それは静かな宣言だった。
俺はなにも言えずに聖夜の横顔を見つめる。もう俺とは関わらない。そう言った彼を。
「……俺はナツのぜんぶがほしかった。俺を憎んでほしかったし、同じくらい好きになってほしかった。それは小学生のときに生まれた執着でしかなかったけど……でも、ナツと誕生日旅行に行った日に新しい気持ちが芽生えた。
ナツが好きだ。恋人になってほしい、って。
……でも俺は間違えた。そうだよね? ナツを傷つければまた俺にすがってくれると思ったんだ。でもきみはちがった。俺を置いて飛びだしていって……結果的に、俺はナツを危険にさらした。
最低だ。わかってる。でも俺はこれ以外にナツを手に入れる方法を知らない。たとえナツが俺を友達だと思っていてくれていても、それだけじゃ俺は満足できない。どんなきれいな感情も、汚い感情も、それがナツの中にあるならぜんぶほしい」
――どうしたって、そう、願ってしまうから。
「だから……俺はもう、ナツには近づかない」
「…………」
「今回は偶々迷子になっただけで済んだ。でも、その次はどうかなんて保証できない。俺は……ナツの体に消えない傷が残るのはいやなんだ。いつか自分がされたみたいに痛い思いをさせることだけはいやなんだ。
それだけはしたくないから。
きみに関わるのは、……もう、これきりにする」
そう言うと聖夜は俺を見た。
暗闇でもわかる。悲しくなるような瞳で。
「っ、聖……」
彼は俺の頬にやさしくふれると――前髪越しにひたいにキスをした。
さよなら、って。
そう、伝えるみたいに。
「……ごめんね……」
彼はさみしそうに微笑む。
こんな――こんなときでさえ、彼は笑う。泣きたいのを隠して。
こんなふうにしかだれかを愛せない自分を、ごまかすように。
……さあ、帰ろう。
俺から手を離して聖夜が言う。
――ああ、ほんとうに最後なんだ。
澄んだ夏の夜の空気に、どこかから聞こえる虫の声に、雲間が晴れて射しこんできた月の光に、俺は想う。
これで、聖夜はもう俺に近づかなくなるって――――
「っ……」
気がつくと俺は聖夜のシャツをつかんでいた。
「ナツ?」と不思議そうに彼が俺を振りむく。
これで聖夜はもう俺に近づかなくなる。俺はもう聖夜に振りまわされずに済むし、ああいうやり方で傷つけられることもなくなるし、彼に怯えることもなくなる。
いいことづくめだ。
これが正解なんだ。
わかっている。彼の決断を受けいれるべきだって。彼が話しかけてくるようになる前の日常にもどるべきだ、って。
わかっているのに。
俺は、聖夜を失うことが怖い。
「……ナツ、」
実現できないわがままを言われたみたいな声で聖夜が俺の名前を呼ぶ。
ダメだよ。そう微笑んで、シャツの裾をつかんでいる俺の手をほどこうとした。
俺は首を横に振る。
聖夜と離れなきゃいけない。頭はそう訴えてくるのに、心臓が痛いくらいに泣いている。
聖夜のそばにいたい、って。
聖夜は困ったように俺を見た。
「……ナツ。俺と一緒にいたら、ナツはまた傷つけられるよ」
「…………」
「いままでよりもっとひどいこともする」
「…………」
「ナツのこと、たくさん泣かせる」
「…………」
「だから……」
俺は首を振りつづける。
目に涙がにじんだけど、それがどうしてなのかはわからなかった。
「同情と優しさって同じなんだよ。ナツ、知ってた?」
「……同情じゃない」
「そう――たとえそうだとしても俺には同じだ。
ナツがこの手を離さないなら俺は徹底的にきみにつけこむ。俺を引きとめた責任を、俺をダメにした責任を死ぬまでナツに取ってもらう。ナツなしで生きられないってことがどういうことかわからせて、俺の存在を体と心に刻みこむ。ほかの相手なんて選択肢にも上らせない。一生、俺だけだ。
……ねえ、ほんとうにその意味がわかってる?」
俺はうなずく。
「キスだけじゃ済まないよ?」
「……、」
「ナツが想像もできないようなやり方で俺はナツを自分のものにする。俺なしじゃ生けていけないようにする。きみが泣いたって許さない。毎晩毎晩積みかさねるようにして俺はナツの体をダメにしていく。……もう、ふつうの男として生きられないくらいに」
「……っ」
「怖い? それが当然だよ。
でも……ここで俺を引きとめるっていうのはそういうことだから」
指先が震える。いまにも聖夜のシャツからすべりおちてしまいそうになる。
……きっと聖夜はいま言ったことをほんとうに俺にやる。頭も、体も、心も、ぜんぶ聖夜の好きなようにされる。
いまなら逃げられる。なにも聞かなかったことにできる。
逆に言えば――
ここから先は、もう、逃げられない。
怖い。聖夜のことが、俺は怖い。
けど、それ以上に。
聖夜に――そばにいてほしい。
常識も。未来も。平凡な生活も。
ぜんぶ、手放してしまえるほどに。
「ナツ――」
俺は聖夜にしがみついた。それは意外だったようで、聖夜は驚いたように俺を見下ろす。
そして声をひそめた。
「……これが最後の確認だよ」
「…………」
「逃げなくていいの?」
それは――静かな声で問いかけられた言葉は――俺にはこう聞こえた。
逃げないでいてくれるの、って。
「お、れは……」
いままでずっと本音を伝えることが怖かった。だれかを傷つけてしまうことが、だれかにきらわれることが怖かった。だれにもたすけてもらえないことが、だれにもえらばれないことが怖かった。
聖夜とは逆だ。
彼は俺に本音を伝えてくれた。俺を傷つけることも、俺をきらわれることも望みなんだと言った。その上で俺をたすけてくれて、あの日、ひとりぼっちだった俺をえらんでくれた。
俺には聖夜のすべてを理解できない。それでも。
聖夜は俺にとってまぶしいままで、
「……聖夜が……だれよりも大切、だから」
俺の。特別な相手、だ。
もう一度聖夜は俺の頬にふれる。さっきよりも繊細に――まるで硝子細工にでもふれるみたいに。
だれかにそんなふうにさわられた経験なんてなかった。自分が大切にされてるみたいで、嬉しいという気持ちよりも先に戸惑いがきてしまう。
ふれられているところが熱い。聖夜の熱がうつったみたいに。
その熱は頬から全身をめぐって、俺の鼓動を、指先を熱くさせる。
「……ナツ、キスしていい?」
「い、いくない……」
「どうして」
「俺……いま、ぜったい変な顔してる、から」
「暗くて見えないよ」
そう言って聖夜は俺の顔に自分の顔を近づけてきた。反射的に俺は目を閉じる。
彼の唇は冷たかった。だけどやわらかい。
それはいままで感じたことがない種類のやわらかさで、甘いものを食べたときみたいに頭の奥がとろけそうになる。
――ダメだ、と思った。
唇をくっつけているだけなのにこれは気持ちよくて、ダメだ、と思う。
これを知ってしまったらもどれなくなる。
これなしじゃ生きていけなくなる――
「っ……」
聖夜の体を押しのけようとしたら両手で頬をつかみなおされた。
俺を傷つけないようにやさしく、だけど、絶対に逃げられないほど強い力で――
驚いてすこしだけ開いた口から聖夜の舌が入ってくる。
ぬるりとしたその感触に俺は目を開けてもがいたけど、彼は離してくれなかった。俺の舌に彼のそれが重なって、ゆっくりからみついてくる。
「ん、ぅ……」
俺は聖夜の肩を押したれど――それは嫌悪感のせいじゃなかった。
むしろその反対。この気持ちよさから逃げたくて俺は身をよじる。
口の中しかさわられていないのに、全身をまさぐられているみたいな。
舌を吸われているだけなのに、肌の内側まで舐められているみたいな。
そんな奇妙で――体験したことのない気持ちよさから。
「っ、は、」
ふいに聖夜が離れていって俺は大きく息を吐きだす。ずっと呼吸をしていなかったらしい。
でも休ませてもらえたのはほんの数秒で、「ごめん、もういっかい――」と聖夜は俺の目を見つめて言ってくる。
「ま、まって……」
「これで最後にするから」
「きよ――」
有無を言わさず聖夜は俺にキスをしてくる。さっきよりも容赦なく、深く。
……けっきょく、これで最後なんて言うのは嘘で。
そのあとも俺は聖夜にキスをされつづけたのだった。数がわからなくなるくらい、たくさん。

