毒殺予定の旦那様は、わたしを愛し過ぎている


 しとしとと雨が降っている。あたたかい雨に煙る帝都、春の夜。
 眠る屋敷の長廊下を進む、華奢な影があった。

 腰まで流れる黒い髪。小さな顔。桃色のふっくらとした頬に、小さな唇。一見すれば、まるで子猫めいた愛らしさなのだが、この女、その薄い身体の内側に——猛虎を飼っている。

 翠波(うるは)は、長い廊下をのしのしと大股で進んでいく。
 その瞳にたぎるのは、まぎれもない闘志。翠波の瞳は、今宵も復讐の炎でめらめらと燃えている。
 翠波は廊下の最奥を睨みつける。視線の先は、夫の寝室。

 翠波は低くつぶやく。
「今日こそ……」
 ——今日こそ、息の根を止めてやる。 天瑠 千景(あまる ちかげ)!!!

 方法は、嫁に来たときから決めている。
 毒殺だ。
 しかし翠波は、夫に天罰を下すことができるのなら、その方法はなんだってよかった’。
 腕力で落とし前をつけてやってもよかったのだ。

 翠波の実家・碧川家は鉱山をもつ実業家だった。男の人の出入りが多いからと、心配性の両親は翠波に唐手と薙刀を習わせてくれた。
 気丈な性格はその賜物か、いや、生まれつきのような気もするが、ともかく翠波には護身術の心得がある。
 その術で、夫を殺めることもできる気がした。むしろ、親な仇を討つのなら、その方がすっきりするのではないか。

『いえ、翠波ちゃん。それはだめよ。冷静になって』

 まさか夫の寝室に薙刀を持ち込むわけにもいかないし、いくら千景が生っ白い肌の、まるでガラス細工のように繊細な容貌をしていると言っても、男は男だ。
 少なくとも、小柄な翠波と比べると頭ひとつほど背が高い。それに、千景は帝都一の大財閥の御曹司だ。武術くらい嗜むかもしれない。その可能性を鑑みると、

『毒殺がいいのではないかしら。証拠も残りづらいわ』

 そう言い出したのは、妹の楓だった。 
 紅蘭 楓(こうらん かえで)
 翠波の実家が没落し、養子として引き取ってくれたのが紅蘭家。そこの一人娘が楓だった。
 翠波と楓は同い年の十九歳だが、翠波の方が三日早く生まれたことから、公文書上は翠波が姉ということになっている。しかし、翠波よりよほど落ち着いていて頭もキレる。頼り甲斐のある妹だった。

『ほうら、ちょうどここに毒が。さあ、お持ちになって。早くしないと迎えが来るわ』

 そうして握らせてくれたのが、この小瓶だった。
 翠波は右手の小瓶に視線を落とした。
 赤から紫へなめらかに色を変えるガラスは、まるで夜明けの空のようだ。

(これが毒なのよね。これで、天瑠千景を殺すのよね。わたしが……)

 恐ろしさはあるが、悪いとは思っていない。
 仮にも夫を殺めようだなんて、それでいて良心の呵責も感じないなんて、わたしは人でなしだろうか。

 いや、人でなしは千景の方だ。
 そもそも、千景は翠波を愛していない。この結婚だって、養家・紅蘭家のもつ港の利権が欲しくて、千景が企てた戦略のひとつだった。
 それさえ手に入れば、ほかのことはどうでもいい。つまり、千景は天瑠財閥を大きくできればそれでいいのだ。

 そうやって、翠波の実家も騙された。
 事業の仲間だと信じていた天瑠千景の裏切りで、実家は鉱山を手放すことになった。そこから先は、坂を転げ落ちるようにあっけなかった。鉱山を失い、家を失い、苦にした両親は病になって命を失った。実家は没落した。

 しかし千景はそんなこと、ちっとも覚えていないのだろう。
 でなければ、政略結婚の相手に翠波を名指しするはずない。こんなことをしておいて、翠波に憎まれていると想像もできないほど、千景は無神経な男ではない。頭は回る。ただ、血が通っていないだけなのだ。

 だから、きっと、翠波がやらなくたって、千景を憎む誰かが同じことをするだろう。千景のせいで没落した家は、翠波の実家だけではない。
 ひとから多くの恨みを買っていることは、千景も承知しているらしい。
 千景はどこへ行くのにも警護をつける。家のもの以外は口にしない。ひとの前で笑顔を見せない。誰のことも信用しない。妻でさえ、寝室に入れないのはそのためだろう。

 使用人たちが陰で、翠波をなんて呼んでいるか。
 「置物」だ。
 役にも立たず、ただ家に置かれているだけ。触れられないから、埃をかぶっている。

 使用人に陰口を叩かれようが、嫌がらせを受けようが、孤立無縁であろうがなんだろうが。やると決めたらやるのだ。翠波に二言はない。

(……見てなさい、天瑠千景。あんたがわたしを信用するまで、何度だってやってやるわよ)

 恥ずかしかろうが、悔しかろうが、ばかばかしかろうが、親の敵討のためならば、夫を愛する妻のふりだって、愛して欲しい妻のふりだってしてやる。

 短い髪が好きなら切ろう。濃い化粧が好きならそのように。
 あんたが望む姿になってやろうと決めている。

 じっとりと殺意が滲み出した視線で、翠波はドアを睨め上げる。

「旦那様。翠波です」
 ノックの後、何度かノブを引いてみるが、やはり今夜も鍵がかかっているのだ。しかし翠波は諦めない。

「旦那様。……千景様」

 ——ガタン
(何かが落ちたような音がした。……今日は起きているのね)

「千景様。開けてくださいませんか。どうしてもあなたの顔が見たくって」
「……」
(返事は、ない。天瑠のやつ、一体なにをしているの)

 夫婦の居宅は洋館だ。住み慣れた紅蘭の家と同じように、という千景の”優しさ”でわざわざ新築したらしい。同じ敷地内に母屋があるが、そちらは伝統的な日本家屋である。
 それはともかく、翠波は夫の部屋のドアに耳をくっつけてみる。こういうとき、洋室はいけない。ドアが厚くて音が拾いづらいのだ。

 ごそごそ音が聞こえる。
 が、いくら待っていてもだ千景は出てこない。どうやら夫は、今夜も無視を決め込むつもりらしい。 

 翠波はぐぬぬと歯噛みした。
(ありえない。わたしが、こんなに、恥を忍んで、こんな声を——)

 つまり”発情期の雌猫のような声”を出しているというのに、この男は! なんて惨めでみっともないのだろう。

 結婚する前、実のところ翠波は、引く手あまただった。
 この顔のためだ。一見すると子猫のように「かわいそうな顔」をしている。人間は、かわいそうなものに惹かれる。庇護欲がくすぐられるのだろう。翠波にも覚えがある。

 しかし、弱そうだから「護ってやる」だなんて、図々しい話ではないか。翠波には、その辺の男よりもずっと心が強い自負がある。翠波にとってかわいいと言われることは、舐められているのと同義だ。我慢ならない侮辱だ。

 けれど悲しいかな翠波は、千景を籠絡するために、この容姿と声を活用する以外の解決策を見つけられずにいた。
 不甲斐ない。これでは自分で、自分の価値を「顔だけ」と認めていることになる。実際、そうなのかもしれない。気丈な女を好んで結婚したがる男はいない。

 しかし千景は、翠波の色仕掛けにも靡かない。
 その一点だけは、褒めてやりたい。

 翠波の見せかけの可愛らしさに惑わされない千景は、これまで見てきた男たちとは間違いなく異なっている。

(やはり、女に興味がないのかもしれないわ。……でも、愛人がいるような噂も聞かないし。いえ、そうだわ! 愛人が男なのだとしたら?)

 ありうる。
 用が済んでも翠波と離縁しないのは、ただ面倒なだけではなく、体裁をつくろうためかもしれない。お飾りでも妻がいれば、縁談の話は持ち込まれない。

「まだ、そこにいるのか」
「え? ええ! 翠波はまだ、ここにおりますわ」
 しかし、そのあとはまた沈黙だ。
「旦那様。扉を開けてくださいませんか。……眠れないのです。昔からそうなんです。こんなふうに、雨の降る日は心が落ち着かない」

 なにやら、こういう妖怪がいた気がする。手を返しなを変え、家主になんとかして扉を開けさせ、とって食おうとする妖怪が。

 がたん、ともう一度音がした。
 千景がこちらに歩いてくる気配を感じる。

 翠波は狼狽えた。こんなこと、いままでに一度もなかったからだ。いつだって梨の礫で、千景は翠波の呼びかけに答えた試しはない。
 どきん、と期待に胸が鳴った。同時に手の中は湿っている。毒の小瓶を落とさないよう、翠波は寝巻きの帯に隠した。

 ——ギィ

 重いドアがほんのわずかに開いた。
 指一本分のその隙間から、千景の小さな息遣いが聞こえる。

 何かを言おうとしているのか、それとも、翠波をついぞ部屋に招いてくれるつもりか
 が、千景はそれ以上、なにもしなかったし、言わなかった。
 じれったくなって、翠波は言葉を継いだ。

「こんな夜に、愛犬がそばにいてくれました。黒と白の毛の混ざった、小さな犬です。あっ、小さいけど成犬です。アメリカで生まれた子犬を”育ての親”が誕生日に贈ってくれたんです」
「……」
「いまは紅蘭の家におります。ここには連れてこられなかったから」
「……」
「あの子の温もりが懐かしいんです。寂しいんです。……ねえ、千景様? 一緒に眠ってくださいませんか」
「眠る」
「……はい。抱きしめて、もらえませんか」

 きん、と鳴るような沈黙があたりを包んだ。
 間を開けて、千景は小さく息を吐く。それがため息であると、翠波はやや遅れて気づいた。

「……やめてくれ」

 それだけ言って、千景は戸を閉めた。
 決して入ってくれるな。そう言わんばかりに、扉にはすぐに鍵がかけられる。

「……は?」

 翠波は暗い廊下で弱まった雨音を聞きながら、どしゃぶりの雨にさらされたように項垂れていた。
 夜が深ける。