その二の腕が俺を離してくれない!

***
 ややあって、滝と早瀬は塾があるからと先に帰って、教室の中は晴人と二人だけになった。
 晴人は念願のゴムを手に入れて、ご機嫌らしい。まぁ、「大学生なったら絶対彼女作る!」っていう受験のモチベに、ゴムを欲しがったくらいだ。前の席に座る晴人は、見るからに嬉しそうに背中を揺らしていた。

「そんなに嬉しい感じ?」
「ん? そりゃな〜。これで合格間違いナシだろ。……って、そうだった。史都先輩に会ってどうだったん?」

 晴人は振り返りながら、そう問いかけてくる。その話をされるとは思っていなくて、咄嗟に「えっ」と声が漏れた。

「いや、ずっと気になってたんだよな」
「ずっと?」
「ほら、史都先輩にゴム買うとこ見られるとか傑作すぎるし。あのあとどうなったんかなーって」
「あー……誤解は解いたけど、なんか家庭教師されることなった」
「は? 家庭教師?」

 そんなことになってるとは想定外だったらしい。晴人はゆっくり瞬きをした。
 でも、全部話すのも面倒だ。詳しく話せば笑われそうだし、端折りに端折って「で、この史くん特製の問題集。数学と化学と物理。三冊夜までに解いてこいって言われた」と伝えた。

「うわっ、この量かよ。史都先輩、王子様みたいな顔してスパルタすぎん?」
「それは俺も思う」
「でもさ……まぁ、よかったんじゃね?」
「何が」
「莱、全然諦めらんねーって感じだったじゃん? だけど、史都先輩に扱かれまくったらさ、さすがにスパルタすぎて冷めるだろ」
「スパルタで……冷める?」

 そう口にはしたけど、俺にはピンと来なかった。
 むしろ、史くんへの気持ちは忘れなきゃって思うのに、こんな風に大量の課題を出されても冷めそうにない。
 それに、王子様みたいな史くんを好きになったのに、腹黒そうなブラック史くんを見ても、結局胸が高鳴ってしまったのだ。

(だってさあ……あんな史くんもかっこいいんだよ。なんか色気もあったし……)

 思い出すだけで、胸のあたりがそわつく。
 きっと俺は、どんなことがあっても、史くんを嫌いになれないんだろう。となると、やっぱり、物理的に離れるしか手段がないんじゃ。
 そんな考えに行きついて、俺は「はぁぁぁぁぁ」と盛大なため息をつきながら、両手で顔を覆った。

「えっ、何、莱。大丈夫か?」
「大丈夫じゃない。ていうか、俺、全然諦めてられない感じだった?」

 ちらと、指の間から晴人を見る。すると、晴人は目を丸くしたあと、にかっと笑った。

「そりゃもう。史都先輩見かけたら目で追ってたし。グループトークの反応でもわかったけど」
「うわぁ、まじかあぁぁぁぁ」
 
 俺は肺の空気を全部出し切るほど盛大に嘆くと、今度は勢いよく机にうつ伏せた。

(あぁ、神様。史くんをどうやったら諦められるんですか……)
 
 俺は一生、史くんを好きでいるんじゃ。そう思った瞬間、史くんへの気持ちが強まった昔のことを、ふと思い出した。

***
 史くんがお隣に引っ越してきたのは十三年前──俺が五歳の頃だった。
 史くんは幼い頃から皆に優しくて、いつも穏やか。見た目も相まって、初めて会ったときから、絵本の中の王子様みたいに輝いていた。

 ひとりっ子の俺は、あっという間に史くんに懐いたし、その頃からすでに憧れで……。いつからそれが恋だったのかと問われると、よく分かんないけど、もう最初から好きだったんだと思う。

 だって、俺はいつも優しくてかっこいい史くんに夢中で、その背中を追いかけてた。
 史くんがサッカーをすると言えば、俺もしたし。中学受験すると言えば、塾に通うようになった。なんでも史くんと一緒が良いって駄々こねて、付きまとってたのをいまだ覚えてる。
 で、中学に入る少し前くらいから、俺は自分が全く女子に興味が持てない人間だってことに気づいた。

(自分がみんなと違うって気づいた瞬間、ものすごく怖かった……でも)

 俺はこの頃にはもう、史くんが好きだって自覚し始めていた。
 とはいえ、史くんとの関係を壊したくはなくて、自分の気持ちは伝えなかった。
 けど、俺は欲張りだ。
 少しでも俺を意識してほしかったし、史くんは優しいから、俺のことを理解してくれるんじゃないかって期待して──。
 中学に上がった年の夏。つい、カミングアウトしてしまった。

「史くん、俺ね……たぶん男の人しか好きになれないみたい」

 俺の部屋でゲームをしながら言ったとき、史くんはどんぐりみたいに大きく目を見開いていた。
 そりゃそうだ。今思えば、カミングアウトはする方もされる方も勇気がいることだって分かる。
 けど、あのときは今よりも視野が狭かったし、自分のことしか見えてなくて、史くんに自分の気持ちを押し付けてしまった。

 それでも、史くんはそんな自己中極まりない俺に、ふっとやわらかく笑ってくれた。

「莱はすごいね」
「え? すごい?」
「勇気があって、かっこいい」
「そう……かな?」
「うん。だって人と違うことを受け入れるって、ものすごく勇気がいるんだよ」
「うん。ほんとはね、ちょっと……怖かった」

 声が震えて俯いたら、史くんがそっと背中を撫でてくれた。

「頑張ったね。……莱が勇気出してくれたんだし、僕も伝えなきゃだね」
「何?」
「僕も同じだよ。女の子に興味ないんだ」

 はにかみながら言う史くんを見て、目眩がしそうになった。

(だって、まさか性的指向が同じだなんて……思わないじゃん。史くんと俺、運命なんじゃないかなって、本気で思ってしまったんだよな)

 だから、その瞬間から史くんがもっと特別になったし。史くんも俺を特別な存在に思ってくれているようで嬉しくて、あの日の夜はベッドの中で、ちょっと泣いてしまったっけ。
 
 そこからの俺はというと、史くんに見合う男になりたい。史くんに好きになってもらいたい。そう強く思って……俺は自分なりに、良い男になれるように努力した。
 いつか恋人になったら、俺が史くんをリードしていくんだって。史くんが誇れる男になるんだって。
 だから、半年前に訪れた失恋は、本当に辛くて、もう苦しくて。史くんから離れるしかないって思ったんだ──……。
 
***
(でも、諦めなきゃなんないはずなのにさ、なんでこんなことに……!)

 学校から帰って、数時間後。学習机の前に座る俺は今、バイト終わりの史くんに背後から、ギュッと抱きしめられていた。

「史くん……あのさ、勉強したいんだけど」
「俺が邪魔ってこと? ずっとこんな風に過ごしてたじゃん」

 すぐ耳元で史くんの声がする。どことなく、甘えたような声に、また違う史くんの一面を垣間見た気がして胸が震えた。でも、そんなの気取られたら終わりだ。気づかれないように、そっと息を吐いて俯く。

「それは……そうだけど。俺、いまは受験生だし」
「えー……じゃあ、とりあえず、それ解き終わるまでこのままでいさせてよ」
「え? なんで」
「なんでって、バイト疲れたから。久々に莱で癒されないと」
 
 そう言いながら史くんは、さらに俺を抱く腕に力を入れてくる。
 昔みたいな抱き枕状態だし、癒されたいとか思わせぶりすぎるし。どうしよう。耳まで熱くなってくる。

(ていうか、なんか匂い嗅がれてない!? これ!)

 やばい。やばい。ほんともう最悪だ。俺の情緒がどうにかなりそうだ。
 さっきから心臓もドクドクうるさいし、発狂しそうで。我慢できずに、つい叫んでしまった。
 
「いや、待って!? それじゃ、もはや史くん……家庭教師する気ないじゃん……!」
「え? やる気はあるから大丈夫。ほら、ここ違うし。ここの公式は──」

 前を向いたまま文句を言う俺に対して、史くんはシャーペンを手に取った。美しい文字で、さらさらとノートに物理の公式を広げていく。

「で、これは──」
 
 なんて簡単に話す史くんの説明は、やっぱり分かりやすい。気づけば俺は「あっ、そうすればいいんだ」と、納得していた。

「そ。……って、だからさ、このまま続けて問題ないじゃん?」
「えぇ……」
「こーら。えぇ……じゃないから。莱。俺は別にいいけど、問題解かないといつまでもこのまんまだけどー? その量なら、頑張ればあと十五分くらいで解き終わるし。ほら、頑張れ」

 もうこれは決定事項らしい。史くんはさらっと言ってのける。
 両思いだって信じてた数ヶ月前までの俺なら、きっと幸せでずっとこのままいたいって思っただろう。でも、不毛な恋愛でしかない今じゃもう、罪悪感でいっぱいで、頭が痛くなってくる。

(あー……大丈夫……大丈夫。今の俺は抱き枕だ。抱き枕)

 俺は平常心を保とうと、必死に言い聞かせる。でも、そんな俺を知ってか知らずか、史くんは「ふふっ。かーわいっ」と笑いながら、首筋に顔を埋めてくるからタチが悪い。
 その瞬間、さらに体中が煮えたぎるように熱くなって、息も絶え絶えになる。ほんと、これは何の苦行だ。

(あぁ、やばい。でもなんか史くんも良い匂い──って、だめだ。何も考えるな、問題を解け。あぁ……もう、どうにでもなれ〰〰〰〰!)

 こうして史くんとゼロ距離のまま、俺は残りの問題を必死に解く羽目になったのだった。