冷遇妻の私が内緒で書いた小説に、なぜか冷徹な夫が救われているようです 〜檻と言われた塔は、最高の執筆環境でした〜

 シルクのネグリジェを身にまとい、天蓋付きのベッドの端で、リーゼは落ち着きなく周囲を見渡した。
 華美な装飾を削ぎ落としながらも、随所に職人の矜持を感じさせる重厚な造りの部屋には甘い香油の香りが漂い、燭台に灯るロウソクの火が静かに揺れている。
 何せ、初めてのことである。どう待ったらいいものかわからない。

 ──結婚初夜。緊張しない方がおかしい。
『身を任せてしまえば良いのです』……そう教わったはいいものの、それは、すでに始まった時の話なわけで。待機の心持ちについては聞きそびれていた。

 ここは、カスティール公爵邸の広大な敷地の片隅に、ぽつんと独立して建つ『図書塔』の最上階だ。堅牢で美しい造りの別塔──本邸からは屋根付きの長い回廊で辛うじて繋がっているものの、夜の闇に沈むその距離は、物理的な数字以上に遠く感じられた。
 窓の外に目を向ければ、あちら側にはまだ煌々と明かりが灯る本邸の窓が見える。
 一方、この塔には人の気配がまるでない。まるで、賑やかな世界から切り離された孤島のようだった。

 ──本当なら、私もあちらにいるはずだったのだけれど。

 リーゼは、夫となった人から「今夜はこちらで待つように」と告げられたのだ。

 数度のノックが響いたかと思うと、扉が開いた。
 現れたのは、一国の騎士団を束ねるに相応しい威厳を纏った美丈夫だった。
 夜の闇を溶かし込んだような漆黒の髪は適度な長さで整えられ、凍てつく冬の湖を思わせる鋭い灰青色の瞳は、冷徹なまでに透き通っている。
 彫刻のように整った鼻梁は、近寄りがたいほどの高潔さを放っていた。

 ──アルフレート・カスティール
 リーゼの夫となった人物だ。

 彼は寝所にふさわしい様子など微塵も見せず、金糸の刺繍が施された濃紺の軍礼服を、首元まで厳格に閉じている。婚礼の儀の後、着替えて寛ぐこともせず、ここに現れたのだ。
 腰に下げられた儀礼用の剣こそ外されているものの、その佇まいは初夜を迎えにきた新郎というより、戦場へ赴く騎士のそれだった。

 彼は上着を脱ぐこともなく、扉のすぐ傍で足を止めた。
 その目はリーゼを一瞬だけ捉えたかと思うと、避けるように窓の外の夜空を向いた。

「……君を愛するつもりはない。あくまで政略上の婚姻だ。今夜からここが君の部屋であり、この別塔は君の檻だ」

 リーゼが「檻?」と声を挟む隙すらなかった。

「この塔内であれば、自由に過ごしてくれて構わない。必要なものは用意させる。外出は避けること。そして私に不用意に関わらず、静かに暮らすこと──いいね?」

 アルフレートはそれだけ告げると、返事を待つことなく背を向け、扉を閉めた。
 突然のことに、リーゼはその姿をただ見送るしかできない。
 ──あまりに、一方的すぎる。せめて、もう少し何か……。
 リーゼは弾かれたようにベッドから立ち上がると、閉まったばかりの扉へと駆け寄った。
 取っ手に手をかけ、ほんの数ミリ、廊下の様子を伺うように扉を開く。
 ……しかし、追いかけるための足は、そこから漏れ聞こえてきた声に止まった。
「……やはり、お渡りにはならないのね」
「無理もないわ。アルフレート様は、ほとんど厄介払いみたいに押し付けられたのだから。この塔は、いわば美しく着飾っただけの流刑地ね」
 それは、遠ざかっていく使用人たちの冷ややかな囁きだった。
 ──リーゼはそっと、音を立てないように扉を閉め直した。カチリ、と小さな金属音が部屋に響く。

「……なるほど?」
 リーゼは口元に手を当てて思案する。
 アルフレートと使用人たちの言葉を要約すると、つまりこれは、

「世に伝え聞く『冷遇妻』というやつなのでは?」

 そう自覚した瞬間、しん、とした部屋の静寂が、全く別の色を帯びて見え始めた。
 リーゼはベッドに駆け寄ると倒れ伏し、涙で枕を濡らす──こともなく、上着を羽織り、火が揺れる燭台を手に取った。

 実のところ、リーゼの心は悲しみよりも、あるひとつの『期待』に支配されていた。
 豪奢なベッドを意に介することもなく、リーゼは部屋の奥へと足を進めた。
「……実はここに来てからずっと、気になってたんだよね」
 アルフレートが去った出入口とは別の、壁に溶け込むような重厚な扉。

「『塔内であれば、自由に過ごしていい』──つまり、この中もいいってことだよね?」
 リーゼはアルフレートの言葉を思い出し、躊躇うことなくその扉を押し開いた。
 ──刹那、古い紙と革の、芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。

 そこには、四方の壁一面を天井まで埋め尽くす、膨大な蔵書があった。

「……す、すごい……」
 目の前に広がるのは、驚くほど広い、巨大な書庫だった。
 リーゼは部屋の中央にある洋机に燭台を置くと、蔵書へと駆け寄った。
 歴史書、魔導書、図鑑、古典文芸などなど、何でもござれだ。

 ネグリジェの裾が乱れることも気にせず、リーゼは備え付けの移動式梯子を駆けのぼる。
「こ、これも……ああ、これも読みたい。どうしよう……」
 背表紙を指でなぞり、震える手でどれから読んでいくか、贅沢な悩みと共に手に取っていく。

 ──『この塔内であれば、自由に過ごしてくれて構わない』
 リーゼは再度アルフレートの言葉を思い出す。

「こんな最高に素敵な場所で……本当に自由に過ごしていいの!?」

 その夜、リーゼは窓から差し込む銀色の月光と星明りの下で。
 この世で最も贅沢な『檻』に閉じ込められた幸運を噛み締めながら、最高の本たちを、堪えきれない笑みを零しながら、次々と読破していった。