冷遇妻の私が内緒で書いた小説に、なぜか冷徹な夫が救われているようです 〜檻と言われた塔は、最高の執筆環境でした〜

 それから数か月が経ったその日。
 長く続いた王位継承争いに、ついに終止符が打たれた。

 アルフレートの推す穏健派の王族が、次期国王として指名されることが正式に決まった。
 不穏な動きをしていた政敵たちは一掃され、王宮は落ち着きを取り戻している。

 アルフレートは自身の役目を一通り終えた後、はやる気持ちを抑えながら愛馬を駆り、公爵邸への道を急いでいた。護衛は断った。
 冷徹な騎士団長としての仮面は、今の彼にはもう必要なかった。

 ──ようやくこれで、リーゼを外に出してやれる。

 三年間、彼女を守るために敷いた『檻』という名の結界──どんな理由があれ、リーゼからすれば監禁に等しいひどい仕打ちだ。言い訳をするつもりはない。
 それを今から、自分の手で壊しに行くのだ。

 公爵邸まであと数刻という宿場外れで、アルフレートは馬を止めた。酷使した愛馬を休ませるためだった。
 その間、彼は懐から一冊の本を取り出す──『碧銀の騎士』の最新刊である、第八巻。
 先日発売されたのをなんとか手に入れたきり、読む時間を取れないでいた。

「……少しだけでも読み進めよう」

 彼は吸い込まれるようにページを捲った。
 物語は佳境を迎えていた。死線を越えた騎士が、図書室の窓から差し込む光に救われる場面。
 そこには、騎士を癒すために魔女が調じた『安らぎの魔法茶』の描写があった。

『──それは、月明かりの下で魔女が調じたそれは、星屑のように散らされた青い花弁と仄かな蜜の香りが交じり合う、淡い琥珀色の薬。魔女はそれを妖精に託し──』

 文字を追っていたアルフレートの指が、紙の上で止まる。
 既知の感覚が記憶の底からせり上がってきた。

「この配合は……」

 脳裏に蘇ったのは、数ヶ月前のあの夜。

 ──『配合レシピは、リーゼ様によるものです』

 もちろん、あの夜に飲んだものの詳細な調合をアルフレートは知らないし、この本にも記載されていない。
 それでも、駆け巡る既視感があった。
 脳裏に浮かぶイメージが、あまりに酷似している。

 あの夜だけではない。この三年間「疲れた」と感じる夜、配合の微妙に違う茶を、リーゼはクレス越しにアルフレートに届けてくれていた。
 一口飲めば強張った神経がほどけ、驚くほど深く眠りにつけるオリジナルのレシピ。

 ただの妄想かもしれない。
 しかし読み取れる行間が、アルフレートに訴えかけてくる。

 ──この作者は、なぜ私の孤独を知っているのだろう。なぜ、私の渇きを癒す術を知っているのだろう。

 詳細な描写は、架空の国の物語として独自の世界を構築している。
 それなのに、なぜ物語の騎士が『窓から差し込む光』として見上げる塔の描写が、あの図書塔の窓から見える景色と、これほどまでに印象が酷似しているのだろう。

「まさか……いや、そんなはずは……」

 ──もし。
 もし、この物語の作者が。
 自分が「関わるな」と突き放し、冷たい塔に置き去りにしたあの妻だとしたら。

 ……偶然だ。あまりに出来すぎている。
 これはきっと、アルフレートの都合の良い妄想だ。そう思うのに。
 その時、ふと、温かい何かに袖を引かれた。
 本に落としていた視線を上げれば、愛馬が任せろと言わんばかりに、アルフレートの袖を緩く咥えて持ち上げていた。

 アルフレートは愛馬の首筋を一度撫でると、その背に飛び乗った。


 公爵邸に着き、尽力してくれた馬を労った後、アルフレートはなりふり構わず駆け出した。
 図書塔は、最も奥まった場所にある。それは、彼女を護るためでもあったが、この時ばかりはもどかしくて仕方がなかった。
 使用人が何事かと目を白黒させているが、アルフレートでも、自分をもう止められなかった。冷徹な仮面など、もうどこにもなかった。
 ようやく辿り着いた図書塔の階段を駆け上がった。

 彼女は、この暗い塔の中で、独り泣いていたのではなかったのか。
 それとも──この中からも、私を救い続けてくれていたのか。

 息を切らし、三年前の初夜以来、一度も訪れなかったリーゼの私室前に立つ。
 数回のノック。返答はなかった。
 震える手でドアノブを回すと、扉は呆気ないほど静かに開いた。

 私室には誰もいなかった。
 しかし、アルフレートは自身の予感に従って、奥の扉へと向かった。

 扉の向こうには、窓からの夕闇に照らされながら、一心不乱にペンを走らせるリーゼの背中があった。
「ここの騎士様は、もっとこう……ぐわっと! う~~ん、でも強引すぎるかな?」

 ぶつぶつと、何かに憑りつかれたように机に向かう姿があった。

 机の上にはインク瓶と、読み込まれたであろう無数の資料。
 そして床には、嵐の後のように書き損じの羊皮紙が散らばっている。
 ふわり、と一枚の紙が、迷い込んだ蝶のようにアルフレートの足元へと舞い降りた。
 アルフレートは、吸い寄せられるようにそれを拾い上げた。

 この国の書物は魔術印刷で発行され、本文は均一な活字で整えられる。
 しかし、最終頁にだけは必ず作者の直筆を写した『署名』を載せる決まりがあった。
 これももちろん印刷ではあるが、活字として整えられていない、唯一作者の筆跡がわかるものだ。

 アルフレートは『碧銀の騎士』を幾度となく読み返した。
 最初から最後まで、何度も、何度も。
 最後の一葉に記された『リネア・ステラ』という優美な署名の、一画の跳ね、一転の力みまで、網膜に焼き付いている。

 ──書き殴りの文字を見ただけで、筆跡の一致がわかるほどに。

「……リーゼ」

 アルフレートは、その名前を読んだ。
 三年前の挙式や、形式上必要に駆られた最低限の挨拶で、事務的に発音しただけの『名』ではない。
 ひとりの女性として、そして自分を救ってくれた『光』の名として。

 ペンが、ぴたりと止まる。
 リーゼがゆっくりと振り返った。
 夕闇の逆光を背負ったその瞳は、絶望など欠片も宿しておらず、ただ物語を紡ぐ者の、清々しい知性に満ちていた。

「え、あ、アルフレート様……? あれ? 今日はお食事の日では、ありません……よね? まだ一週間以上あるはずだし、いや、もしかして私、間違えて──」

 状況が飲み込めず、混乱するリーゼを前に、アルフレートはもうなりふり構っていられなかった。
 彼女の狼狽を遮るように、アルフレートは無言で歩み寄り、彼女の前に膝をつく。

 騎士団の最高権力者でもなく、公爵でもない、ただひとりの男として。
 そうして、インクで青黒く汚れた彼女の指先を、そっと掬い上げた。

「……君だったのだな。私を──救い続けていたのは」

 リーゼがきょとんと、瞳を瞬かせた。
「救うなんてそんな大層なこと。私はただ、勝手に自由を謳歌していた『引きこもりの公爵夫人』ですよ」
 リーゼは少し困ったように笑い、おそらくアルフレートを和ませようとしたのだろう、道化てみせた。
 アルフレートは、震える吐息と共に首を振った。

「──『碧銀の騎士』に、私は救われたのだ。あの物語の騎士と同じように、私は君の言葉に生かされていた」

「えっ……え!?」
 リーゼが更に目を見開いた。
 よもや、自身の夫が熱心な読者であったとは思いもしなかったのだろう。

「本の内容だけではない。ハーブティーだって、クレスに頼んで私に届けてくれたのだろう?」
「ど、どうしてそれを……いや、でも、すべて本の受け売りですから。ただ書庫にある知識を少し並べ替えただけで……私は何も……」

 アルフレートは、彼女の指先に縋るように額を寄せた。
 指先から漂う、濃厚なインクと紙の匂い。
 この三年間、物語の中でだけ触れることができた、愛おしい世界の香りがする気がした。

「……なぜ、私を救ったのだ。君を閉じ込め、満足に名前すら呼んでやらなかった、愚かなこの私を」

 図書塔に差し込む夕闇が、いつの間にか穏やかな夜の色に染まり始めていた。
 リーゼは、額を寄せる夫の頭を、まるでお気に入りの物語の主人公を労わるように、そっと撫でた。

「……救ったなんて、そんな大仰なことではありませんわ、アルフレート様」

 彼女の声は、驚くほど澄んでいた。

「ただ、あなたの姿があまりに凛として──それなのに孤独で……。私は、父に理解を示し、尽力してくれたあなたを知っています。そこにある温かさは嘘ではないと、ただの冷徹な御方ではないと……勝手に妄想を膨らませ、異国の、架空の物語として勝手に綴っただけです」

 リーゼはいたずらっぽく微笑み、彼に掬い上げられたままの指を、少しだけ曲げて彼の手に絡めた。

「それに、あなたに『檻』に入れていただいたおかげで、私は世界で一番、執筆に没頭できる幸せな作家になれたのです。感謝こそすれ、責める謂れはありません」

 そうして、「顔を上げてください」と優しく囁かれる。
 アルフレートは自身の衝動に逆らわず、思いの丈を込めて彼女を強く抱きしめた。
 たくさんの愛の言葉と共に。