澄める空は琥珀に溶ける〜名前のない空と、秘密のドーナツ〜

 放課後の図書室には、世界から切り離されたような、一定の緩やかなリズムがある。
 閉館は十七時ちょうど。
 僕がカウンターに入るのは十六時十五分ごろで、前の時間帯の担当者から事務的な引き継ぎを済ませてから、まず室内をゆっくりと一周するのが僕の密かな儀式だった。

 誰かの忘れ物がないか、椅子が出しっぱなしになっていないか、あるいは換気のために少しだけ開いたままの窓があればそれを静かに閉める。それだけの、誰に褒められるわけでもない確認を終えてから、ようやくカウンターの中にある年季の入った丸椅子に、自分の重みを預けて腰を落ち着けるのだ。

 ここを訪れる生徒の数は、曜日と天気によって驚くほど正確に決まっている。

 月曜日は、週の始まりの気怠さを引きずっているせいか利用者が極端に少ない。そして金曜日は、週末の解放感に駆られた生徒たちが一刻も早く校門をくぐりたがるせいか、さらにその数は減る。逆に雨の日は行き場を失った生徒たちが雨宿りのついでにふらりと立ち寄るからわずかに賑わいを見せるし、抜けるような快晴の日は、誰もが光の差す屋外へと吸い寄せられていくから、図書室は墓地のような静寂に包まれることになる。

 テスト期間が近づけば、重苦しい顔で参考書を開く自習組がぱらぱらと現れるけれど、彼らは一様に音を立てることを禁じられた修道士のように静かに座っているだけだから、僕がめくる文庫本のページの音を邪魔することはない。

 貸し出しの手続きは、感情を排した単純な作業だ。
 差し出された本を受け取り、バーコードを赤く光るスキャナーで読み取って、返却期限の日付を短く伝える。「ありがとうございます」という、形骸化した感謝の言葉を添える。返却もまた同じ流れで、受け取った本を適切な棚へと戻していく。棚へ戻すとき、僕は背表紙の色の並びが、スペクトルのように美しく揃うように少しだけ指先で微調整を加えることにしている。
 誰もそんな細工には気づかないだろうし、一冊の本が貸し出されればその秩序はすぐに崩れてしまう。けれど、自分の手で整えた本棚が、完璧な調和を保って並んでいるのを眺めるときだけは、ざわついていた僕の心の波が凪いでいくのを感じるのだ。

 この図書委員という仕事は、僕の性分に酷く合っている。

 ここでは過度な喧騒に晒されることもなければ、誰かから何かを過剰に期待されることもない。窓の外を流れていく雲の形と、季節ごとに少しずつ表情を変える本の背表紙の並びだけが、僕にとっての確かな世界の変化だった。

 閉館が近づき、西日が低くなってくると、白い天井がうっすらと熟成された琥珀のような黄みを帯びてくる。その蜂蜜色に溶けかけた光の檻の中で、僕は誰の目も気にすることなく、お気に入りの文庫本の海に深く沈み込んでいく。

 今日の担当は僕ともう一人、同じクラスの女子生徒だ。
 彼女は自分に課せられた貸し出し対応が終わるや否や、隠す様子もなくスマートフォンを取り出してイヤホンを耳に突っ込む。僕はそれを咎めるつもりは毛頭なかった。校則を振りかざして誰かの自由を制限する理由も見当たらないし、何より彼女が外の世界の音を遮断してくれているおかげで、この室内の静寂が守られているのなら、それは僕にとっても歓迎すべき事態だからだ。

 閉館まで残り十分。
 僕は一度本を閉じ窓の外を確認してから、スマートフォンを取り出してシャッターを切った。
 今日の空は白に近い灰色で、どこが雲の境界なのかも判然としない均一な色合いをしていた。

 「同じ空は、二度と来ないんだよ」

 亡くなった祖父が、生前によくそう言っていた。
 この何の変哲もない、退屈で地味な灰色の空だって、宇宙の長い歴史の中では今日、この瞬間にしか現れない特別な色なのだ。それだけのことが、僕が写真を撮り続ける理由としてはあまりに十分すぎた。

 撮り終えた画像をフォルダに収め、スマートフォンをポケットに戻す。
 それから返却された数冊の本を抱えて、迷うことなく棚へと向かう。背表紙を指の腹でなぞり、正しい番地を確認し、あるべき場所に一冊ずつ差し込んでいく。いつもの手順で、いつもの場所に。それだけの繰り返されるリズムが、浮き足立ちそうになる自分を、ちゃんとこの現世という大地に繋ぎ止めてくれているような、そんな淡い安心感を与えてくれる気がしていた。

 ◇

 その日は、僕の記憶の中でも珍しいほどに来室者がゼロだった。
 貸し出しの手続きもなければ、返却の持ち込みもなく、ましてや自習に現れる熱心な生徒の姿さえひとつとして見当たらない。
 僕は一時間近くもの間、図書室という静謐な水槽の中でたったひとりの観測者としてカウンターの中にいた。もう一人の担当だった女子生徒は僕が来て早々に「急用があるから」と言い残して申し訳なさそうな顔ひとつ見せずに早退していったから、この広大な空間を独占しているのは名実ともに僕だけになった。

 しんとした室内。
 時折文庫本のページがめくられる乾燥した音だけが、空気の層を揺らす。
 僕はふと文字を追っていた視線を上げて、誰もいない室内の奥行きを眺めた。
 この静けさが僕はたまらなく好きだった。人の気配に脅かされることもなく、余計な音に意識を奪われることもなく、ただ窓から差し込む光の角度が、時間の経過を知らせる唯一の時計として機能している。

 以前クラスの誰かにこの好みを話したとき、「変わってるね」と呆れたように笑われたことがある。たしかにそうかもしれないと自分でも納得している。
 けれどこの孤独に似た安寧を、僕はどうしても嫌いにはなれなかった。
 むしろ他人の体温や感情が流れ込んでくる日常よりも、こうして静止した時間の中に漂っている方が僕にとってはよほど「正常」な状態に思えるのだ。

 閉館時刻を知らせるチャイムが遠くで鳴り響き、僕はゆっくりと立ち上がって一日の終わりを告げる戸締りを始める。

 窓を施錠して照明のスイッチを一つずつ消していくと、室内に残っていた琥珀色の光がじわじわと影に侵食されていく。
 廊下に出ると放課後の活気が去った後の校舎はひっそりとしていて、僕の履く上靴の音だけが、不気味なほどのリズムで響き渡った。

 これでいいのだと自分に言い聞かせる。
 何も起きず、何も変えず、ただ穏やかな水面のように日々をやり過ごしていく。

 けれど胸の奥底で、その「これでいい」という言葉が、時折石のように重く沈んでいくのを感じることがあった。
 平坦で、変化のない日常。それを自ら望んでいるはずなのに。
 どうして時々、自分だけが透明な箱に閉じ込められているような妙な疎外感に襲われるのだろうか。

 なぜそう感じるのか、その正体不明の重みの理由はいくら言葉を尽くしても、今の僕にはうまく輪郭を捉えることができなかった。
 ただ誰もいない廊下を歩きながら、僕は無意識に自分の胸ポケットに触れる。
 そこには数分前に撮ったばかりの、あの名前のない灰色の空が閉じ込められている。誰にも見せることのない、けれど僕だけが知っている今日の色。それだけが、僕が明日もまた、この繰り返される日常へと足を踏み出すための微かな糧になっていた。

 祖父が残したカメラの感触を思い出す。
 あの重みは単なる機材の重さではなく、祖父がそれまでに見つめてきた無数の「今日しかない空」の集積だったのかもしれない。僕が今、スマートフォンという手軽な道具で空を切り取っているのは、祖父の足元にも及ばない行為だとは自覚している。
 けれどレンズ越しに見る世界だけが、僕に嘘をつかないような気がしていた。

 学校という場所は、いつだって多すぎる言葉と過剰な記号で溢れている。
 誰が誰と付き合った、あの先生の教え方は下手だ、次の休み時間は誰とどこへ行く。
 そんな明日には消えてしまうような泡のような会話の応酬に、僕はいつの間にか疲弊していた。図書室の扉を閉めるときに感じる微かな解放感は、そんな喧騒から一時的にでも逃れられたという安堵の証左に他ならない。

 廊下を曲がると、西側の窓から差し込む光が僕の影を長く引き延ばしていた。その影はまるで自分とは別の意志を持っているかのように、暗い教室の奥へと忍び寄っていく。

 「……あれ?澄空?」

 不意に背後から声をかけられ、僕は肩を跳ねさせた。
 振り返ると、そこには担任の教師が束ねたプリントを抱えて立っていた。

 「今日も最後までいたのか。感心だな」
 「……あ、はい。図書委員なので」

 僕は当たり障りのない笑みを浮かべて、短く答える。

 「熱心なのはいいが、たまには友達と寄り道でもして帰れよ。若いんだから」

 教師は悪気のない、けれど僕にとってはひどく無神経なアドバイスを残して足早に職員室の方へと消えていった。

 友達と寄り道。

 その言葉が、耳の奥で嫌な余韻を残す。
 僕にだって学校で話をする相手くらいはいる。けれどその相手と一緒に寄り道をして、どうでもいい話で時間を潰し、自分の内側をさらけ出すような関係を築きたいかと言われれば、答えは否だった。

 誰かと深く関わるということは、その人の持つ色に染められたり、あるいは相手を自分の色に侵食させたりすることだ。
 そんな危うい真似をするくらいなら、僕は一人で誰にも邪魔されない琥珀色の静寂の中にいたい。

 昇降口で上靴をローファーに履き替えて校門を出る。
 駅へ向かう道すがら、僕はもう一度スマートフォンを取り出した。
 さっき撮った灰色の空を確認する。

 画面の中のそれは、やはり地味で美しさとは言い難い。けれど見つめているうちに、その「何者でもない」という潔さが、僕の胸の重みを少しだけ軽くしてくれた。

 これでいい。僕は心の中でそう繰り返した。
 誰にも期待されず、誰の心も乱さず、ただ透明な存在としてここにいられれば、それで十分なのだ。

 明日も明後日も、同じような静かな空が僕の頭上に広がっていることを願いながら、吸い込まれるように駅の改札をくぐった。

 ◇

 入学式が終わって新たなクラスも徐々に馴染み、新年度独自の浮ついた雰囲気も落ち着いてきた四月半ば。
 その日図書室を支配していたのは、耳の奥が痛くなるほどの静寂だった。

 放課後の図書室は、いつだって世界から切り離された真空地帯のような趣がある。窓から差し込む光は埃の粒を黄金色に照らし出し、古い紙の匂いと微かなインクの香りが混ざり合って、淀んだ空気の中に沈殿している。僕はいつものように図書委員としての定型作業を淡々とこなし、ほとんどの時間をカウンターの中で文庫本の海に沈んで過ごしていた。

 ページをめくる指先から伝わる乾燥した感触と、微かに響く紙の摩擦音。その静けさは僕にとっての安息であり、同時に、どこか逃避でもあった。
 変化のない、凪いだ海のような日々。それは何者にも侵されない平穏を約束してくれるけれど、時折胸の奥を小さな針で突くような、ほんの少しの物足りなさが顔を出すことがある。
 けれどそれを自覚したところで僕は自分のルーティンを壊そうとは思わなかった。
 不規則な波風に晒されるよりは、退屈であっても変わらない日常の方が、僕にとってはよほど尊くて得難いものだったからだ。

 珍しく多かった貸出手続きを終え、丸椅子から立ち上がる。
 返却ボックスに溜まっていた本を棚に戻そうとカウンターから出て本を手に取った。
 ふと窓の外を眺めると、今日の空もまた曖昧な、名前のつけがたい色をしていた。突き抜けるような青色でも無ければ、心を揺さぶるような劇的な夕焼けでもない。
 灰色と白を不器用に混ぜ合わせたような、何とも形容しがたいぼんやりとした階調。
 スマホを取り出そうとして、両手に抱えた本の重みを思い出した。

 後でまた撮ろう。そう考えて、僕は本棚へ向かった。
 文庫本や図鑑、心理学の本や難しい翻訳本まで、多岐にわたる返却本を、それぞれ元の正しい棚へ戻していく。
 最後に図書室の奥の方にひっそりと置かれた哲学書を戻して、返却本の整理は終了。
 普段はあまり立ち入らない場所だ。そこにただよう埃の多さを感じる。実際ここは人が寄り付くようなジャンルの本は置いていないし、僕自身も特に興味が惹かれたことはない。

 不揃いな背表紙の色を揃えるように指でなぞる。
 難しいタイトルが並ぶこの棚は哲学書のコーナーだ。ほとんど読んだことがないなと思いながら著者を流し見していく。窓からいちばん遠く、薄暗くなっている奥まできて、本をなぞる僕の指の動きはピタリと動きを止めた。

 僕の目に止まったのは、ヨーロッパ出身と思われる、とある学者が執筆した分厚い哲学書だった。その学者の名前に強い既視感を感じて、見たこともないはずの学者の顔が頭に浮かぶ。

 ――なんだったかな……

 口には出さず心の中で呟きながら、カウンターの方へ戻るために歩き出す。

 ――ああ、そうだ

 確か、あれはまだ僕が幼いころ、祖父母の家に遊びに行った時に祖父から聞いた名前ではなかったか。なんて朧気な記憶をさかのぼっていると、こちらの方へ歩いてくる足音が聞こえた。

 本を開こうとしていた手を止めて顔をあげると、そこには見慣れない顔の生徒が立っていた。
 足元を見れば上靴の色で一年生だと分かった。すらりと長い体躯に、あまりにも綺麗でどこか現実味を欠いた顔立ち。でもなによりも目を引いたのは、その美しい顔に一切の表情が浮かんでいないことだった。彼は迷いのない足取りでカウンターの前まで来ると、その凍てついたような視線をまっすぐ僕へ向けてきた。

 「……本、借りたいんですけど」

 低く耳障りの良い、よく通る声だった。

 「あ、うん。どうぞ。何か探してる本、ある?」

 僕の問いかけに対して、彼は一言も発することなく一枚のメモ紙を差し出してきた。
 そこには殴り書きではない、けれど意思の強さを感じさせる筆致で一冊の本のタイトルが書かれていた。

 僕は思わずパチリ、と瞬きをした。
 それは哲学の棚の奥の奥に眠っている、僕が先ほど古い記憶を思い出した、あの哲学書のタイトルだった。
 あの本はドイツ語を翻訳したかなり難解な学術書だ。言い回しがひどく硬く、ページを開くたびに文字が上滑りしていくような、少なくとも高校に入学したばかりの一年生が自ら進んで手に取るような本では到底ない。

 なぜ目の前の彼がこの本のことを知っているのだろうかと疑問に思いつつも、僕は何も言わずに再びあの棚へ向かい、目的の本を引っ張り出す。長い間誰の手にも渡ることなく眠っていた本は、手に取った瞬間指に埃がついた。その埃を軽く払ってから、カウンターの前で待っている彼の元へ戻った。

 「はい、どうぞ。貸出手続きするからちょっと待ってね」

 カウンターの中へ戻り、丸椅子へ座って古いデスクトップパソコンを操作する。

 「貸出カード、貸してもらえる?」
 「はい」

 差し出されたのは一年生の学年色である鮮やかな緑色の縁取りがされたカードだ。受け取ってみるとその表面は何も書いておらずまっさらだった。入学したてだから当然と言えば当然なのだが、貸出履歴の欄には一行の記載もなく、目の前の彼が図書室で本を借りるのが今日が初めてであることを示していた。
 カードの上部、持ち主の欄に書かれた名前を、僕は無意識に呟いていた。

 「こはく……」
 「なんですか?」

 冷ややかな問いかけに、僕は慌てて顔をあげた。
 視線の先では先ほどと何ら変わらない、清々しいまでに無表情な彼、琥珀くんが僕を見つめている。ただその揺るぎない強さを持つ茶色の瞳の奥で、ほんのわずかに何かが動いたような、そんな錯覚を覚えた。

 「あ、いや……ただ、綺麗な名前だなと思って」

 口にしてしまってからひどい後悔が襲ってきた。初対面でしかも一学年下の、いかにも手厳しいであろう後輩相手に言うべき言葉では無かったかもしれない。面倒な先輩だと思われただろうか。
 琥珀くんの様子をひっそり窺うと、彼は怒ることも、鼻で笑うこともしなかった。

 「……別に、普通ですよ」

 ぶっきらぼうにそう言って、彼は視線をカードへと落とした。感情の乗っていない綺麗な横顔に、夕日のいたずらか、あるいは別の熱のせいか、ほんの少しだけ朱が差したように見えたのは気のせいだろうか。

 「そういう先輩も、綺麗な名前、してますよね」
 「僕?」

 意外な反撃に、僕は思わず聞き返した。

 「澄んだ空って、綺麗じゃん」

 一度も名乗っていない自分の名前をなぜ彼が知っているのだろう。
 僕は一瞬戸惑ったけど、彼は僕の疑問を察したように僕が首から下げている図書委員のネックストラップを指差した。

 「ああ、これね……澄んだ空と書いて、すずら。僕の名前、澄空奏多」

 あまり聞き馴染みのない名字のせいなのか、いつも読み方を間違えられたり聞き返されたりすることに慣れている僕は、いつものように説明を加えて自己紹介をする。

 「……すずら、先輩」

 琥珀くんは僕の名前の響きを確かめるように何度か口の中で転がした。それから少しだけ上ずったような、硬い声で僕の名前を呼んだ。
 僕は平静を装ってパソコンに向き直り、キーボードを叩いて手続きを進めていく。

 「はい、これで完了。返却期限は二週間だから、忘れずに返しに来てね」
 「……分かりました」

 琥珀くんは差し出された重厚な哲学書を受け取ると無駄のない動作で踵を返し、図書室を出ていった。引き戸が閉まる小さな音が、今日の出会いの終わりを告げた。

 室内はまた元の静けさに包まれた。
 僕はしばらくの間彼が消えていった扉の向こう側を見つめていた。それから手元に目を落とすと、今までまっさらだった彼のカードの一行目に今日の日付と、あの難解なタイトルの記録が刻まれていた。

 哲学書。一年生。琥珀廉。
 不思議な子だな、と思った。
 ……それだけ、のはずだった。

 そういえば、と先ほどは手がふさがっていて撮れなかった今日の空を残そうと外を見上げる。
 ぼやけた色だったはずの空はいつの間にか綺麗な琥珀色に変わっていた。
 こはく、琥珀。その名に色々と縁のある日なのかもしれないなと考えながらシャッターを切る。閉館が迫っている図書室には僕のほかに誰もいない。それならいいか、と僕はそのまま撮った写真をSNSへ投稿した。
 キャプションは何もつけず、ただ「今日の空」を記録するためのアカウントだ。日課となって久しいそれを終えた僕は、窓を閉めてカウンターへ戻った。

 やがて時間が過ぎ、閉館を告げる鐘が鳴り、片付けを済ませ廊下に出て図書室の鍵を閉める。
 ガチャン、と鍵の閉まる音がしたと同時に、ポケットの中のスマホが振動していることに気がついた。
 通知に載っている名前は「HAKU」。ここ数ヶ月、僕が空の写真を投稿すると必ず反応してくるアカウントだ。
 最初のメッセージが送られてきたのは年末。『今日のあなた自身の空の色は何色でしたか?』という一風変わった文言だった。

 普通なら無視するだろう。初めは無視するつもりだった。でも僕はその日なぜか返信した。今思い返してもなんで返信したのか、自分でもよく分からない。しいて言うなら、写真ではなく自分に興味を向けてもらえた、という感覚があったからかもしれない。

 それ以来、HAKUさんは毎日欠かさずに問いかけてくる。
 顔も名前も知らない。でも不思議と、この人には正直に話すことができた。学校では言えないことを、なぜか打ち明けることができた。
 今日のメッセージを開くと、やはりいつもと同じ一文が届いていた。

 『今日のあなた自身の空の色は何色でしたか?』

 少し考えてから返信を打ち込んでいく。

 『……琥珀色です。今日は、この色に縁がある日だと思って』

 メッセージを送信して、スマホをポケットに戻す。廊下の窓から見える夕空は、もうほとんど紺色に沈みかけている。
 先ほど初めて本を借りていった一年生、琥珀くんのことをなぜか少しだけ思い出した。

 ――あの子も、何色とも決めにくい顔をしていたな

 そう思った理由を、僕はうまく言葉にすることができなかった。

 ◇

 翌日。
 その無表情な顔の下で何を考えているのかいまいち分からない後輩、琥珀くんは図書室には現れなかった。
 考えてみればそれは至極当然のことだ。借りたばかりの本を翌日に返しに来るはずもないし、毎日欠かさず図書室に顔を出すような殊勝な生徒など、この学校には僕くらいしかいない。
 返却期限まではまだたっぷりと時間があるのだ。彼が期限を守って返しに来てくれさえすれば、僕が彼のことで何かを気にする必要などどこにもない。

 気にしていなかった。いや、気にしていなかったはずだった。
 なのになぜか、入り口の引き戸がガラリと開くたびに、僕は無意識に顔を上げ、入ってくる生徒の顔を確認してしまっていた。

 返却に訪れた二年生、受験勉強のために自習席へ向かう三年生、奥の棚で熱心に立ち読みを始めた見知らぬ一年生。そのどれもが僕が待っていた……いや、僕が予期していた人物ではなかった。
 別に構わない。昨日初めて本を借りた後輩が、翌日にまた来る理由なんてどこにもないし、来なかったからといって業務に支障が出るわけでもない。普段通り進めるだけだ。

 けれど昨日彼が向けてきた淀みなくまっすぐな視線が、棘のように僕の意識のどこかに引っかかったまま抜けないのだ。
 怖かったわけではない。不快だったわけでもない。ただ、「見られた」という感覚が、いつまでも肌の表面に残っている。それは学校の廊下ですれ違う人たちとの希薄な視線の交錯とも、バイト先で接する常連客たちの穏やかな眼差しとも、決定的に何かが違っていた。

 この人は今、僕という存在を間違いなく見ている
 そう確信させるような、重みのある視線。

 ――人見知りしない子なんだろうな

 自分を納得させるために内心でそう呟く。
 閉館十分前、僕はいつものように窓の外を見た。今日の空は、昼と夕方の境界線が曖昧になる複雑な色彩を湛えている。スマホでその光景を切り取る。どこにでも存在している普通の夕暮れの空。でも今日という日にしか、この空の色には出会えない。

 撮影した写真をアルバムに収めてスマホをポケットにしまい、返却本をワゴンから取って棚へと並べ直していく。
 背表紙の色がグラデーションのように美しく揃うように、普段よりも少しだけ指先に意識を込めて整える。いつもの手順。いつものリズム。
 なのになぜか今日は、最後の一冊の本を収めた後で棚の前で不自然に立ち止まってしまった。

 正しい場所に正しい本が収まっている。
 その秩序を確認してから、僕は再び丸椅子に腰を下ろした。

 なんだろうこの違和感は。
 いつもと同じ図書室。いつもと同じ静寂。
 なのに今日は「いつもと同じ」という事実そのものが、剥き出しの輪郭を持って僕に迫ってくるような気がしてならない。

 うまく言葉にできないまま、僕は読みかけの文庫本の続きを開いた。活字を追えば、この妙な落ち着かなさを忘れられると信じて。
 けれどその行間から、ふとした拍子にひどく無機質で、けれど熱を孕んだ色素の薄いあの瞳に覗き込まれているような感覚に襲われて、僕は何度も同じ行を読み返すことになった。


 次の日の昼休み。窓際の自分の席で本を読んでいると、隣のグループの女子一人に話しかけられた。

 「奏多くんって、読書してるときも楽しそうだよね」

 急に話しかけられたことに驚きつつも、顔をあげて「そう?」と答えると、彼女は何でもないことのように言葉を続けた。

 「うん。なんか、いつも自分の世界に入ってる感じがして。充実してそうで羨ましいなー」

 変な意味じゃないよ!と笑っている彼女に、僕は何と反応したらよいのか分からなくなって、咄嗟に「ありがとう」とだけ言って本に目を戻した。
 楽しい。充実している。
 自分は周りからそう見えているのかと思いながら、僕はさっきまで集中して読んでいたはずの文字を、しばらく目で追うことができなかった。今読んでいる場面は、主人公が誰かに何か大事なことを伝えようとしてうまくいかない場面だった。これを読んでいた時、僕はどんな顔をしていたのだろう。

 「楽しそう」という言葉が、胸のどこかに引っかかった。
 楽しくないわけではない。けれど楽しむことができているかどうかを、最後に自分自身に問いかけたのはいつだったか、うまく思い出せなかった。

 その夜、HAKUさんから『今日のあなた自身の空の色は何色でしたか?』といつもの問いかけが届いたとき、僕はいつもより長く考えてから返信した。

 『白、だったと思います。晴れてるのに、なんか白くて。……今日学校で本を読んでいたら「楽しそうだ」って言われました。嘘じゃないけど、本当でもないんです。なんて答えれば良いのか、分からなくて』

 HAKUさんからの返信は少しだけ間があいた。

 『どんな顔をしていても、今日あなたがそこにいた、ということは本当のことですよ。「楽しそう」も「楽しくなさそう」も、見ている人が決めることです。あなたが今日そこで本を読んでいた、それだけで十分じゃないですか』

 その返信文を読んで、僕は少しだけ肩の力が抜けた気がした。
 「そこにいた」という事実だけで、充分だと言ってくれる人がいる。
 祖父の「その時そこにいた自分ごと、残しておきなさい」という言葉を思い出す。

 あの言葉の「そこにいた自分」には、笑っている自分も、うまく笑えない自分も両方含まれていたのかもしれないと思った。

 スマホを胸に置いて、僕は天井を見上げた。今夜のHAKUさんの言葉が、中学の時に「変だよね」と言われたあの日の帰り道に感じた孤独と、静かに同じ場所に触れた気がした。その場世に触れて、少しだけ溶かされた気がした。

 ◇

 西日に照らされて踊る微かな埃の粒子を横目に、窓の外へ目を向ける。目の前に広がっている空は、昼の青を少しずつ手放しながら、境界線の曖昧な琥珀へと移ろい始めていた。その捉えどころのない色彩を眺めているだけで胸の奥に溜まった澱が少しずつ濾過されていくような心地がする。

 返却された本を元の棚へ戻すという単純な作業に没頭していた僕は、背後で静かに、けれど確実に空気を震わせて開いた引き戸の音に思わず指先を止めた。

 振り返ると、そこには西日の光を浴びて眩しそうに目を細めている琥珀くんが立っていた。

 「……返却です」

 低く抑えられた声は、図書室の静謐な空気に波紋を広げることなく、最短距離で僕の鼓膜に届く。
 彼の左手には、三日前に貸し出したばかりの、お世辞にも読みやすいとは言えない難解な哲学書が握られている。

 「あ、うん。いらっしゃい。……もう読み終わっちゃったの?」

 三日という短期間でこの内容を消化するのは、いくらなんでも早すぎるのではないかと驚きを隠せずに問いかけた。彼は無表情なままカウンターへと歩み寄り、重厚な装丁の本を事も無げに置く。手続きのために開いた本の頁には、丁寧に読まれた形跡が微かな紙の撓みとして残っていて、彼がただ文字を追っただけではないことが、言葉を介さずとも伝わってきた。

 「……また借りたいんですけど」

 琥珀くんが差し出してきた一枚のメモには、前回の著者の思想をさらに深く掘り下げた、より専門性の高い続刊のタイトルが記されていた。一年生が興味本位で手を出すにはあまりにストイックな選択に、僕は手続きの手を止め、つい余計な一言を口にしてしまう。

 「またそのジャンル? 一年生には少し難しいかもしれないけど、……頑張るね」

 言い終えてから、自分の言葉がどこか上から目線でひどく無粋なものに感じられて後悔した。
 けれど琥珀くんは不快感を示すことも、あるいは謙遜することもなく、ただ射抜くような鋭い視線を僕の瞳へと真っ直ぐにぶつけてきた。

 「……別に。内容がどうこうっていうより、俺はただ、静かな場所が好きなだけですよ、澄空先輩」

 その言葉が彼が手に取った本の内容を指しているのか、それとも僕たちが今いるこの図書室という空間のことを指しているのか、僕には判別がつかなかった。彼の言葉はいつも、透明な水の中に一滴だけ落とされた琥珀色のインクのように、ゆっくりと僕の思考の中に溶け込んで、輪郭を曖昧にさせる。

 「窓際、座っていいですか」

 僕の許可を待つまでもなく、彼は長い脚を運んで窓際の席へと向かった。椅子を引く重い音が一度だけ響き、続いて古い本が開かれる乾いた音がした。それきり、彼は沈黙の深淵へと潜り込んでしまった。

 僕は貸出処理を終えた画面を閉じると、やり場のない手持ち無沙汰を感じて、再び壁際の書棚へと向き直った。背中に、チリチリと肌を焼くような視線を感じる。それは気のせいだと言い聞かせても、意識の端っこがどうしても彼のいる窓際の方へと引っ張られてしまう。

 ――見られてる?いや。そんなことは……

 自意識過剰だ、と自分を律しながらも、カウンターへ戻る際にどうしても意識を制御できず、反射的に彼の座る窓際へと視線を投げてしまう。
 琥珀くんは一文字も漏らすまいとするかのような真剣な横顔で、本の世界に没入していた。長い睫毛が影を落とすその瞳は、一度もこちらを向くことなく、紙面の上を規則正しく動いている。

 それだけだ。それだけのことなのに、 彼が僕を全く見ていないという事実を確認した瞬間、僕の胸の内に、正体不明の空虚な拍子抜けが広がった。
 僕は一体、彼から何を向けられることを期待していたのだろう。
 窓の外では、夕刻の空が琥珀色へと溶け始めている。その曖昧な色の混じり合いは、僕と彼の間に横たわる、名前のつけられないこの奇妙な距離感に、よく似ているような気がした。

 ◇

 琥珀くんは、それからも時折図書室に姿を見せるようになった。
 毎日決まった時間に来るわけではなく、二日続けて現れたかと思えば翌日はパタリと足が途絶え、またその次の日に何食わぬ顔で引き戸を開ける。
 そんな不規則な、けれど確かなリズムを持って彼は僕の視界の端に居場所を確保し始めていた。

 彼はいつも一冊の本を返し、また新しい一冊を借りていく。
 その選書は一貫して難解な哲学や思想書で、僕が「本当に読んでいるのかな」と密かに疑ってしまうほどの速度で読破されていく。けれど返却された本のページをめくれば、そこには丁寧に扱われた跡と、確かに誰かの思考が通り過ぎた残り香のような微かな撓みがあり、彼がその言葉の海を真摯に泳ぎ切ったことを物語っていた。

 彼の定位置は、決まって窓際の端の席だ。

 僕がカウンターで事務作業に追われている間、彼はそこで静かに本を開き、閉館を告げるチャイムが鳴る少し前まで彫刻のように動かず活字を追い続けている。言葉を交わすことはほとんどない。
 僕から話しかけるきっかけも見つからないまま、ただ「図書室の利用者」という記号の中に、彼の存在が組み込まれていった。

 それだけのことなのに、僕はいつの間にか、彼がいる日といない日で、この部屋を支配する静寂の質が異なっていることに気づいてしまった。
 琥珀くんがいない日の図書室は、均一で、どこまでも透き通った静けさに満ちている。それは心地よいけれど、どこか頼りなく、薄い。
 対して彼が窓際の席に座っている時の静けさには目に見えない微かな重心がある。彼が吐き出す呼吸や、ページをめくる指先が、空気に確かな重みを与えているような、そんな不思議な感覚。

 ――変なことを考えているな、僕も

 自嘲気味に息を吐き、僕は新着図書の整理のために書棚の間へと足を向けた。
 どちらも同じ「静かさ」であることに変わりはないはずなのに、僕の感覚は勝手に、彼の存在を座標軸として図書室の風景を描き変えてしまっている。

 その日の放課後、琥珀くんがいつもの席で本に没頭していた時のことだ。静寂を破るように、一年生の男子生徒が二人、騒がしく入ってきた。
 彼らはカウンターへは向かわず、棚の整理をしていた僕の方へと真っ直ぐ歩み寄ってくると、遠慮のない声で「先輩、ちょっといいすか」と呼びかけてきた。

 「うん、どうしたの」

 僕が本を抱えたまま振り返ると、彼らは手にしたプリントを突きつけるようにして、来週提出だという課題の参考文献について捲し立てた。
 「先輩、詳しそうだから教えてほしくて」という言葉の裏には、断られることを想定していない無邪気ゆえの傲慢さが透けて見えた。

 「一応、貸し出しと返却の手続きが優先なんだけど……今は他に来ている人もいないし……」

 「少しだけなら」と、僕がいつものようにその要求を受け入れようとした、その瞬間だった。

 背後でカウンターの天板に硬いものが置かれる乾いた音が響いた。

 一年生たちが驚いたように振り返ると、そこにはいつの間にか席を立った琥珀くんが、無表情に立っていた。彼はカウンターに本を置いたまま、後輩たちを一度だけ、冷徹な一瞥で射抜く。それは言葉による拒絶よりも雄弁に、「邪魔だ、退け」と告げているような、氷のように鋭い視線だった。

 「……や、やっぱ自分たちで探します」

 気圧されたように一人が呟き、もう一人の腕を引くようにして逃げるように図書室を出ていった。後に残されたのは、再び訪れた濃密な静寂と、僕を見つめる琥珀くんの瞳だけだった。

 「返却、お願いします」

 彼はそれだけを淡々と言い、カウンターの前に立って僕を待っている。

 「……うん、ありがとう」

 僕は戸惑いながらも、彼の返却手続きを始めた。自分で口にした「ありがとう」という言葉が単なる業務上の挨拶なのか、それとも先ほどの件への感謝なのか、自分でも判別がつかなかった。

 手続きを終えると、彼は何も言わずにいつもの窓際の席へと戻り、再び新しい本の世界へと沈んでいった。

 僕は貸出カードに今日の日付のスタンプを押しながら、指先が微かに震えているのに気づいた。
 今僕は彼に何かをしてもらったのだろうか。彼はただ、本を返しに来ただけだ。それ以上の意味など、どこにもないはずなのに。

 それだけのことなのに、僕の心臓はいつもより少しだけ余分な脈動を刻み、耳の奥でうるさいほどに音を立てていた。

 ◇

 厚い雲が天を覆い隠してしまい、世界から鮮やかな色彩が失われてしまったようだ。
 図書室の窓から見える空の色は、鈍色と白が混ざり合った、どこか湿り気を帯びたような空が広がっている。あの曖昧な境界を眺めていると、自分の輪郭までがその湿った空気の中に溶けだしてぼやけてしまうような錯覚に陥りそうになる。太陽の光を執拗に遮っている雲の厚さは、どこか僕の心の奥底にある言葉にできない澱みと共鳴しているような気がしてならない。

 僕は立ち上がって窓に近づき、指先でガラスに触れた。冷たい感触が伝わってきて、自分がまだここに存在していることをかろうじて確かめる。
 スマホを取り出して鈍色の空を記録する。

 「なんだか今日は、気分が重いなあ……やっぱりこの空のせいなのかな」

 それは誰に聞かせるつもりもない、ただのひとりごとだった。静寂が保たれたこの空間では、思考がそのまま声となってこぼれてしまうことが多々ある。すぐ隣にはいつもの席に琥珀くんが座っていることを意識の片隅では理解していたはずなのに、彼があまりに静かに風景の一部のように溶け込んでいるせいか、僕は半分ほど彼の存在を忘れてしまっていた。

 僕のひとりごとが空気に溶け、静寂が再び戻ってくるかと思ったその瞬間、ガタ、と椅子を引く音がして、続いてカウンターに分厚い本が置かれる硬い音が響いた。
 ふと我に返って後ろを振り返ろうとした僕の項に、上から降るようにして低く、湿り気を帯びた声が落ちてきた。

 「……今日の空、何色に見えましたか」

 その問いかけの鋭さに、僕の動きは凍りついたように止まった。心臓の鼓動が、一拍だけ不自然に跳ねる。

 困惑のままに顔を上げると、そこにはいつものように表情を排した琥珀くんが立っていた。けれど彼は、僕と視線を合わせることを拒むように、すぐさま視線を傍らの書棚へと逸らしてしまった。長い睫毛が落とす影が、彼の真意を隠すカーテンのように見えた。彼は僕の困惑した心を無視するように、淡々と口を開いた。

 「……曇りか晴れかによって、気分が変わる人もいると聞いたので。その、空の色に左右されるというか」

 一拍、重苦しい沈黙が二人の間に横たわった。彼は一度だけ、迷うように指先で自分の顎に触れ、それから吐き捨てるように付け加えた。

 「……余計なことでした」

 それだけを言い残すと、彼は一度もこちらを振り返ることなく流れるような動作で踵を返した。
 遠ざかっていく規則正しい足音が廊下へと消え、引き戸が閉まる乾いた音が、このやり取りの終わりを告げる。残されたのは、先ほどまで彼が放っていた、冷たくも熱い不思議な体温の残滓だけだった。


 僕はしばらくの間、彼が去っていった無機質な引き戸を、まるでそこにまだ彼の残像が張り付いているかのように見つめていた。胸の奥が、ざわざわと落ち着かない。それから導かれるようにして、もう一度、窓の外の空へと視線を戻した。

 空は相変わらず鈍い灰色を湛えたまま微動だにしていない。さっき写真を撮って記録したときから時間にして十分も経過していないはずだった。
 それなのに今の僕の目に映る空は、先ほどよりも少しだけ鮮明に、あるいは少しだけ複雑な階調を持って迫ってくるように感じられた。光の角度がわずかに変わったのか、それとも僕の視覚を司る何かが変質してしまったのか、その正体は掴めないままだったけれど。

 窓際から離れてカウンターへと戻り、琥珀くんが返却していった本を手に取った。
 ずっしりとした重みが掌に伝わる。一冊ずつ、正しい住所へと戻していくルーティンワーク。背表紙のタイトルを確認し、指先で隙間を探り、滑り込ませる。いつもならこの単調な作業が僕の心を凪いだ状態へと導いてくれるはずだった。

 けれど最後の一冊を棚に差し込もうとしたとき、僕の手が止まった。

 その本の表紙には、琥珀くんの指先が触れていたはずの微かな温もりが残っているような気がして、僕はしばらくの間、その無機質な装丁をじっと見つめ続けた。

 彼が聞いた「何色に見えたか」という問い。それは僕がSNSに空の写真を投稿し続けている理由である、「二度と同じ色はない空を記録したい」という思いにあまりに鋭く、そして優しく触れてきたような気がして。
 何を考えているのか、自分でもうまく言葉にできなかった。ただ、胸の奥に溜まった澱のような何かが、少しだけかき混ぜられたような感覚だけが残っていた。

 その夜、自室のベッドに寝転びながら、僕はいつものようにSNSを開いた。暗い部屋の中で、スマートフォンの液晶だけが僕の顔を白く照らし出す。

 『あなた自身の空は、今日何色でしたか?』

 いつも通りの、儀式のような問いかけ。けれどその文字を目にした瞬間、僕の中に言いようのない違和感が走った。

 ――え?

 今日図書室で聞いたあの低い声。ぶっきらぼうで、けれどどこか切実さを孕んでいたあの問い。
 「今日の空、何色に見えましたか」

 ――まさかね

 僕は小さく頭を振ってその突拍子もない考えを思考の隅へと追いやった。
 あんなに愛想がなくて僕のことなんて気にも留めていないような後輩と、画面越しに甘い言葉を綴るHAKUさんが同じなはずがない。

 「考えすぎだよ、僕」

 自分に言い聞かせるように呟いて、僕はスマホの画面を閉じた。
 窓の外には、もう色を失った夜の空が広がっている。けれど僕の網膜には、あの琥珀くんの射抜くような視線と、HAKUさんの優しい言葉が、混ざり合うことのない二つの色として、いつまでも焼き付いて離れなかった。

 ◇

 薄暗い廊下を渡る風が、校舎の隙間から冬の気配を運んでくる。放課後の喧騒が遠ざかり、代わりに耳の奥で、今日一日繰り返された「澄空くん」という呼称が、澱のように重く沈殿していくのを感じていた。

 きっかけは、昼休みの他愛もない出来事だった。クラスの女子数人に囲まれ、文化部発表会の展示に使う本の選定を手伝ってほしいと頼まれたのだ。
 「図書委員だし、奏多くんなら詳しいでしょ?」という悪意のない、むしろ親愛の情すら含まれた真っ当な依頼。それを拒絶する理由など、僕の中には一つも見当たらなかった。あるいは、断り方という技術を、僕はこれまでの人生のどこかに置き忘れてきてしまったのかもしれない。

 「いいよ、僕にできることなら」

 口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど滑らかで、鏡の前で練習したかのように完璧な「優しい澄空くん」の響きを帯びていた。

 それから放課後の図書室で、僕は一時間近く彼女たちの要望に耳を傾け、書架の間を往復した。

 「奏多くんって本当に物知りだよね」
 「助かる、やっぱり頼りになるね」

 賞賛の言葉を受けるたびに、僕は「そんなことないよ」と自動的に生成される返答を繰り返す。嘘をついているつもりはなかった。けれど、感謝の言葉が積み重なれば重なるほど、僕の本体はどこか遠い場所へ乖離していき、目の前で微笑んでいるのは精巧に作られた僕の「外殻」だけであるような、奇妙な心許なさに襲われる。

 閉館時刻を告げるチャイムが鳴り、彼女たちが「ありがとう!」と満足げに去っていった後、僕は一人で図書室を後にした。

 誰もいない廊下を歩きながら、僕は自分の内側に手を伸ばし、今何を感じているのかを慎重に確かめようとした。
 疲労、とは少し違う。自己嫌悪とも言い切れない。ただ、一時間分の「澄空くん」という記号が、僕という個人の輪郭を塗り潰してしまったような、形容しがたい空虚さだけがそこに横たわっていた。

 彼女たちは決して悪い人ではない。むしろ、僕を頼りにしてくれる善良なクラスメイトだ。それに応えることは正しいことで、感謝されるのは幸福なはずだった。それなのに、どうして僕はこんなにも、自分という存在が希薄になったような心地がしているのだろう。

 ふと足を止め廊下の大きな窓から外を眺めた。
 視線の先には燃えるような、けれどどこか寂寥感を孕んだ夕焼けが広がっている。
 いつもなら迷わずスマホを取り出してシャッターを切るはずの光景だ。空の表情は一刻一刻と変化し、この瞬間を逃せば二度と同じ色には出会えないのだから。

 けれど今日はどうしても、腕を上げる気になれなかった。
 今の自分をこの瞬間の感情ごと「残しておく」ことが、ひどく恐ろしいことのように思えた。

 今日の空を記録したら、そこにはどんな僕が写るのだろう。
 誰かの期待に応え続け、微笑みを絶やさなかった模範的な生徒の姿。それは紛れもない事実なのだろうけど、その裏側にある言葉にできない重苦しさや、空っぽな心までは写り込まない。
 それは「澄空奏多」の全部ではないはずなのに、記録された瞬間に、それが僕の正解になってしまうような気がして。

 階段に差し掛かったとき、背後から規則正しい、けれどどこか重量感のある足音が聞こえてきた。僕が振り返るより早く、隣に背の高い影が並ぶ。

 琥珀くんだ。

 彼は部活帰りなのだろうか、指定のジャージの上に黒いウィンドブレーカーを無造作に羽織っている。図書室で見る時のような本の世界に没入している時とは違う、アスリートのような鋭利な空気を纏っていた。彼は前を見据えたまま、僕と視線を合わせようとはしない。ただ、僕の歩調に合わせるようにして、ゆっくりと階段を下り始めた。

 彼も何も言わず、僕も口を開かなかった。
 ただ衣擦れの音と、二組の足音だけが静かな階段室に共鳴している。

 踊り場で一階へと続く扉の前に着いたとき、彼は一歩先に進んで扉を開け、そのまま自分の体でそれを押さえた。僕が通り過ぎるのを、黙って待っている。

 「……ありがとう、琥珀くん」

 僕が小さく声をかけると、彼は「別に」とだけ短く返した。
 感情の起伏を削ぎ落とした、いつもの彼らしい無愛想な声。
 廊下に出ると彼は一度だけ立ち止まって僕の方を見た。
 切れ長の瞳が僕の顔をじっと射抜く。何かを言いかけるように微かに唇が動いたけれど、結局言葉として形を成すことはなかった。彼はそのまま僕とは反対の方向へ背筋を伸ばして歩み去っていった。

 僕はしばらくの間、彼が曲がっていった廊下の角を見つめ続けていた。

 彼は何も聞かなかった。「大丈夫ですか」とも、「疲れているんですか」とも。
 僕を「優しい先輩」として扱うことも、あるいはその仮面の下を暴こうとすることもなかった。ただ隣を歩き、扉を開け、無愛想な一言を残して去っていった。

 それだけのことだった。
 なのに、不思議なことに先ほどまで胸を支配していたあの息苦しさが、潮が引くように少しずつ楽になっていくのを感じていた。

 「優しい澄空くん」という記号でも、便利な図書委員でもなく、ただそこにいる一人の人間として、彼は僕の隣に立ってくれたような。そんな勝手な錯覚が冷え切った心を微かに温める。

 僕は再び窓の外の空を見上げた。
 夕焼けはさっきと同じ、琥珀色を帯びた深い橙色をしていた。
 今度は迷わずにスマートフォンを取り出した。レンズ越しに、刻一刻と溶けていく光を捉え、静かにシャッターを切る。

 誰かに見せるための僕ではなく、この瞬間に琥珀くんが隣にいて、少しだけ心が軽くなった。その記憶を、この空の色と一緒に残しておこうと思った。