春告鳥の歌う良き日に、望まれて嫁いだはずだった。
青柳家の新妻、青柳琴絵は、一口も手を付けられていない食膳を前に吐息を零す。
「おい、琴絵。なんだ、その溜め息は」
夫の青柳敦史は、琴絵の小さな吐息すら許さず、青筋を立てた。
「いえ、なんでもございません」
「こんな冷めた飯、食えるわけが無かろう」
「申し訳ございません。今日のお帰りは早いとうかがっておりましたもので」
「仕事が長引いてな。おまえのように日長、何の気苦労もなく、家で悠々自適に過ごせる身分が羨ましいよ、まったく」
琴絵は唇をぎゅっと一文字に引き結ぶ。使用人を雇えないほど貧乏なこの青柳家において、家事は全て琴絵一人が担っていた。食事も、洗濯も、掃除も、夫が任せた雑用も全てである。
「ところで父上は、今日はどうしている?」
「はい。お加減は、大分よろしいようでございます」
「そうか。引き続き頼むぞ。俺は疲れたのでもう寝る」
「あの、湯浴みは……」
「外で済ませてきた」
琴絵の前で襖をぴしゃりと閉め、敦史は寝室へと下がった。
――旦那様は、私のことなど……。
琴絵は食膳を台所へ下げる。一皿一皿、仕事から疲れて帰ってくる敦史の為にと心を尽くしたのだが、今日もまた琴絵の努力は無碍にされた。食事を片付けようとしていると。
「おい、琴絵!」
敦史がドタドタと乱暴な足取りで台所へ入り込んできた。
「ど、どうされましたか、旦那様」
「父上が呼んでいる。相手をしてやってくれ。五月蠅くて仕方が無い」
「か、かしこまりました」
台所の片付けを中断し、琴絵は急いで敦史の父親であり、琴絵にとっては舅にあたる、青柳肇の部屋へ向かった。襖の向こうから「おーい、敦史、帰ったのか」と弱々しい声が聞こえてくる。
「お義父様、いかがいたしましたか」
襖の向こうから琴絵はたずねた。
「その声は琴絵さんか。敦史が帰ってきたのではないか」
「ええ、つい先程。お疲れのご様子でして、お休みになられるそうです」
「そう……か」
肇の気落ちした声が聞こえてきて、琴絵の胸が締め付けられる。
「お義父様。白湯をお持ちいたしましょうか」
「お願いするよ」
琴絵はすぐに湯を沸かし、盆に載せて、肇の部屋へ向かう。襖を開けると、老いた男が布団に横になっており、皺のよった顔でくしゃりと笑んで「ありがとう」とゆっくり身体を起こした。
「いつもすまないね。気遣わせてしまって」
「いえ、とんでもない。お義父様のお身体が心配で」
「ありがとう。敦史は……最近帰りがとても遅いようだね」
「新聞社のお仕事は多忙を極めると聞きます。仕方がないことかと」
「そうだが、少し顔を見せるくらい……もう三日もあいつの顔を見ていない。同じ屋根の下で暮らしているというのに。やはり私は……倅に嫌われているようだ」
「そのようなことはございませんよ」
琴絵は肇をそのように慰めたが、気休めだと分かっていた。夫の敦史は、実の父である肇のことを嫌っている。それには複雑な事情があった。
「巫女であった貴女ならばと、敦史の嫁に望んだのは私だが、苦労をかけるね」
「いえ、とんでもない」
「今はこのように落ちぶれているが、青柳家は武士として主君に忠義を立ててきた家柄なのだ。腐っても鯛。選ぶ女性で家の行く末は決まる。だから神に仕えていた貴女を敦史の番にと望んだのに。倅は貴女を大切にしていない」
「お忙しいのですから、私にまで気が回らないのは仕方がないことです」
「それだけなら……良いのだが」
「えっ」
「いや、なんでもないよ。貴女のように神に仕えていた人を、愛に欠けた男に嫁がせて、よもや不幸にさせたとあらば、わしも倅も天罰を食らうのではと怖くなってね」
「そのような気遣いは無用でございます。敦史様とのご縁に感謝の念が募るばかりです」
――ああ、また私は嘘を吐いてしまった。私の方こそ天罰が下りそう。
けれどこの老いた人を悲しませることは、琴絵には出来なかった。飲み終えた白湯の器を下げ、台所へ戻る途中、襖の向こうから敦史の大きな鼾が聞こえてきた。
――旦那様は、お義父様の介護をさせる為に、私を嫁に選んだのね。
分かっていた。これは愛の無い結婚だと。
結婚初夜に、敦史からはっきりと告げられたからだ。
「悪いが俺には、愛する人が他にいるのだ。その人に悪いので、おまえを愛するつもりは毛頭ない。これは〝白い結婚〟だと心得るように」
琴絵にとって人生で一番辛い出来事だった。

青柳家の新妻、青柳琴絵は、一口も手を付けられていない食膳を前に吐息を零す。
「おい、琴絵。なんだ、その溜め息は」
夫の青柳敦史は、琴絵の小さな吐息すら許さず、青筋を立てた。
「いえ、なんでもございません」
「こんな冷めた飯、食えるわけが無かろう」
「申し訳ございません。今日のお帰りは早いとうかがっておりましたもので」
「仕事が長引いてな。おまえのように日長、何の気苦労もなく、家で悠々自適に過ごせる身分が羨ましいよ、まったく」
琴絵は唇をぎゅっと一文字に引き結ぶ。使用人を雇えないほど貧乏なこの青柳家において、家事は全て琴絵一人が担っていた。食事も、洗濯も、掃除も、夫が任せた雑用も全てである。
「ところで父上は、今日はどうしている?」
「はい。お加減は、大分よろしいようでございます」
「そうか。引き続き頼むぞ。俺は疲れたのでもう寝る」
「あの、湯浴みは……」
「外で済ませてきた」
琴絵の前で襖をぴしゃりと閉め、敦史は寝室へと下がった。
――旦那様は、私のことなど……。
琴絵は食膳を台所へ下げる。一皿一皿、仕事から疲れて帰ってくる敦史の為にと心を尽くしたのだが、今日もまた琴絵の努力は無碍にされた。食事を片付けようとしていると。
「おい、琴絵!」
敦史がドタドタと乱暴な足取りで台所へ入り込んできた。
「ど、どうされましたか、旦那様」
「父上が呼んでいる。相手をしてやってくれ。五月蠅くて仕方が無い」
「か、かしこまりました」
台所の片付けを中断し、琴絵は急いで敦史の父親であり、琴絵にとっては舅にあたる、青柳肇の部屋へ向かった。襖の向こうから「おーい、敦史、帰ったのか」と弱々しい声が聞こえてくる。
「お義父様、いかがいたしましたか」
襖の向こうから琴絵はたずねた。
「その声は琴絵さんか。敦史が帰ってきたのではないか」
「ええ、つい先程。お疲れのご様子でして、お休みになられるそうです」
「そう……か」
肇の気落ちした声が聞こえてきて、琴絵の胸が締め付けられる。
「お義父様。白湯をお持ちいたしましょうか」
「お願いするよ」
琴絵はすぐに湯を沸かし、盆に載せて、肇の部屋へ向かう。襖を開けると、老いた男が布団に横になっており、皺のよった顔でくしゃりと笑んで「ありがとう」とゆっくり身体を起こした。
「いつもすまないね。気遣わせてしまって」
「いえ、とんでもない。お義父様のお身体が心配で」
「ありがとう。敦史は……最近帰りがとても遅いようだね」
「新聞社のお仕事は多忙を極めると聞きます。仕方がないことかと」
「そうだが、少し顔を見せるくらい……もう三日もあいつの顔を見ていない。同じ屋根の下で暮らしているというのに。やはり私は……倅に嫌われているようだ」
「そのようなことはございませんよ」
琴絵は肇をそのように慰めたが、気休めだと分かっていた。夫の敦史は、実の父である肇のことを嫌っている。それには複雑な事情があった。
「巫女であった貴女ならばと、敦史の嫁に望んだのは私だが、苦労をかけるね」
「いえ、とんでもない」
「今はこのように落ちぶれているが、青柳家は武士として主君に忠義を立ててきた家柄なのだ。腐っても鯛。選ぶ女性で家の行く末は決まる。だから神に仕えていた貴女を敦史の番にと望んだのに。倅は貴女を大切にしていない」
「お忙しいのですから、私にまで気が回らないのは仕方がないことです」
「それだけなら……良いのだが」
「えっ」
「いや、なんでもないよ。貴女のように神に仕えていた人を、愛に欠けた男に嫁がせて、よもや不幸にさせたとあらば、わしも倅も天罰を食らうのではと怖くなってね」
「そのような気遣いは無用でございます。敦史様とのご縁に感謝の念が募るばかりです」
――ああ、また私は嘘を吐いてしまった。私の方こそ天罰が下りそう。
けれどこの老いた人を悲しませることは、琴絵には出来なかった。飲み終えた白湯の器を下げ、台所へ戻る途中、襖の向こうから敦史の大きな鼾が聞こえてきた。
――旦那様は、お義父様の介護をさせる為に、私を嫁に選んだのね。
分かっていた。これは愛の無い結婚だと。
結婚初夜に、敦史からはっきりと告げられたからだ。
「悪いが俺には、愛する人が他にいるのだ。その人に悪いので、おまえを愛するつもりは毛頭ない。これは〝白い結婚〟だと心得るように」
琴絵にとって人生で一番辛い出来事だった。

