ハルノトリのつがい ~白い結婚を求められた元巫女は、白衣の小児科医に溺愛される~

 月の都は死者の住まう冥土なのだろうか。
 それとも神様の住まう天国のような場所なのだろうか。
 月を見上げる度に、巫女であった時間のことを琴絵は思い出す。月に想いを馳せていたのは、子どもたち「月」に纏わる御伽噺を読み聞かせていたからだ。

「ねぇ、琴絵さん。なにかおはなしをきかせて」

 神社の近所に住まう子どもたちは、度々境内へ遊びに来て、琴絵に読み聞かせをせがんだりした。つらいことがあって、琴絵に相談に来る子もいた。そういう時、琴絵は「月」にまつわる御伽噺を語った。人間は不思議なもので、太陽の物語を聞くと目が覚め、月の物語を聞くと心癒されるのだ。

 ――なんだか自分まで眠くなってきてしまったわ。

 読み聞かせをしながら、自分までうっかりうとうとすることもあった。神事などで疲れたあとは特に。子どもたちの「起きて、琴絵さん」という声で目覚める。そんな日々を懐かしく思いながら、琴絵は夢の中で微笑んだ。


「ひどい怪我だ。琴絵さんに、なんてことを……」
「でもご覧。何か良い夢を見ているのだろうね、笑っておる」


 若い男の声と、しわがれた男の声が交互に聞こえた。片方は聞き覚えのある声だ。確かめようと、重いまぶたをゆっくりと開ける。

「あっ、目が覚めましたね。良かった、心配しましたよ」

 白衣を纏ったその青年の目には、涙の膜が張っていた。

「徹平……先生?」
「ええ。僕ですよ」

 徹平は、寝台に横になっている琴絵の手を取ると「本当に良かった」と涙した。

「おはよう。いや、こんばんは。まだ夜だったね」

 徹平の隣から、彼より遥かに年上の白衣の男が琴絵をのぞき込む。丸渕のメガネの奥で、皺の寄った目元が笑みに細められた。

「私は基平(きへい)。徹平の父親だ。気分はどうかね」

 ――徹平先生のお父様? そう、この御方が……。初めてお会いするわ。

 琴絵はもう少し目を開いて、相手の顔をよく見ようとしたが、こめかみが針を刺したように痛む。鏡がないので琴絵には分からないが、頭の傷口に止血が施されていた。

「あの。ここは……ひょっとして病院……痛っ」

 頬にも痛みが走り、琴絵は眉をしかめる。敦史にぶたれて腫れ上がった頬には湿布が貼られていた。

「ここはハルノトリ医院だよ。貴女は病院の前で倒れていたんだ。ちょうどうちの徹平が往診から帰ってきてね。病院の前に人が倒れているというんで驚いたよ」

 病院へ向かおうとしたことまでは琴絵も微かに憶えていた。必死に足を前へ前へと動かしたことも。しかし病院まであと一歩というところで意識が途切れてしまったのだ。

「ご迷惑を……おかけ、して」
「謝ってはいけない。貴女が謝ることはない。そのひどい怪我でよくここまで歩いてきたね。一体誰にやられたんだね? それはただの怪我ではないね」
「それは……」

 夫に、と言いかけて琴絵は口を閉じる。夫に暴力を振るわれた理由も全て、芋づる式に語らねばならないのではないか。自分が女としても妻としても見られておらず、無給で働かせることのできる女中程度の存在であったと、口にすることが悔しかった。

「敦史が貴女に暴力を働いたのではないですか」

 徹平が険しい面持ちで言い放ったので、琴絵は目を剥いた。

「妻の琴絵さんが怪我をしたのに、夫である敦史が側にいない。敦史は癇癪持ちで冷たいところがあるからね。よく知っている。僕も殴られたことがありますよ、彼に」
「その時のことならよーく憶えているよ。父親である私の方がよく憶えているくらいだ。彼ならやりかねない。徹平の申す通りならば、琴絵さん、素直にそうだと仰って欲しい」

 琴絵はしばし悩んだあと、震える唇を薄く開いた。

「そう……です」

 たった四文字。それだけで琴絵の目から涙が溢れて止まらなくなった。泣いてはいけない、強くあらなければ、と言い聞かせても抑えることはできない。悔しい、辛い、寂しい、痛い、哀しい。ありとあらゆる感情が混濁し、琴絵の魂が悲鳴を上げていた。

「お手を煩わせてすみません。あの、治療のお支払いを……」

 琴絵は身を起こそうとした。しかし徹平と基平は同時に、琴絵の肩にそっと手を添えると寝台へ優しく押し戻した。

「その心配はいいから。貴女は寝ていなさい」
「父さんの言う通り。琴絵さんは休むべきです」

 医師の親子は「休みなさい」と息ぴったりで声を揃えた。

 ――似ているわ。基平先生と徹平先生。そっくり。

「痛み止めの薬を飲んで眠りなさい。睡眠が一番だ。徹平、水と薬をここへ」
「はい、父さん」

 徹平が水と薬を盆に載せて持ってきた。

「少しだけ起き上がりましょうか」

 徹平に介助してもらいながら、ゆっくりと上半身を起こす。横になった状態では部屋の全体がよく分からなかったが、診察道具や整理中のカルテが並んだテーブルを見て、ここが診療室であることを琴絵は理解した。

「あの。診療台を私が使うわけには……」
「貴女は急患なのですから、ここは貴女の為の場所ですよ。はい、飲んで」

 徹平に渡された痛み止めの薬を、言われた通り琴絵は飲んだ。

「さあ、休んで」

 促されるがまま、再び枕に頭をあずける。落ち着いたのもつかの間、途端に不安が襲ってきた。そうだ、自分は嫁ぎ先の家を飛び出してきたのだ、と。怪我をした後の突発的な行動だった。後悔は無いが、このまま放置してはいけない気がした。

「悩み事が両手の数では足りなそうな顔をしているね」

 基平は心配そうに、頬の片方が腫れ上がり頭に包帯を巻いた琴絵を見つめた。

「もしも眠れないのなら、眠くなるまで、話してくれて構わないよ。大丈夫、私も徹平も医師の端くれだ。看た人のことは他言しないよ」
「困った状況なら、力になりたいんです。(はじめ)さんが亡くなったことで、琴絵さんは難しい状況に置かれているのではないですか」

 ――こんなに優しい方達がいるなんて。

 身体の端々まで沁み渡るような安心感に琴絵は包まれた。嫁ぎ先を出たものの、この先のことを考えると、出口の見えない洞窟を歩いていくようで、眠るのも怖かった。お言葉に甘えて、眠くなるまで事情を話そう。

「実は……」

 琴絵はこれまでの経緯を二人に語った。

 青柳(あおやぎ)家を支える為に、巫女をやめて、嫁いできたこと。

 花柳(はなやぎ)家は青柳(あおやぎ)家に恩があり、それを返す為であったこと。

 だが敦史にはカナエという愛人がいて、娘が生まれたばかり。

 白い結婚を求められた自分は、患っていた(はじめ)の介護をする為、そして世話を焼く女中の給金を浮かす為に、嫁として求められたこと。

 さらに敦史は地方の支社へ異動を願い出ており、琴絵を墓守の嫁にして、屋敷に残していくつもりだったことを。それを琴絵に聞かれたと分かって、敦史が暴力を振るったことを。

 ――ああ。嫁ぎ先の恥を全部他人にさらしてしまった。私はなんて女かしら。

 そう思いながらも「助けて欲しい」という気持ちが勝って、琴絵は事情を話すのを止められなかった。

「お世話になりました、と敦史さんに御挨拶申し上げて、青柳(あおやぎ)の屋敷を飛び出しましたが、私は無計画でした。花柳(はなやぎ)の実家にも事情を伝えねば……。離縁するにも、敦史さんを交えて話し合いの場を設けなければ……ああ私はなんて考えが足りなかったのでしょう」

「貴女と敦史さんは、二度と顔を合わせてはいけない。あの男は危険だ」

 基平がそのように言葉を挟んだので、琴絵は目をしばたいた。

「二人きりで話すような真似だけは避けなければ。せっかくの治療も台無しだ。花柳(はなやぎ)家と言ったね? お家はどこだい? 琴絵さんがいなくなったので、敦史さんが花柳(はなやぎ)家に行くかもしれない。手紙では遅い。早いほうが良いだろう。私が行って話を……」
「お父さん、僕が行きます」
「徹平、おまえが?」
「琴絵さんを当院でお預かりしている旨をまずは伝えます。酷い怪我ですから安静第一に治療が必要です。ご両親を当院へお連れ致しましょう。命を落としてもおかしくない怪我だったのですから、離縁には十分な理由です。琴絵さん、ご実家の住所を教えて下さい」

 琴絵は筆を借りると、徹平の差し出した手帳に、花柳(はなやぎ)家の住所を記した。

力車(りきしゃ)を借りれば近いですね。では行って参ります」
「気をつけてな、徹平」

 徹平は「はい」と返事をすると、医院を後にした。

「お手数をおかけして……」
「いいんだよ。少し眠そうな顔をしている。話し疲れたのではないかい?」
「いいえ……。きっと先程のお薬が効いてきたのだと思います」
「それは良かった。眠い時に寝るのが一番だよ。さあお休みなさい」

 お言葉に甘えて琴絵は目を閉じた。消毒剤のにおいのするその小さな部屋で。

 ――なんてあたたかい場所なの、ここは。

 掛け毛布を喉元までたぐり寄せる。温もりが彼女を夢へ誘った。