史くんの誕生日から三週間と少しが過ぎた、十月上旬。夜の気温が下がってきたのもあってか、史くんの距離感はより一層、バグり始めていた。
金曜日のこの日も、バイト終わりに俺の部屋にやってきた史くんは、勉強してる俺に後ろから抱きついてきた。
「らーいー。疲れたぁ。あー、あったかぁー」
そう言いながら、史くんはほんのり冷えた頬を俺の顔にすり寄せてくる。
初回から今日まで、史くんはこの通りだ。疲れたなんだって理由をつけて、最初の十五分間は俺から離れようとしない。
(あーもう、史くんってば……俺の気も知らないで)
いつも、この瞬間が一番緊張する。不毛な恋を忘れようにも、こうされるたびに熱がぶり返してしまうし。毎度のこと息も絶え絶えで、後ろも振り向けないまま、俺ははぁと息を吐き出した。
「史くんさ……ドラストのバイトもしてるんだし。疲れてるなら……無理して来なくていいのに」
もう何回、口にしたか分からない苦言を呈す。
でも、史くんは離れるどころか、俺の心を掴んでこようとするからタチが悪い。
「やだね。莱に絶対にうちの大学に来て欲しいし。莱のためなら、何だってするに決まってる」
「えぇ……じゃあ、今すぐ離れてって言ったら?」
俺は首を動かして、史くんの方をチラと見た。
すると、史くんはほんのわずかに目を見張った。けど、すぐにくすっと破顔する。
「それはダメ〜。俺の癒しタイムも必要。それに、莱にも休憩は必要だろ?」
「……それはそうだけど、史くんがそれ言う?」
「え?」
「だって、史くんが朝渡してくる課題が終わんないから、あんま休憩できてないのに」
言える範囲で文句を言ったら、史くんはけらけらと笑い始めた。ようやく俺から離れて姿勢を正したかと思ったら、「たしかにね」と言って、机の上の問題集に手を伸ばす。
「莱ってさ、ほんと偉いよな」
「偉い?」
「うん。なんだかんだで、ちゃんと俺の言う通りに問題解いてさ。……ちゃんと解くとか、ほんとは全く期待してなかったんだけど」
「え!? 何それ! 俺のこと信じてなかったわけ!?」
思わず、食ってかかるように大きな声を上げてしまった。
「いや、だって。本気で俺のこと嫌で離れようとしてんのかなって思ってたからさぁ……ここまでちゃんとやってくれるとか思わなかった」
史くんのその言葉を聞いて、俺は「あっ!」と目を見開く。
(そうじゃん。史くんから離れたいんだったら……こんなに勉強しなくてよかったんじゃん)
史くんを諦めようとしてるくせに、今の俺は同じ大学に行くために勉強しているようにしか見えない。思いと裏腹な行動をとる自分に、心底呆れた。
はくはくと口を動かしていたら、ぷっと史くんが噴き出す。
「なーに。莱。全く考えてなかった感じ?」
「だ、だって……」
俺は史くんに嫌われる覚悟がない。
その先の言葉が紡げずにいたら、史くんが俺の頰にそっと触れてくる。史くんの手が触れるだけで、そこから火がつくみたいに熱を帯びていく。
好きがバレちゃいけないのに、バレそうで怖い。
目を逸らしたくてたまらなくなっていたら、史くんが軽く息を吐いた。
「こんなんで……ほんと、何で逃げようとしてんだか」
史くんはやさしく、目元をゆるめる。
勘違いしそうになる、甘い表情だ。それにぎゅっと心臓を掴まれる。
でも、俺はもう勘違いしない。
だって、脳裏にはいまだ、あの太い腕に抱かれる史くんの姿が嫌というほど刻み込まれているのだ。
史くんが俺に甘いのは、俺が幼なじみだからだ。
可愛い、弟みたいなもんだから。一生、恋愛対象にはならない相手だから、彼氏がいても俺に甘く接してくれるのだ。
(史くんのそばにいたら……俺……やっぱりダメだと思う)
このまま近くにいても、お互いのためにならない。
俺は史くんの手を振り払った。そのまますくっと椅子から立ち上がって、史くんを見つめる。
「やっぱ俺、東京に行く」
「は……? なんで? この調子だったら、莱もうちの大学行けそうじゃ──」
「史くん離れしたい」
はっきりと拒絶するように口にした瞬間、史くんが息を呑んだような気がした。
ううん。きっとそうだ。今、俺を見る琥珀色の瞳が、悲しげに揺れている。
でも、目を逸らして、見ないふりをした。
人たらしな史くんから離れるためには、もう絶対に東京に行くしかない。そのためにも、俺は嫌われる覚悟をしなくちゃ。
「もう俺、十八歳じゃん。いつまでも史くんの背中ばっか追いかけてるわけにもいかないから」
胸が痛むのを感じながらも、馬鹿みたいに強がって、俺は史くんを傷つけるであろう言葉を吐き出した。
***
史くん離れをしたいと伝えてからの俺は、徹底的に史くんを避けるようになった。
翌日の土曜日はひたすら図書館にこもって勉強したし、日曜は市が開放してる学習スペースに逃げ込んだ。メッセージも通知をオフにして、史くんがいなくてもやれるって、なおのこと必死に勉強に取り組んだ。
そもそも、大学生と高校生じゃ、生活リズムが違うのだ。
ほんの少しボタンを掛け違えるだけでも、こんなにも会わなくなる。忙しい史くんが俺のために時間を割く必要もなくなるし、これでよかったんだって何度も自分に言い聞かせた。
だから、このままフェードアウトするんだって思ってたのに。
史くんと会わなくなって、一ヶ月が経った十一月上旬。うちのリビングの扉を開けたら、なぜか三人掛けカウチソファに史くんが座っていた。
「莱、おはよー」
マグカップを片手にくつろぐ姿は、俺たちの間には何もなかったみたい普通だった。
「なんで、史くんいる感じ……?」
「いちゃ悪い?」
「いや、だって俺、史くん離れするって」
そう言ったら、史くんは軽く「ふぅ」と息を漏らして、ローテーブルにマグカップを置いた。
「莱。……無理してないかなって気になってくるのも、ダメなわけ?」
「だって、別に無理してないし」
「ほんとに? 顔色よくないけど」
「……でも、この時期はみんなそんなもんだと思うから」
そう言ったら、史くんは少し躊躇いがちに「あのさ」と口を開いた。
「こんなこと俺が言うのもアレだけどさ……。一日くらい、気分転換したら?」
「気分転換?」
「ほら、これ」
そう言った史くんの手には、紙切れのようなものがある。近づいて隣に座ってみれば、史くんが「あげる」と俺の手に乗せてくれた。
切符くらいのサイズのそれは、『ホットドッグ引換券』と書いてあった。
「何これ」
「うちの学祭で使える券。俺のサークルのやつ。昨日から、学祭してるからさ」
「なんで……俺に?」
「莱がさ、東京行っちゃったら、学祭一緒に回れないじゃん。去年は莱、修学旅行でいなかったし。最後に……一緒に行かない?」
史くんはそう言って、どことなく落ち着かないみたいに指をせわしなく動かす。
その様子はまるで、弟に伺いをたてるブラコンの兄みたいに見えて、なんか良心が痛んだ。
「だめじゃないけど……」
「ほんとに!? じゃあ、昼から一緒に回ろ。その前に、莱の朝ごはん用意するから待ってて」
史くんは嬉しそうにソファから立ち上がると、慣れた様子でうちのキッチンへと向かう。
春までは、史くんはしょっちゅう俺の家に来ては、いろんなものを作ってくれた。
(あの頃は両想いだって信じてたから、俺……いっつも史くんに抱きついて、料理の邪魔をしてたっけ)
史くんと離れるって、自分から決めたくせに。その背中を見てたら、涙がじわじわ滲んでいく。
離れたくないって気持ちがいまだなくなっていなくて、自分の往生際の悪さに嫌気がさした。
金曜日のこの日も、バイト終わりに俺の部屋にやってきた史くんは、勉強してる俺に後ろから抱きついてきた。
「らーいー。疲れたぁ。あー、あったかぁー」
そう言いながら、史くんはほんのり冷えた頬を俺の顔にすり寄せてくる。
初回から今日まで、史くんはこの通りだ。疲れたなんだって理由をつけて、最初の十五分間は俺から離れようとしない。
(あーもう、史くんってば……俺の気も知らないで)
いつも、この瞬間が一番緊張する。不毛な恋を忘れようにも、こうされるたびに熱がぶり返してしまうし。毎度のこと息も絶え絶えで、後ろも振り向けないまま、俺ははぁと息を吐き出した。
「史くんさ……ドラストのバイトもしてるんだし。疲れてるなら……無理して来なくていいのに」
もう何回、口にしたか分からない苦言を呈す。
でも、史くんは離れるどころか、俺の心を掴んでこようとするからタチが悪い。
「やだね。莱に絶対にうちの大学に来て欲しいし。莱のためなら、何だってするに決まってる」
「えぇ……じゃあ、今すぐ離れてって言ったら?」
俺は首を動かして、史くんの方をチラと見た。
すると、史くんはほんのわずかに目を見張った。けど、すぐにくすっと破顔する。
「それはダメ〜。俺の癒しタイムも必要。それに、莱にも休憩は必要だろ?」
「……それはそうだけど、史くんがそれ言う?」
「え?」
「だって、史くんが朝渡してくる課題が終わんないから、あんま休憩できてないのに」
言える範囲で文句を言ったら、史くんはけらけらと笑い始めた。ようやく俺から離れて姿勢を正したかと思ったら、「たしかにね」と言って、机の上の問題集に手を伸ばす。
「莱ってさ、ほんと偉いよな」
「偉い?」
「うん。なんだかんだで、ちゃんと俺の言う通りに問題解いてさ。……ちゃんと解くとか、ほんとは全く期待してなかったんだけど」
「え!? 何それ! 俺のこと信じてなかったわけ!?」
思わず、食ってかかるように大きな声を上げてしまった。
「いや、だって。本気で俺のこと嫌で離れようとしてんのかなって思ってたからさぁ……ここまでちゃんとやってくれるとか思わなかった」
史くんのその言葉を聞いて、俺は「あっ!」と目を見開く。
(そうじゃん。史くんから離れたいんだったら……こんなに勉強しなくてよかったんじゃん)
史くんを諦めようとしてるくせに、今の俺は同じ大学に行くために勉強しているようにしか見えない。思いと裏腹な行動をとる自分に、心底呆れた。
はくはくと口を動かしていたら、ぷっと史くんが噴き出す。
「なーに。莱。全く考えてなかった感じ?」
「だ、だって……」
俺は史くんに嫌われる覚悟がない。
その先の言葉が紡げずにいたら、史くんが俺の頰にそっと触れてくる。史くんの手が触れるだけで、そこから火がつくみたいに熱を帯びていく。
好きがバレちゃいけないのに、バレそうで怖い。
目を逸らしたくてたまらなくなっていたら、史くんが軽く息を吐いた。
「こんなんで……ほんと、何で逃げようとしてんだか」
史くんはやさしく、目元をゆるめる。
勘違いしそうになる、甘い表情だ。それにぎゅっと心臓を掴まれる。
でも、俺はもう勘違いしない。
だって、脳裏にはいまだ、あの太い腕に抱かれる史くんの姿が嫌というほど刻み込まれているのだ。
史くんが俺に甘いのは、俺が幼なじみだからだ。
可愛い、弟みたいなもんだから。一生、恋愛対象にはならない相手だから、彼氏がいても俺に甘く接してくれるのだ。
(史くんのそばにいたら……俺……やっぱりダメだと思う)
このまま近くにいても、お互いのためにならない。
俺は史くんの手を振り払った。そのまますくっと椅子から立ち上がって、史くんを見つめる。
「やっぱ俺、東京に行く」
「は……? なんで? この調子だったら、莱もうちの大学行けそうじゃ──」
「史くん離れしたい」
はっきりと拒絶するように口にした瞬間、史くんが息を呑んだような気がした。
ううん。きっとそうだ。今、俺を見る琥珀色の瞳が、悲しげに揺れている。
でも、目を逸らして、見ないふりをした。
人たらしな史くんから離れるためには、もう絶対に東京に行くしかない。そのためにも、俺は嫌われる覚悟をしなくちゃ。
「もう俺、十八歳じゃん。いつまでも史くんの背中ばっか追いかけてるわけにもいかないから」
胸が痛むのを感じながらも、馬鹿みたいに強がって、俺は史くんを傷つけるであろう言葉を吐き出した。
***
史くん離れをしたいと伝えてからの俺は、徹底的に史くんを避けるようになった。
翌日の土曜日はひたすら図書館にこもって勉強したし、日曜は市が開放してる学習スペースに逃げ込んだ。メッセージも通知をオフにして、史くんがいなくてもやれるって、なおのこと必死に勉強に取り組んだ。
そもそも、大学生と高校生じゃ、生活リズムが違うのだ。
ほんの少しボタンを掛け違えるだけでも、こんなにも会わなくなる。忙しい史くんが俺のために時間を割く必要もなくなるし、これでよかったんだって何度も自分に言い聞かせた。
だから、このままフェードアウトするんだって思ってたのに。
史くんと会わなくなって、一ヶ月が経った十一月上旬。うちのリビングの扉を開けたら、なぜか三人掛けカウチソファに史くんが座っていた。
「莱、おはよー」
マグカップを片手にくつろぐ姿は、俺たちの間には何もなかったみたい普通だった。
「なんで、史くんいる感じ……?」
「いちゃ悪い?」
「いや、だって俺、史くん離れするって」
そう言ったら、史くんは軽く「ふぅ」と息を漏らして、ローテーブルにマグカップを置いた。
「莱。……無理してないかなって気になってくるのも、ダメなわけ?」
「だって、別に無理してないし」
「ほんとに? 顔色よくないけど」
「……でも、この時期はみんなそんなもんだと思うから」
そう言ったら、史くんは少し躊躇いがちに「あのさ」と口を開いた。
「こんなこと俺が言うのもアレだけどさ……。一日くらい、気分転換したら?」
「気分転換?」
「ほら、これ」
そう言った史くんの手には、紙切れのようなものがある。近づいて隣に座ってみれば、史くんが「あげる」と俺の手に乗せてくれた。
切符くらいのサイズのそれは、『ホットドッグ引換券』と書いてあった。
「何これ」
「うちの学祭で使える券。俺のサークルのやつ。昨日から、学祭してるからさ」
「なんで……俺に?」
「莱がさ、東京行っちゃったら、学祭一緒に回れないじゃん。去年は莱、修学旅行でいなかったし。最後に……一緒に行かない?」
史くんはそう言って、どことなく落ち着かないみたいに指をせわしなく動かす。
その様子はまるで、弟に伺いをたてるブラコンの兄みたいに見えて、なんか良心が痛んだ。
「だめじゃないけど……」
「ほんとに!? じゃあ、昼から一緒に回ろ。その前に、莱の朝ごはん用意するから待ってて」
史くんは嬉しそうにソファから立ち上がると、慣れた様子でうちのキッチンへと向かう。
春までは、史くんはしょっちゅう俺の家に来ては、いろんなものを作ってくれた。
(あの頃は両想いだって信じてたから、俺……いっつも史くんに抱きついて、料理の邪魔をしてたっけ)
史くんと離れるって、自分から決めたくせに。その背中を見てたら、涙がじわじわ滲んでいく。
離れたくないって気持ちがいまだなくなっていなくて、自分の往生際の悪さに嫌気がさした。



