あの日の音が消えるまで

その日の放課後。

 私は教室でノートをしまっていた。

 奈緒は部活があるから先に帰った。
 教室にはもうほとんど人がいない。

 静かな教室。

 夕方の光が窓から差し込んでいる。

 私は少しだけぼんやりしていた。

 蒼真の言葉を思い出していたから。

 

 ――妹がいた。

 

 「前に」って言っていた。

 どういう意味なんだろう。

 考えようとして、やめた。

 人の過去を勝手に考えるのはよくない気がしたから。

 私は鞄を持って立ち上がる。

 帰ろう。

 そう思って廊下に出た。

 

 そのとき。

 

 ドン!!

 

 突然、大きな音が響いた。

 廊下の向こうで、誰かがロッカーを強く閉めた音だった。

 その瞬間。

 体が固まる。

 息が止まる。

 胸が強く締めつけられる。

 

 まただ。

 

 頭の奥で、何かが揺れる。

 大きな音。

 人のざわめき。

 誰かの叫び声。

 

 やめて。

 

 思い出したくない。

 

 視界が少し揺れる。

 呼吸が浅くなる。

 私はその場にしゃがみこんでしまった。

 

 怖い。

 

 ただの音なのに。

 何も起きていないのに。

 

 でも体が言うことを聞かない。

 

 そのとき。

 

 「一ノ瀬」

 

 声がした。

 顔を上げると、蒼真が立っていた。

 どうしてここにいるんだろう。

 蒼真はすぐにしゃがんだ。

 そして静かな声で言う。

 「ゆっくり呼吸」

 私はうまく息ができない。

 蒼真は少しだけ近くに来て言った。

 「大丈夫」

 落ち着いた声だった。

 「ここ、安全」

 私は必死に呼吸をする。

 吸って。

 吐いて。

 少しずつ、呼吸が戻ってくる。

 

 しばらくして、震えが落ち着いた。

 蒼真は何も聞かなかった。

 ただそばにいる。

 

 私は小さく言った。

 「……ごめん」

 蒼真は首を振る。

 「謝ることじゃない」

 

 少し沈黙が続いた。

 私は廊下の床を見つめる。

 そして、小さくつぶやいた。

 「昔」

 言葉が止まる。

 でも蒼真は急かさない。

 私はゆっくり続けた。

 

 「お祭りに行ったの」

 

 その言葉を言った瞬間。

 胸が少し苦しくなる。

 

 「人が多くて」

 「すごく混んでて」

 

 頭の奥に少しだけ映像が浮かぶ。

 夜のお祭り。

 明るい屋台。

 人の声。

 

 そして。

 

 ドン!!

 

 大きな音。

 叫び声。

 人が一斉に動く。

 

 私は目をぎゅっと閉じた。

 

 「……それ以上は思い出せない」

 

 声が少し震えていた。

 

 蒼真はしばらく黙っていた。

 そして静かに言った。

 

 「無理に思い出さなくていい」

 

 その言葉に、少しだけ胸の力が抜ける。

 

 私は蒼真を見た。

 どうしてこの人は、こんなに落ち着いているんだろう。

 どうしてこんなに、そばにいてくれるんだろう。

 

 蒼真は立ち上がる。

 そして私に手を差し出した。

 

 「立てる?」

 

 私は少し迷ってから、その手を取った。

 

 立ち上がると、夕方の光が廊下に伸びていた。

 

 蒼真が言う。

 

 「送る」

 

 「え?」

 

 「帰り道」

 

 私は少し驚いた。

 でもなぜか、断る気になれなかった。

 

 「……ありがとう」

 

 小さくそう言うと、蒼真は少しだけうなずいた。

 

 そのとき私はまだ知らなかった。

 

 あの日のお祭りで起きたことが、
 これから少しずつ明らかになっていくことを。

 

 そして蒼真もまた、
 同じくらい重い過去を抱えていることを。