立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。本来は美人な女性に使う言葉なんだろうけど、俺の中での史くんはまさにそんな存在だった。
だから、一夜明ければ、昨日の史くんから元に戻るかもしれない。
なんて淡い期待を寄せていたけど、現実はそううまくいかない。
「らーい。おはよ」
翌朝、金曜日。学校に行こうと門を開けたら、史くんが塀にもたれかかるようにして立っていた。
しかも、いつもの優しい口調じゃなくて、なんていうかこう……昨日の悪い史くんのまま。それに伴って、心なしか史くんの服装も黒で統一されていて、まさにブラック史くんだった。
「ふっ……史くん」
「ん?」
「あ、えっと……おはよ。……あのさ、なんでうちの前にいる感じ? 大学は……ないんじゃ?」
「ん? 莱ってば、急に俺に興味戻った?」
史くんはほんの少し嬉しそうに目を細めて、軽く首をかしげてみせる。
「え? いや、そういうわけじゃないけどさ」
「ふーん。そっか。……ま、いいや。それより……莱が学校行く前に、家庭教師らしいことしとかなきゃなと思ってさ」
史くんはそう言ってにやりと笑うもんだから、俺は「あぁ…」と頭を抱えた。
一応、俺はあのあと、史くんにゴムは罰ゲームで買ったことを説明した。それで誤解は解けたはずだし、史くんも納得してくれたはずだった。
なのに、俺が志望大を変えたことが、よほど気に食わなかったらしい。
金土日のバイト終わりに、二時間。史くんが家庭教師をすることになってしまったのだ。
「ほんとにやる気……?」
「そりゃもちろん。佐江さんにも頼まれたしさぁ」
「え? 母さんに頼まれた……?」
まさかの発言に、目をしばたたかせると、史くんはこくりと頷いた。
「昨日、佐江さんにさ、言ったんだよ。『責任もって莱の勉強見ます』って。そしたら、即OK」
「は!? いつの間にそんな話に……!?」
「ん? 帰りにだけど?」
「帰り!?」
「そ。むしろ佐江さんの方から『史くんさえ良ければ、莱の勉強見てくれないかな? やっぱり史くんの大学に行きたいだろうし』って、呼び止められたし。バイト代も弾むってさ」
史くんはそう言って、いえーい、とピースをしてみせる。
まさか、母さんがそんなことを言っていたとは。
志望大を変えた理由は、史くんから離れなきゃって思ったからだ。けど、母さんには「史くんの大学は旧帝大だしさ、俺の成績じゃ目指すのギリギリだし」って話をしてしまった。
それが……こんなことになるなんて。もっと違う理由にしておけばよかった。自分の蒔いた種に愕然として、ため息が漏れる。
「だからさ、これは俺だけの決定じゃないってわけ。莱がうちの薬学部に入れるように、俺が手取り足取り面倒見るから」
「手取り足取り……」
「そ。学力が足りないとか、そんな理由で逃してたまるか……ってなわけで。これ渡しとく」
史くんが革製のトートバッグからゴソゴソと取り出したのは、厚みのあるバインダーだ。しかも、一冊どころじゃない。三冊もあって、なんか嫌な予感がした。
「それ……何……?」
「ん? あぁ、これ? 莱の苦手分野だけをまとめた問題集みたいなもん」
「俺の……苦手分野?」
「そ。数学と物理と化学なんだけど、莱が苦手な単元の応用問題を──」
「いや待って!? なんで史くんが知ってんの!?」
「なんでって、春まではよく莱の勉強俺が見てたし? 莱の弱点は全部把握済みに決まってんじゃん。英語と国語もあるけど、それはまた今度」
さも当たり前みたいに史くんが言うもんだから、俺は開いた口が塞がらなかった。
(普通……そんなの把握する? てか、このままじゃ俺、ほんとに逃げられなくなるんじゃ……?)
史くんのこと諦めなきゃいけないのに、むしろ逃げ道を塞がれていってるようで、胸がざわつき始める。
でも、史くんはお構いなしだ。
「莱。とりあえず、今日はこれ解いておいて。明日と明後日で、徹底的に苦手潰すからさ」
史くんはもう、俺の前で王子様みたいに優しい素振りはしてくれないらしい。前までは「はい」と渡してくれてたのに、ちょっと雑に「ほら」とバインダーを渡してくる。
「夜までに、この量……」
「そ。この量」
「無理」
「無理じゃない、無理じゃない。莱ならできる」
史くんはなんの根拠があるのか。もはや嫌がらせと思える量なのに、にこやかに言ってくる。
「ほら、もう自習時間ばっかで、問題ばっか解いてる時期じゃん。いけるって」
「でも、俺だって勉強プランってもんがあるんだよ」
「はい、文句言わなーい。うちの大学C判定だったの、俺知ってんだからな?」
「うっ……。だけど、他にもやらなきゃいけないことが」
ぐだぐだと言い訳をしていたら、史くんは奥の手を繰り出してきた。
「……そう。莱、できないんだね。僕は莱ならできると思って、寝る間も惜しんで用意してたんだけど……難しいんだね」
瞬く間に、あの柔らかな史くんが顔を出す。
史くんはずるい。そう言われたら、俺が断れないのを知ってるのだ。案の定、うぐっと言葉を詰まらせてしまった。
「ほんとに難しい?」
背を丸めて、俺の顔を覗き込むように見つめてくる史くん。どこかうるうるするような瞳と、念押しするような問いに、俺の心はすぐさま根を上げた。
「で、できる限り……頑張る」
「できる限り?」
「頑張らせていただきます!」
そう返した瞬間、史くんはケロッとして「莱ってば、チョロすぎじゃん。ほんと心配になんだけど」と眦を緩めた。
(くそっ! やられた!)
自分のバカさ加減は大概だ。そんな自分に呆れたところで、史くんが「あははっ」と軽く笑って、俺の頭に手を伸ばしてくる。セットしたばかりの俺の髪をぐしゃぐしゃっと雑に撫でて、史くんは満足げに口角を上げた。
「じゃ、そーゆーことで。頑張れ、莱。俺はまた寝るから」
史くんは俺から手を離すと、そのままひらひらと手を振って、門から出て行った。
どこかくだけた口調も、その雑な撫で方も、俺の知る史くんと違う。
「もう、俺の知ってる史くんじゃないんだ」
意識のうちにそう呟いたけど、やっぱりどんな史くんも史くんでしかなくて。
未だ史くんへの恋心を消せない俺の心臓は、見境なく早い鼓動を奏でていた。
***
「やばい。終わらん……」
放課後。延々と終わらない問題集を片手に、俺は教室の一番後ろの席で頭を抱えていた。
残るは物理の一冊。史くんのバイトが終わるのは、午後九時以降。頑張ればまだ間に合うだろうけど、なんかもう頭が痛い。
理系科目は得意だけど、苦手な分野ばかりだと別だ。
学校に着いてからトイレ休憩と昼メシ食べる以外は、ずっと必死に数学と化学を解きまくってたのだ。もう、脳みそ擦り切れそうで、そりゃもう疲れた。
「あー! もう無理っ!」
すべてを放り投げるように両手を挙げて叫ぶ。すると、晴人が苺ミルクのパックを手に、俺の方へ近づいてきた。
「莱。なんか根詰めすぎじゃね? これ飲めば?」
机の上に苺ミルクを置きながら、晴人が前の席にトスッと腰を下ろす。
「あ、ありがと」
「いえいえ。って……もう話しかけていい感じ?」
「あぁ、うん」
もらったパックにストローを刺して、糖分補給をしようと、苺ミルクを口に含んだ次の瞬間。
「じゃ、早速。莱、ゴムは? 調達できたんだろ?」
唐突にその単語が飛び出て、危うく苺ミルクを噴き出しかけた。
いや、ちょっと飛び出た。口の端から苺ミルクが垂れるのを感じて、慌てて手の甲で拭う。
「きったねーな、莱」
「うるせーやい。急に言い出すからだろ」
「ごめんごめん。で? 持ってきた?」
期待するような目で見られて、俺は渋々机にかかったリュックに手を伸ばした。ごそごそと中を漁って、白いビニール袋に入ったゴムを「ほらよ」と渡す。
「うわっ、やべぇ! 本物!」
「そりゃそうだ」
「滝! 早瀬! お前らも来い!」
晴人は勢いよく手招きして、他の二人を呼び寄せる。
男子校で女子に無縁の俺たちだ。滝と早瀬もゴムを見るなり、「やべ──!」と口を揃えて叫ぶ。
突然「受験のお守りにゴムってアリじゃね?」と、晴人が意味不明なことを言い出したせいで、大変な目にあったけど。なんていうか、見てるだけでアホすぎて、今悩んでることも、この瞬間だけは忘れられそうになる。
すべての元凶はコイツらだってのに、昨夜の苛立ちはもう、どこかに消えていった。
だから、一夜明ければ、昨日の史くんから元に戻るかもしれない。
なんて淡い期待を寄せていたけど、現実はそううまくいかない。
「らーい。おはよ」
翌朝、金曜日。学校に行こうと門を開けたら、史くんが塀にもたれかかるようにして立っていた。
しかも、いつもの優しい口調じゃなくて、なんていうかこう……昨日の悪い史くんのまま。それに伴って、心なしか史くんの服装も黒で統一されていて、まさにブラック史くんだった。
「ふっ……史くん」
「ん?」
「あ、えっと……おはよ。……あのさ、なんでうちの前にいる感じ? 大学は……ないんじゃ?」
「ん? 莱ってば、急に俺に興味戻った?」
史くんはほんの少し嬉しそうに目を細めて、軽く首をかしげてみせる。
「え? いや、そういうわけじゃないけどさ」
「ふーん。そっか。……ま、いいや。それより……莱が学校行く前に、家庭教師らしいことしとかなきゃなと思ってさ」
史くんはそう言ってにやりと笑うもんだから、俺は「あぁ…」と頭を抱えた。
一応、俺はあのあと、史くんにゴムは罰ゲームで買ったことを説明した。それで誤解は解けたはずだし、史くんも納得してくれたはずだった。
なのに、俺が志望大を変えたことが、よほど気に食わなかったらしい。
金土日のバイト終わりに、二時間。史くんが家庭教師をすることになってしまったのだ。
「ほんとにやる気……?」
「そりゃもちろん。佐江さんにも頼まれたしさぁ」
「え? 母さんに頼まれた……?」
まさかの発言に、目をしばたたかせると、史くんはこくりと頷いた。
「昨日、佐江さんにさ、言ったんだよ。『責任もって莱の勉強見ます』って。そしたら、即OK」
「は!? いつの間にそんな話に……!?」
「ん? 帰りにだけど?」
「帰り!?」
「そ。むしろ佐江さんの方から『史くんさえ良ければ、莱の勉強見てくれないかな? やっぱり史くんの大学に行きたいだろうし』って、呼び止められたし。バイト代も弾むってさ」
史くんはそう言って、いえーい、とピースをしてみせる。
まさか、母さんがそんなことを言っていたとは。
志望大を変えた理由は、史くんから離れなきゃって思ったからだ。けど、母さんには「史くんの大学は旧帝大だしさ、俺の成績じゃ目指すのギリギリだし」って話をしてしまった。
それが……こんなことになるなんて。もっと違う理由にしておけばよかった。自分の蒔いた種に愕然として、ため息が漏れる。
「だからさ、これは俺だけの決定じゃないってわけ。莱がうちの薬学部に入れるように、俺が手取り足取り面倒見るから」
「手取り足取り……」
「そ。学力が足りないとか、そんな理由で逃してたまるか……ってなわけで。これ渡しとく」
史くんが革製のトートバッグからゴソゴソと取り出したのは、厚みのあるバインダーだ。しかも、一冊どころじゃない。三冊もあって、なんか嫌な予感がした。
「それ……何……?」
「ん? あぁ、これ? 莱の苦手分野だけをまとめた問題集みたいなもん」
「俺の……苦手分野?」
「そ。数学と物理と化学なんだけど、莱が苦手な単元の応用問題を──」
「いや待って!? なんで史くんが知ってんの!?」
「なんでって、春まではよく莱の勉強俺が見てたし? 莱の弱点は全部把握済みに決まってんじゃん。英語と国語もあるけど、それはまた今度」
さも当たり前みたいに史くんが言うもんだから、俺は開いた口が塞がらなかった。
(普通……そんなの把握する? てか、このままじゃ俺、ほんとに逃げられなくなるんじゃ……?)
史くんのこと諦めなきゃいけないのに、むしろ逃げ道を塞がれていってるようで、胸がざわつき始める。
でも、史くんはお構いなしだ。
「莱。とりあえず、今日はこれ解いておいて。明日と明後日で、徹底的に苦手潰すからさ」
史くんはもう、俺の前で王子様みたいに優しい素振りはしてくれないらしい。前までは「はい」と渡してくれてたのに、ちょっと雑に「ほら」とバインダーを渡してくる。
「夜までに、この量……」
「そ。この量」
「無理」
「無理じゃない、無理じゃない。莱ならできる」
史くんはなんの根拠があるのか。もはや嫌がらせと思える量なのに、にこやかに言ってくる。
「ほら、もう自習時間ばっかで、問題ばっか解いてる時期じゃん。いけるって」
「でも、俺だって勉強プランってもんがあるんだよ」
「はい、文句言わなーい。うちの大学C判定だったの、俺知ってんだからな?」
「うっ……。だけど、他にもやらなきゃいけないことが」
ぐだぐだと言い訳をしていたら、史くんは奥の手を繰り出してきた。
「……そう。莱、できないんだね。僕は莱ならできると思って、寝る間も惜しんで用意してたんだけど……難しいんだね」
瞬く間に、あの柔らかな史くんが顔を出す。
史くんはずるい。そう言われたら、俺が断れないのを知ってるのだ。案の定、うぐっと言葉を詰まらせてしまった。
「ほんとに難しい?」
背を丸めて、俺の顔を覗き込むように見つめてくる史くん。どこかうるうるするような瞳と、念押しするような問いに、俺の心はすぐさま根を上げた。
「で、できる限り……頑張る」
「できる限り?」
「頑張らせていただきます!」
そう返した瞬間、史くんはケロッとして「莱ってば、チョロすぎじゃん。ほんと心配になんだけど」と眦を緩めた。
(くそっ! やられた!)
自分のバカさ加減は大概だ。そんな自分に呆れたところで、史くんが「あははっ」と軽く笑って、俺の頭に手を伸ばしてくる。セットしたばかりの俺の髪をぐしゃぐしゃっと雑に撫でて、史くんは満足げに口角を上げた。
「じゃ、そーゆーことで。頑張れ、莱。俺はまた寝るから」
史くんは俺から手を離すと、そのままひらひらと手を振って、門から出て行った。
どこかくだけた口調も、その雑な撫で方も、俺の知る史くんと違う。
「もう、俺の知ってる史くんじゃないんだ」
意識のうちにそう呟いたけど、やっぱりどんな史くんも史くんでしかなくて。
未だ史くんへの恋心を消せない俺の心臓は、見境なく早い鼓動を奏でていた。
***
「やばい。終わらん……」
放課後。延々と終わらない問題集を片手に、俺は教室の一番後ろの席で頭を抱えていた。
残るは物理の一冊。史くんのバイトが終わるのは、午後九時以降。頑張ればまだ間に合うだろうけど、なんかもう頭が痛い。
理系科目は得意だけど、苦手な分野ばかりだと別だ。
学校に着いてからトイレ休憩と昼メシ食べる以外は、ずっと必死に数学と化学を解きまくってたのだ。もう、脳みそ擦り切れそうで、そりゃもう疲れた。
「あー! もう無理っ!」
すべてを放り投げるように両手を挙げて叫ぶ。すると、晴人が苺ミルクのパックを手に、俺の方へ近づいてきた。
「莱。なんか根詰めすぎじゃね? これ飲めば?」
机の上に苺ミルクを置きながら、晴人が前の席にトスッと腰を下ろす。
「あ、ありがと」
「いえいえ。って……もう話しかけていい感じ?」
「あぁ、うん」
もらったパックにストローを刺して、糖分補給をしようと、苺ミルクを口に含んだ次の瞬間。
「じゃ、早速。莱、ゴムは? 調達できたんだろ?」
唐突にその単語が飛び出て、危うく苺ミルクを噴き出しかけた。
いや、ちょっと飛び出た。口の端から苺ミルクが垂れるのを感じて、慌てて手の甲で拭う。
「きったねーな、莱」
「うるせーやい。急に言い出すからだろ」
「ごめんごめん。で? 持ってきた?」
期待するような目で見られて、俺は渋々机にかかったリュックに手を伸ばした。ごそごそと中を漁って、白いビニール袋に入ったゴムを「ほらよ」と渡す。
「うわっ、やべぇ! 本物!」
「そりゃそうだ」
「滝! 早瀬! お前らも来い!」
晴人は勢いよく手招きして、他の二人を呼び寄せる。
男子校で女子に無縁の俺たちだ。滝と早瀬もゴムを見るなり、「やべ──!」と口を揃えて叫ぶ。
突然「受験のお守りにゴムってアリじゃね?」と、晴人が意味不明なことを言い出したせいで、大変な目にあったけど。なんていうか、見てるだけでアホすぎて、今悩んでることも、この瞬間だけは忘れられそうになる。
すべての元凶はコイツらだってのに、昨夜の苛立ちはもう、どこかに消えていった。



