冷遇妻の私が内緒で書いた小説に、なぜか冷徹な夫が救われているようです 〜檻と言われた塔は、最高の執筆環境でした〜

 リーゼが書いた連載小説『碧銀の騎士』が王国で社会現象に至るまで、そう時間はかからなかった。

 それは、孤独に戦う騎士が、図書室の窓から差し込む光に救われるという物語──文武両道を謳い、どんな者にも学ぶ機会を与えるという思想が国内で浸透していたのも大きかった。身分に関わらず識字率が高く、容易に購入できない者のための図書室も充実していた。

 リーゼは夫の言いつけを忠実に守り、塔内でのみ自由に過ごしていた。

 出版に関する実務は、唯一の理解者であるクレスが何かと暗躍してくれている。クレスは正体を明かすべきだと主張したが、リーゼは頷かなかった。

「父も母も、本を大切にする人でした。だって、何かを知ることは誰にも奪われない財産だから。……私がこの小説で手に入れた財は、それを必要とする子供たちのために使ってほしい」

 リーゼの両親は、領民の子供たちの識字率を上げるために学校を建て、私財を投じて小さな図書室を維持し続けていた。例え、自分たちの生活が苦しくなろうと。
 その志を継ぎ、リーゼは顔も知らぬ作家としての収入を、匿名で全土の学校や図書室などに寄付していた。

 ──アルフレートとリーゼの挙式から、既に三年の月日が流れていた。
 リーゼ……もとい『リネア・ステラ』の小説『碧銀の騎士』は、いまや第七巻を数えている。



 図書塔の中層にある、円形の展望テラス。
 四方を本棚に囲まれつつも、大きな窓から夜空が一望できるこの場所で、月に一度、アルフレートと事務的な食事を摂るのが恒例となっていた。
 ふたりは円卓を挟んで、ちょうど向かい合わせで座っている。
 カトラリーの当たる音だけが響いていた。

 リーゼは、正面に座るアルフレートをちらりと見る。
 ──今日も疲れているみたい。

 相変わらず隙のない佇まいだが、その眉間には拭いきれない疲労が刻まれている。
 アルフレートは、騎士団長として国外の脅威に目を光らせるだけでなく、王位継承争いの渦中にも立たされている。
 リーゼは詳しく聞かせてもらえないが、使用人の噂によれば、政敵はアルフレートを失脚させるべく、あらゆる罠を仕掛けているという。

 ──この人に、心休まる時があるのだろうか。

 世間から見れば、リーゼは間違いなく『冷遇妻』だ。
 今だって会話らしい会話はなく、これまでに夫婦らしい触れ合いなど一度もない。

 ……けれど、リーゼは彼を嫌うことができなかった。
 かつてアルフレートが、反対派を押し切って『平民への教育支援法』を可決させたことを、リーゼは知っている。
 父が心血を注いだ志を、誰よりも理解し、守ろうとしたのはこの無口な夫だったのだ。
 だからこそ、リーゼは婚姻を前向きに受け入れた。断れる立場ではないからといって、不承不承頷いたわけでは決してない。

 不意に、アルフレートが窓の外──星明りへと目を向けた。
 その横顔のあまりに孤独さに、それでも折れない凛とした姿勢に。
 リーゼの脳裏に、書きかけの第八巻のプロットが、鮮烈なインスピレーションとして閃いた。
 ──アルフレートの態度より、自身のこの感性の方にずっと問題がある気がして、リーゼは心の内で苦笑するしかない。

 未だ続刊中の『碧銀の騎士』だって、最初のインスピレーションはアルフレートにあった。
 結婚初夜であったはずのあの夜──高潔さを身に纏った彼が、その瞳にリーゼを一瞬だけ捉えたかと思うと、避けるように窓の外の夜空を向いた、あの情景。

 リーゼは行間を読むのが得意だった。あの夜、リーゼはアルフレートの孤独を、確かに見たのだ。
 そこに自分なりの妄想、オリジナル要素、大量のインプットから産まれ出たあらゆるifを加えてできたのが『碧銀の騎士』である。もちろん、アルフレートの名や地位は出していない。性格や態度はまったく違うし、架空の国の一介の騎士として描いている。

 アルフレートは、決して理想的な夫ではないだろう。
 それでも──この人が救われる物語を書きたい。
 そう思ったのは事実だった。

 アルフレートがほんの一瞬目を閉じ、僅かに息を吐いた。
 ──そろそろ食事の時間も終わる。
 リーゼは夫に気づかれぬよう、こっそりとクレスに耳打ちをした。



 ──深夜の本邸。静まり返った執務室で。
 アルフレートは眉間を揉むほぐしながら、ペンを置いた。
 王位継承を巡る陰謀の火種は、消えるどころか勢いを増している。神経を削るような駆け引きに、彼の心は乾ききっていた。
 アルフレートは椅子の背にもたれかかると、机の最も深い引き出しに手を伸ばした。

 取り出したのは、公務の書類ではなく、一冊の小説だった。
 何度も読み返したせいで、想定の角が少し白く擦れている。
 表紙には『碧銀の騎士』、著者名は『リネア・ステラ』──最新刊である第七巻を、アルフレートは慈しむように、あるいは祈るように撫でた。
 殺伐とした政争の日々の中、唯一の癒しは、正体不明の作家『リネア・ステラ』が書く本を読むことだった。

 作中の騎士は、誰にも理解されない使命を背負い、一人で泥の中を這い進む。
 けれど、ふとした瞬間に図書室の窓から差し込む一筋の光に、彼は己の存在を許されたような心地になる。
 その光の描写があまりに鮮烈で、温かい。

 ──この作者は、なぜ私の孤独を知っているんだろう。

 アルフレートはそう思ってから、自身の勝手な言い分に苦笑した。
 孤独など、リーゼの方がよほど堪えているはずなのに、と。
 婚姻以来、文句ひとつ言わず、弱音を吐くこともなく。ただアルフレートの「関わるな」という冷酷な言葉を呑み込み、『図書塔』という名の檻に閉じ込められている。

 ふと視線を上げれば、窓の向こうに月明かりに照らされた『図書塔』が、銀色の影を落として立っていた。

「……すまない。リーゼ」

 側近から届いた報告書の一片が、視界の端をかすめる──『政敵が公爵夫人の動向を探っている』
 婚姻が決まった日からずっと、この手の不穏な情報がアルフレートを追い回し続けていた。敵はアルフレートを屈服させるためなら、罪のない娘を人質にすることも厭わないだろう。

 ──窮屈だろうが、その塔はどこよりも堅牢で安全なのだ。

 図書塔には、歴代の当主が心血を注いで構築した、最高位の防衛結界が何重にも張り巡らされている。
 それは王宮の宝物庫にも匹敵する堅牢さを誇り、たとえ一軍の魔導師たちが束になってかかろうと、指一本触れることはできない。
 物理的にも、塔の入り口はアルフレート本人か、あるいは彼が許可した者しか通さぬよう時空間が歪められている。外界の毒も、呪いも、そして悪意に満ちた刺客の刃も、あの中までは届かない。

 ──それでも、絶対とは言いきれない。

 更なる念押しとして、リーゼを守るためにもアルフレートは、彼女から遠い場所にいなければならなかった。アルフレートの弱点になり得ないと、内からも外からも思われるためにも。
 本来なら、月に一度の食事会も控えるべきなのだ。

 不意に、ノックの音が響く。
 入室してきたのは、リーゼの侍女であるクレスだった。

「夜分に失礼いたします。アルフレート様、お疲れのご様子でしたので」
 そう言ったクレスが、手際よく淹れたハーブティーから、柔らかな蒸気が立ち上る。
 一口含んだ瞬間、アルフレートは驚きに目を見開いた。
 喉を通る温もりが、張り詰めた神経をほどき、重い頭痛を霧散させていく。

「これは素晴らしいな。私の体調に寄り添ってくれるような配合だ。感謝する」
「恐縮です。しかし、アルフレート様」

 クレスはそう言ってから、一瞬だけ、主であるリーゼのいる塔の方へ視線を向け、微かに微笑んだ。

「ハーブの配合レシピは、リーゼ様によるものです」
「──ああ、『今夜も』か」
「はい。今夜もです」

 アルフレートの顔色が優れない時。あるいは、伝え聞いたであろう不調を耳にした時。リーゼがクレスに、その時々に最良の配合を耳打ちしているのは、最早通例であった。
 クレスはリーゼの言いつけは基本的には守る。しかし、この件に関してはリーゼがたまたま、口元に人差し指を立てただけのジェスチャーだったのだ。……抜け穴ということなかれ。
 クレスにとって、アルフレートも自身の主人にあたる。二人のことを思い、勝手ながら情報を横流しにしていたのだった。

 ──クレスが下がった後、アルフレートは一人、手元のカップを見つめた。
 自分は彼女を『檻』に閉じ込めた。関わるなと、ひどい扱いをしている。
 それなのに、彼女は──。

 アルフレートは再び『碧銀の騎士』を開いた。
 ページを捲るたび、作者である『リネア・ステラ』の綴る言葉が、不思議とリーゼの穏やかさと重なる気がして、彼は強く目を閉じた。