アルフレートの本音の吐露から、少し経った。
王国を揺るがした政争は完全に鎮火し、アルフレートは名実ともに王国の堅牢な支柱となった。
リーゼを塔に閉じ込める理由は、もうどこにもない。
「リーゼ、もうどこへでも自由に行っていい。君を縛るものは何もないんだ」
アルフレートはそう訴えた。
……だというのに、リーゼは確固たる自分の意志で図書塔から出ることを拒んだのだ。
「最高の執筆環境なんです、ここ!」
アルフレートとしても、リーゼの自由にさせてやりたい。
彼女が良いと言うのなら、閉じ籠るのも否定はしない。アルフレートは、リーゼをとことん甘やかすことに決めたのだ。
……とはいえ、一緒に外へ行きたい欲もあった。
「本邸にも、この塔に負けないほどの蔵書がある。……だから、あちらで一緒に暮らしてはくれないだろうか」
そんな切実な夫の願いに、リーゼは本邸へも足を運ぶようになった。……蔵書に惹かれたであろうことに、アルフレートはこっそり嫉妬したが。
しかしそこにあったのは甘い生活──だけではなく、
「リーゼ、街の菓子店から新作のサンプルが届いたんだが、一緒にどうかな」
「……あと三行! あと三行でこの騎士が洞窟から脱出するんです! 今は糖分より語彙力が欲しいんです!」
「そ、そうか……」
騎士団の最高権力者でもあり、公爵でもあるアルフレートが、妻の筆が止まるのを邪魔しないよう足音を消して歩き、「彼女の飲む紅茶が冷めぬよう、せめて魔法で温めておこう……」と甲斐甲斐しく世話を焼く。
少し前までは、決して見られぬ光景だった。
そして、それでもリーゼが一日の大半を過ごすのは、やはり慣れ親しんだ図書塔の書庫だった。
図書塔という名の『檻』は、とっくにリーゼという光にひれ伏すための聖域でしかなかったのだ。
「もちろん本邸のお部屋も大好きですけれど、やっぱりここが一番、物語の神様が降りてきてくれる気がするんです」
困ったように笑う妻のために、アルフレートは自室から図書塔を繋ぐ専用の魔術回廊を造り、さらには図書塔の中、リーゼの書庫に最も近い部屋に、自分専用の執務机を持ち込んだ。
今や、かつての『檻』は、王国で最も警備が厳重な、しかし最も甘い空気が流れる『夫婦の書斎』へと変貌を遂げている。
一方で、屋敷の使用人たちの態度は劇的に変化した。
彼らは自分たちが冷遇していた奥方こそが、王国中を熱狂させている天才作家『リネア・ステラ』その人であると知ったのだ。
今では、彼女が廊下を通るたびに、憧憬と尊敬の眼差しが注がれる。
だが、『リネア・ステラ』の正体は、カスティール公爵家における公然の秘密として固く守られていた。
外の世界では、彼女はいまだ正体不明の天才作家のままだった。
「……よし、書けた!」
ある夜、リーゼは満足げにペンを置いた。
第八巻で悩んでいた、騎士が愛を叫ぶシーン。
「『騎士は自身の衝動に逆らわず、思いの丈を込めて、彼女を強く抱きしめた』……。うん、やっぱりこれだわ。あの時のアルフレート様を思い出すと、すごく筆が乗るんだもの」
リーゼがインクの乾いていない原稿を眺めてにやけていると、背後から大きな腕が伸びてきて、彼女を椅子ごと包み込んだ。
──あの日、アルフレートがすべてを吐露してくれた時。あの時の情景は今もリーゼの心に焼き付いている。
「……私の情けない姿を、美しく表現してくれるのは光栄ではあるが……」
「情けないだなんて。世界で一番格好いい騎士様のお姿ですわ、アルフレート様。……あ! そうだ。次のシーンで騎士様がヒロインに甘い囁きをするんですけど、ちょっといいイメージが湧かなくて……。私に囁いてみてはくれませんか?」
「……私が言うのか?」
「はい! 実際のお声で聞くと、やはりリアリティが違うのです。──さあ、全力で!」
アルフレートは顔を赤く染めながらも、愛する妻の筆が進むならと、騎士団の部下には絶対に見せられないような甘い台詞を口にする羽目になるのだった。
リーゼは悪戯っぽく笑い、夫の頬に触れる。
アルフレートは困ったように眉を寄せながらも、愛おしくてたまらないというように、彼女の指先のインク汚れを、自分の指で優しくなぞった。
「君の物語の騎士は、最愛の女性を幸せにできたのだろうか」
「それは内緒です。……この物語の最後の一頁は、まだずっと先──私たちがふたり揃って、おじいさまとおばあさまになるまで続きますもの」
窓の外では、あの夜と同じ銀色の月光が図書塔を照らしている。
かつて孤独だった騎士と、塔に閉じ込められた魔女。
二人の物語は、今や檻を飛び出し、どこまでも自由な愛の言葉で綴られ続けていく。
王国を揺るがした政争は完全に鎮火し、アルフレートは名実ともに王国の堅牢な支柱となった。
リーゼを塔に閉じ込める理由は、もうどこにもない。
「リーゼ、もうどこへでも自由に行っていい。君を縛るものは何もないんだ」
アルフレートはそう訴えた。
……だというのに、リーゼは確固たる自分の意志で図書塔から出ることを拒んだのだ。
「最高の執筆環境なんです、ここ!」
アルフレートとしても、リーゼの自由にさせてやりたい。
彼女が良いと言うのなら、閉じ籠るのも否定はしない。アルフレートは、リーゼをとことん甘やかすことに決めたのだ。
……とはいえ、一緒に外へ行きたい欲もあった。
「本邸にも、この塔に負けないほどの蔵書がある。……だから、あちらで一緒に暮らしてはくれないだろうか」
そんな切実な夫の願いに、リーゼは本邸へも足を運ぶようになった。……蔵書に惹かれたであろうことに、アルフレートはこっそり嫉妬したが。
しかしそこにあったのは甘い生活──だけではなく、
「リーゼ、街の菓子店から新作のサンプルが届いたんだが、一緒にどうかな」
「……あと三行! あと三行でこの騎士が洞窟から脱出するんです! 今は糖分より語彙力が欲しいんです!」
「そ、そうか……」
騎士団の最高権力者でもあり、公爵でもあるアルフレートが、妻の筆が止まるのを邪魔しないよう足音を消して歩き、「彼女の飲む紅茶が冷めぬよう、せめて魔法で温めておこう……」と甲斐甲斐しく世話を焼く。
少し前までは、決して見られぬ光景だった。
そして、それでもリーゼが一日の大半を過ごすのは、やはり慣れ親しんだ図書塔の書庫だった。
図書塔という名の『檻』は、とっくにリーゼという光にひれ伏すための聖域でしかなかったのだ。
「もちろん本邸のお部屋も大好きですけれど、やっぱりここが一番、物語の神様が降りてきてくれる気がするんです」
困ったように笑う妻のために、アルフレートは自室から図書塔を繋ぐ専用の魔術回廊を造り、さらには図書塔の中、リーゼの書庫に最も近い部屋に、自分専用の執務机を持ち込んだ。
今や、かつての『檻』は、王国で最も警備が厳重な、しかし最も甘い空気が流れる『夫婦の書斎』へと変貌を遂げている。
一方で、屋敷の使用人たちの態度は劇的に変化した。
彼らは自分たちが冷遇していた奥方こそが、王国中を熱狂させている天才作家『リネア・ステラ』その人であると知ったのだ。
今では、彼女が廊下を通るたびに、憧憬と尊敬の眼差しが注がれる。
だが、『リネア・ステラ』の正体は、カスティール公爵家における公然の秘密として固く守られていた。
外の世界では、彼女はいまだ正体不明の天才作家のままだった。
「……よし、書けた!」
ある夜、リーゼは満足げにペンを置いた。
第八巻で悩んでいた、騎士が愛を叫ぶシーン。
「『騎士は自身の衝動に逆らわず、思いの丈を込めて、彼女を強く抱きしめた』……。うん、やっぱりこれだわ。あの時のアルフレート様を思い出すと、すごく筆が乗るんだもの」
リーゼがインクの乾いていない原稿を眺めてにやけていると、背後から大きな腕が伸びてきて、彼女を椅子ごと包み込んだ。
──あの日、アルフレートがすべてを吐露してくれた時。あの時の情景は今もリーゼの心に焼き付いている。
「……私の情けない姿を、美しく表現してくれるのは光栄ではあるが……」
「情けないだなんて。世界で一番格好いい騎士様のお姿ですわ、アルフレート様。……あ! そうだ。次のシーンで騎士様がヒロインに甘い囁きをするんですけど、ちょっといいイメージが湧かなくて……。私に囁いてみてはくれませんか?」
「……私が言うのか?」
「はい! 実際のお声で聞くと、やはりリアリティが違うのです。──さあ、全力で!」
アルフレートは顔を赤く染めながらも、愛する妻の筆が進むならと、騎士団の部下には絶対に見せられないような甘い台詞を口にする羽目になるのだった。
リーゼは悪戯っぽく笑い、夫の頬に触れる。
アルフレートは困ったように眉を寄せながらも、愛おしくてたまらないというように、彼女の指先のインク汚れを、自分の指で優しくなぞった。
「君の物語の騎士は、最愛の女性を幸せにできたのだろうか」
「それは内緒です。……この物語の最後の一頁は、まだずっと先──私たちがふたり揃って、おじいさまとおばあさまになるまで続きますもの」
窓の外では、あの夜と同じ銀色の月光が図書塔を照らしている。
かつて孤独だった騎士と、塔に閉じ込められた魔女。
二人の物語は、今や檻を飛び出し、どこまでも自由な愛の言葉で綴られ続けていく。
