圧され、敦史はぐうの音も出ぬようであったが。

「ああ、そうですか。こちらとて清々しますよ! お達者で」

 敦史は言葉を殴り捨てるように吐くと、粗野な足音をわざと大きく響かせて、ハルノトリ医院をあとにした。

 ――行って……しまった。

 突然訪れた安寧についていけず、琴絵はその場に崩れ落ちる。すると診療室の扉が開いて、両親が中へ入ってきた。

「琴絵、起きていたのかい?」
「あの男の声で目が覚めてしまったのね、可哀想に」

 両親は琴絵を左右からそっと抱きしめた。

「ごめんなさい、琴絵。私たちが不甲斐ないばかりに」
「あんな男だとは思いもしなかったのだ。本当に悪かった」
「お父様とお母様の……せいではございませんわ」

 ――二人とも騙されただけだもの。恩義に厚く、私も両親も人を助けたかっただけ。

 徹平は先程「ご両親と琴絵さんは似ている」と語った。

 ――本当にその通り。お人好しにも程がある。私も、両親も。

 けれど誰のせいでもないのだ。誰かが悪いと指差し続ける限り、因果は連鎖していくのだから。「お達者で」と捨て台詞を吐き、尻尾を巻いて逃げた敦史のような臆病者を憎むだけ損である。

 ――人を助けようとして、どうしてこんな目に? ただ……幸せに、なりたかったなぁ。

 診療室の小さな日だまりの中で、琴絵の頬を一筋の涙が伝った。