梅雨入り前に、青柳家の当主、肇が亡くなった。
敦史が喪主となり、青柳家にて細やかな葬儀が行われたが。
――当主が亡くなったのに、まるで密葬のようだわ。なんて質素なのかしら。
親類縁者に訃報を報せるのを、新しい当主となった敦史が渋ったからだ。
「葬儀には金がかかる。うちは戒名が無いのに、神式でもこんなにかかるのか」
敦史は葬儀が始まってからも、事あるごとに文句を唱え、舌打ちを忍ばせた。
――お葬儀で舌打ち? なんて人なの。
葬儀の間、琴絵の不満は膨らむばかりであった。数少ない参列者にお出しする精進料理、別れの杯、その他葬儀の雑用全てを琴絵はこなした。巫女だった時から、働き者だった琴絵にとって、多忙を極める葬儀の間は、先の不安も夫への憤りも忘れさせてくれたので、ある意味では救いであった。
しかし、肇が荼毘に付され、初七日を過ぎると状況が変わった。
――これからどうしたら。愛の無い夫と、白い結婚をした身のままなの?
新しい当主となった敦史の意向をうかがわねばならないと思った矢先のこと。肇が亡くなって十日目の夜に、大学時代からの敦史の友人という男が青柳家を訪れた。
「やあ、はじめまして。俺は浦部渉です。貴方が敦史の奥さんの、琴絵さん?」
「はい。主人がいつもお世話になっております」
「いやいや、敦史と会うのは何年ぶりか。仕事で遠方に出向いておりましてね。所帯を持ったことはうかがっていたが長らく顔を見ていなかったもので。肇さんのご訃報を聞いて、心配で寄ったまでのこと」
「ありがとう、渉。さあどうぞ中へ。――おい、琴絵。酒を持ってこい」
敦史は応接間に渉を通す。琴絵が日本酒と肴を持っていくと。
「ああ、そこに置いてくれ。おまえは下がっていい」
琴絵は言われたとおり台所へ下がった。
すると喪中の家とは思えないほどの大きな笑い声が聞こえて来た。
――何だか楽しそう。渉さんとの再会がそんなに嬉しいのかしら。
応接間があまりに賑やかなので、琴絵は気になり、そろりと台所を出た。縁側を進んで行くと、襖の向こうから二人の話し声が聞こえてきた。お酒が入っているせいか、お互いどちらも豪快な口調である。
「良い嫁をもらったじゃないか、敦史。気立てが良くて美人で」
「そうか? 聞いて驚け、琴絵は元巫女だったんだ」
「どうりで、礼儀作法がなっていると思った。どこで縁があったんだ?」
「先祖が同じ殿様に仕えていたそうでな。死んだ親父の口利きさ。まぁしかし、見ての通りあの寸胴だ。女としての魅力がない。カナエと比べると、まるで幼くてなぁ、手を出す気にもならん」
「確かに、そう言われて見れば、比べるまでもなくカナエさんの方が美人だなぁ。いやぁ、失敬」
――カナエ? もしや旦那様の愛人?
琴絵は敦史の愛人について多くを知らなかった。名前すらも。
「赤子が生まれたと聞いたが、元気か」
赤子。その一言で琴絵は膝から力が抜けた。壁に寄りかかった際に、縁側が少し軋んだが、応接間の二人は出来上がっていて、聞き耳を立てている琴絵の存在に気付いていない。
「カナエにそっくりだ。目元は俺に似ている。可愛くて仕方がない」
「すっかり子煩悩だな」
「そうさ。どうだ、うらやましいだろう」
敦史の上機嫌な笑い声が、琴絵を打ちのめす。愛人に子どもが生まれていたというだけではなく、溺愛しているのだ。
「ところで琴絵さんは、カナエさんに娘が生まれたことを、知っているのか?」
「酒が不味くなるようなことを言うなよ。知るわけがない」
「正妻との間に子どもをもうける気はないのか」
「琴絵と? 冗談じゃない。だが花柳家の不興を買ってもなぁ。すぐに離縁したいがそうもいかないのだ。そこでだ、地方の新聞社に異動願いを出した」
――異動願い? そんな話、私は一言も聞いていない。
「地方に支社を設けるというので人材を募集していてな。俺がちょうどはまり役だったというわけさ。近くに住まいを借りて、カナエと娘をそちらへ引っ越させるのさ」
「琴絵さんは?」
「あれは、亡くなった親父の墓守に、この屋敷に置いていく」
――墓守? 私が……この屋敷に?
「まるでお荷物だな。そんなに煩わしいならなぜ嫁などもらったんだ。カナエさんを妻に迎えれば良かったというのに。そんなに花柳家に義理があるのか?」
「馬鹿。うちは恩を返してもらっただけだよ」
敦史は、青柳家が昔、花柳家の窮地を救った経緯を、渉へ饒舌に話して聞かせた。
「親父が資産をぼったくられたせいで、うちは女中を雇う余裕も無かった。そんな親父が患ってしまった。面倒を見てもらうのに都合が良かったから、嫁を取ったまで」
――都合が良かった。そうだ、それは……もうずっと分かっていたはずなのに。
琴絵の目が涙で潤む。この場から逃げ出してしまいたい。けれど敦史の本音を襖越しに聞き続ける。ここまで来たらもうどんな残酷な現実も全て知ってしまいたかった。
「実質タダで、家事と介護を全てこなしてくれるんだぞ。嫁をもらう方が金が浮くからさ。おかげでカナエとも、生まれたばかりの娘とも過ごす時間が増えた。まったく良い嫁をもらったよ。元巫女なんて、従順で大人しくて女中よりも使い勝手が良い」
敦史の侮辱が、琴絵の心を八つ裂きにした。もうここまで聞けば十分だ。その場を立ち去ろうとしたその時だった。
「俺、ちょっとしょんべんに出てくらぁ」
敦史が襖を開けて、廊下に出て来たのである。彼は廊下の真中に佇む、涙に濡れた琴絵の面持ちを見るなり、顔をしかめた。
「琴絵。おまえ……聞いていたのか」
「はい」
「どこまで?」
「さあ。まだ私の知らないことが、たくさんありそうな気が致します」
「なんだその口調は。主人の話を盗み聞きとは、なんという女だ!」
敦史はドカドカと琴絵に近付く。敦史の手が風を切り、琴絵の頬がカッと熱を帯びる。ぶたれた琴絵は壁にたたきつけられ、その場に膝を崩した。
「この阿婆擦れが!」
「お、おい、敦史!」
渉が引き止めるも、敦史の足が倒れ込んだ琴絵を蹴り上げた。俵のように転がった琴絵の頭部から生ぬるいものが垂れ出る。
――血だわ。血が出た。
時を同じくして月も出たので、廊下に広がった小さな血だまりは、敦史と渉の目にも明らかとなった。敦史はさらに琴絵を殴ろうと振りかぶった拳を止める。琴絵が額を抱えながらゆっくりと身を起こすと、お化けでも見るような目で敦史は後ずさった。
「お、俺のせいじゃない。おまえのせいだぞ! おまえがそんな暗いところに立っているからだ! 俺はぶつかっただけだ!」
敦史は急に喚き始めた。琴絵を助けようとしない。動転している敦史にかわり、見かねた渉が廊下に出て来て、倒れている琴絵のそばに膝を落とした。
「大丈夫ですか? すぐに止血を……」
血まみれの右手が弱々しく振られ、渉の助けを拒んだ。この渉という男は、敦史に同調していたからだ。琴絵のことを心配などしていない。
――私は全てを受け入れてきた。私は全てを我慢してきた。でも……。
琴絵は両手の先を合わせ縁側に添えると、崩れていた膝を正して敦史に頭を垂れた。
「旦那様、これまでお世話になりました」
恨み言も、反論の一切も全てを呑み込んだ。それから何かに突き動かされるように、北向きの自室へ向かった。嫁入りの際に親から持たされた箪笥金と、僅かな私物を鞄に無造作に放り込む。頭の出血を止める為、麻布を軽く一回りさせてほどけないよう固く結んだ。
「おい、どこへ行くんだ。おい!」
敦史が怒鳴り散らし、琴絵の肩を乱暴につかむ。途端、敦史の指先に生温かい感覚が広がった。琴絵の頭から垂れた血が、着物を濡らしていたからだ。
「ひっ、気持ち悪い!」
真っ赤に染まった指先を見て、敦史はパッと手をのける。着物の袖で拭くも血が拭いきれないので、舌打ちすると手洗い場へと駆けていった。
――今のうちだわ。
出血のせいか琴絵の視界が左右に眩む。おぼつかない足取りではあったが、彼女は歩みを止めない。「今すぐにこの家を出なさい」と誰かが背中を押しているような錯覚を覚えた。
「ごめんね、琴絵さん、ごめんね」
一瞬、亡くなったはずの肇の声が、琴絵には聞こえた。それは頭部の傷がもたらした幻聴だったのかもしれない。だが琴絵は確かにその時、最後を看取った肇の魂を感じた。
「肇さんのせいでは、ない、ですよ」
青柳家の扉を開ける。外に出ると丸い月明かりが彼女に降り注いだ。
――病院に行かなくては。
どれだけお金がかかるのか分からない。箪笥金で足りるだろうか。だが敦史が病院へ付き添ってくれるはずもない。敦史の友人の渉も、玄関先に突っ立って、家を出て行く血まみれの花嫁を呆然と見送っているだけだ。
――白い結婚では無かったわ。私、真っ赤になってしまった。
琴絵の行く月夜の道に、赤い痕がボトンボトンと零れていく。しばらく歩き続けていると、止血の麻布が解け、はらりと肩にかかった。琴絵は固く結んだつもりだったが、怪我をしたあとだったので、彼女が思うほど結び目は強くなかったのだ。
牡丹がまた一つ地面に咲いた。
――寂しい。哀しい。
琴絵の目から涙がこぼれる。膝から崩れ落ち、冷たい砂利道へ倒れ込むと、月に見守られながら彼女は眠りに落ちた。

敦史が喪主となり、青柳家にて細やかな葬儀が行われたが。
――当主が亡くなったのに、まるで密葬のようだわ。なんて質素なのかしら。
親類縁者に訃報を報せるのを、新しい当主となった敦史が渋ったからだ。
「葬儀には金がかかる。うちは戒名が無いのに、神式でもこんなにかかるのか」
敦史は葬儀が始まってからも、事あるごとに文句を唱え、舌打ちを忍ばせた。
――お葬儀で舌打ち? なんて人なの。
葬儀の間、琴絵の不満は膨らむばかりであった。数少ない参列者にお出しする精進料理、別れの杯、その他葬儀の雑用全てを琴絵はこなした。巫女だった時から、働き者だった琴絵にとって、多忙を極める葬儀の間は、先の不安も夫への憤りも忘れさせてくれたので、ある意味では救いであった。
しかし、肇が荼毘に付され、初七日を過ぎると状況が変わった。
――これからどうしたら。愛の無い夫と、白い結婚をした身のままなの?
新しい当主となった敦史の意向をうかがわねばならないと思った矢先のこと。肇が亡くなって十日目の夜に、大学時代からの敦史の友人という男が青柳家を訪れた。
「やあ、はじめまして。俺は浦部渉です。貴方が敦史の奥さんの、琴絵さん?」
「はい。主人がいつもお世話になっております」
「いやいや、敦史と会うのは何年ぶりか。仕事で遠方に出向いておりましてね。所帯を持ったことはうかがっていたが長らく顔を見ていなかったもので。肇さんのご訃報を聞いて、心配で寄ったまでのこと」
「ありがとう、渉。さあどうぞ中へ。――おい、琴絵。酒を持ってこい」
敦史は応接間に渉を通す。琴絵が日本酒と肴を持っていくと。
「ああ、そこに置いてくれ。おまえは下がっていい」
琴絵は言われたとおり台所へ下がった。
すると喪中の家とは思えないほどの大きな笑い声が聞こえて来た。
――何だか楽しそう。渉さんとの再会がそんなに嬉しいのかしら。
応接間があまりに賑やかなので、琴絵は気になり、そろりと台所を出た。縁側を進んで行くと、襖の向こうから二人の話し声が聞こえてきた。お酒が入っているせいか、お互いどちらも豪快な口調である。
「良い嫁をもらったじゃないか、敦史。気立てが良くて美人で」
「そうか? 聞いて驚け、琴絵は元巫女だったんだ」
「どうりで、礼儀作法がなっていると思った。どこで縁があったんだ?」
「先祖が同じ殿様に仕えていたそうでな。死んだ親父の口利きさ。まぁしかし、見ての通りあの寸胴だ。女としての魅力がない。カナエと比べると、まるで幼くてなぁ、手を出す気にもならん」
「確かに、そう言われて見れば、比べるまでもなくカナエさんの方が美人だなぁ。いやぁ、失敬」
――カナエ? もしや旦那様の愛人?
琴絵は敦史の愛人について多くを知らなかった。名前すらも。
「赤子が生まれたと聞いたが、元気か」
赤子。その一言で琴絵は膝から力が抜けた。壁に寄りかかった際に、縁側が少し軋んだが、応接間の二人は出来上がっていて、聞き耳を立てている琴絵の存在に気付いていない。
「カナエにそっくりだ。目元は俺に似ている。可愛くて仕方がない」
「すっかり子煩悩だな」
「そうさ。どうだ、うらやましいだろう」
敦史の上機嫌な笑い声が、琴絵を打ちのめす。愛人に子どもが生まれていたというだけではなく、溺愛しているのだ。
「ところで琴絵さんは、カナエさんに娘が生まれたことを、知っているのか?」
「酒が不味くなるようなことを言うなよ。知るわけがない」
「正妻との間に子どもをもうける気はないのか」
「琴絵と? 冗談じゃない。だが花柳家の不興を買ってもなぁ。すぐに離縁したいがそうもいかないのだ。そこでだ、地方の新聞社に異動願いを出した」
――異動願い? そんな話、私は一言も聞いていない。
「地方に支社を設けるというので人材を募集していてな。俺がちょうどはまり役だったというわけさ。近くに住まいを借りて、カナエと娘をそちらへ引っ越させるのさ」
「琴絵さんは?」
「あれは、亡くなった親父の墓守に、この屋敷に置いていく」
――墓守? 私が……この屋敷に?
「まるでお荷物だな。そんなに煩わしいならなぜ嫁などもらったんだ。カナエさんを妻に迎えれば良かったというのに。そんなに花柳家に義理があるのか?」
「馬鹿。うちは恩を返してもらっただけだよ」
敦史は、青柳家が昔、花柳家の窮地を救った経緯を、渉へ饒舌に話して聞かせた。
「親父が資産をぼったくられたせいで、うちは女中を雇う余裕も無かった。そんな親父が患ってしまった。面倒を見てもらうのに都合が良かったから、嫁を取ったまで」
――都合が良かった。そうだ、それは……もうずっと分かっていたはずなのに。
琴絵の目が涙で潤む。この場から逃げ出してしまいたい。けれど敦史の本音を襖越しに聞き続ける。ここまで来たらもうどんな残酷な現実も全て知ってしまいたかった。
「実質タダで、家事と介護を全てこなしてくれるんだぞ。嫁をもらう方が金が浮くからさ。おかげでカナエとも、生まれたばかりの娘とも過ごす時間が増えた。まったく良い嫁をもらったよ。元巫女なんて、従順で大人しくて女中よりも使い勝手が良い」
敦史の侮辱が、琴絵の心を八つ裂きにした。もうここまで聞けば十分だ。その場を立ち去ろうとしたその時だった。
「俺、ちょっとしょんべんに出てくらぁ」
敦史が襖を開けて、廊下に出て来たのである。彼は廊下の真中に佇む、涙に濡れた琴絵の面持ちを見るなり、顔をしかめた。
「琴絵。おまえ……聞いていたのか」
「はい」
「どこまで?」
「さあ。まだ私の知らないことが、たくさんありそうな気が致します」
「なんだその口調は。主人の話を盗み聞きとは、なんという女だ!」
敦史はドカドカと琴絵に近付く。敦史の手が風を切り、琴絵の頬がカッと熱を帯びる。ぶたれた琴絵は壁にたたきつけられ、その場に膝を崩した。
「この阿婆擦れが!」
「お、おい、敦史!」
渉が引き止めるも、敦史の足が倒れ込んだ琴絵を蹴り上げた。俵のように転がった琴絵の頭部から生ぬるいものが垂れ出る。
――血だわ。血が出た。
時を同じくして月も出たので、廊下に広がった小さな血だまりは、敦史と渉の目にも明らかとなった。敦史はさらに琴絵を殴ろうと振りかぶった拳を止める。琴絵が額を抱えながらゆっくりと身を起こすと、お化けでも見るような目で敦史は後ずさった。
「お、俺のせいじゃない。おまえのせいだぞ! おまえがそんな暗いところに立っているからだ! 俺はぶつかっただけだ!」
敦史は急に喚き始めた。琴絵を助けようとしない。動転している敦史にかわり、見かねた渉が廊下に出て来て、倒れている琴絵のそばに膝を落とした。
「大丈夫ですか? すぐに止血を……」
血まみれの右手が弱々しく振られ、渉の助けを拒んだ。この渉という男は、敦史に同調していたからだ。琴絵のことを心配などしていない。
――私は全てを受け入れてきた。私は全てを我慢してきた。でも……。
琴絵は両手の先を合わせ縁側に添えると、崩れていた膝を正して敦史に頭を垂れた。
「旦那様、これまでお世話になりました」
恨み言も、反論の一切も全てを呑み込んだ。それから何かに突き動かされるように、北向きの自室へ向かった。嫁入りの際に親から持たされた箪笥金と、僅かな私物を鞄に無造作に放り込む。頭の出血を止める為、麻布を軽く一回りさせてほどけないよう固く結んだ。
「おい、どこへ行くんだ。おい!」
敦史が怒鳴り散らし、琴絵の肩を乱暴につかむ。途端、敦史の指先に生温かい感覚が広がった。琴絵の頭から垂れた血が、着物を濡らしていたからだ。
「ひっ、気持ち悪い!」
真っ赤に染まった指先を見て、敦史はパッと手をのける。着物の袖で拭くも血が拭いきれないので、舌打ちすると手洗い場へと駆けていった。
――今のうちだわ。
出血のせいか琴絵の視界が左右に眩む。おぼつかない足取りではあったが、彼女は歩みを止めない。「今すぐにこの家を出なさい」と誰かが背中を押しているような錯覚を覚えた。
「ごめんね、琴絵さん、ごめんね」
一瞬、亡くなったはずの肇の声が、琴絵には聞こえた。それは頭部の傷がもたらした幻聴だったのかもしれない。だが琴絵は確かにその時、最後を看取った肇の魂を感じた。
「肇さんのせいでは、ない、ですよ」
青柳家の扉を開ける。外に出ると丸い月明かりが彼女に降り注いだ。
――病院に行かなくては。
どれだけお金がかかるのか分からない。箪笥金で足りるだろうか。だが敦史が病院へ付き添ってくれるはずもない。敦史の友人の渉も、玄関先に突っ立って、家を出て行く血まみれの花嫁を呆然と見送っているだけだ。
――白い結婚では無かったわ。私、真っ赤になってしまった。
琴絵の行く月夜の道に、赤い痕がボトンボトンと零れていく。しばらく歩き続けていると、止血の麻布が解け、はらりと肩にかかった。琴絵は固く結んだつもりだったが、怪我をしたあとだったので、彼女が思うほど結び目は強くなかったのだ。
牡丹がまた一つ地面に咲いた。
――寂しい。哀しい。
琴絵の目から涙がこぼれる。膝から崩れ落ち、冷たい砂利道へ倒れ込むと、月に見守られながら彼女は眠りに落ちた。

