あの日の音が消えるまで

屋上から教室に戻ると、ちょうど授業が再開するところだった。

 私はそっと自分の席に座る。

 奈緒が小声で聞いてきた。

 「トイレ長くない?」

 「ちょっとお腹痛くて」

 私はごまかすように笑った。

 奈緒は「そっか」と言ってそれ以上聞かなかった。

 でも私は、どうしても気になってしまう。

 後ろの席。

 神崎蒼真。

 さっき屋上で言われた言葉が、頭から離れない。

 

 ――似てたから。

 

 誰に?

 そのことを考えているうちに、授業は終わった。

 

 昼休み。

 奈緒は友達に呼ばれて、購買へ行ってしまった。

 私は机に座ったまま、お弁当を開く。

 教室はにぎやかだった。

 笑い声。

 机を動かす音。

 パンの袋を開ける音。

 いろんな音が混ざっている。

 少しだけ落ち着かない。

 そのとき。

 「一ノ瀬」

 後ろから声がした。

 振り返ると、蒼真だった。

 私は少し驚く。

 「なに?」

 蒼真は少し考えてから言った。

 「屋上、行く?」

 「え?」

 思わず聞き返す。

 「今度は昼だから」

 蒼真はそう言った。

 なんだか少しだけ変な理由だ。

 でも私は少し迷ってから立ち上がった。

 「……うん」

 

 また階段を上る。

 屋上のドアを開けると、春の風が吹き込んできた。

 昼の屋上は、朝より明るい。

 空が広い。

 私はフェンスの近くに立つ。

 蒼真は少し離れたところに座った。

 沈黙。

 風の音だけが聞こえる。

 先に話したのは蒼真だった。

 「昨日、眠れた?」

 私はびっくりした。

 「え?」

 蒼真は空を見たまま言う。

 「顔に出てる」

 私は慌てて目をそらした。

 そんなにわかるのかな。

 「ちょっとだけ、寝不足」

 そう言うと、蒼真は小さくうなずいた。

 

 少しして、蒼真が言った。

 「妹がいた」

 私は顔を上げた。

 蒼真は静かな声で続ける。

 「前に」

 その言葉の意味を考える。

 前に……?

 「妹も、音が苦手だった」

 胸が少しざわつく。

 蒼真は淡々と話している。

 でもその声は、どこか少しだけ寂しそうだった。

 「外の音とか、人の声とか」

 「急に怖くなることがあった」

 私は何も言えなかった。

 それは、まるで——

 私みたいだったから。

 蒼真は続ける。

 「だから、わかった」

 「一ノ瀬の様子」

 私は思わず下を向いた。

 誰にも知られたくなかった。

 ずっと隠してきたのに。

 でも蒼真は、責めるようなことは言わない。

 ただ静かに言った。

 「言いたくないなら、言わなくていい」

 私は少しだけ驚いた。

 普通なら、もっと聞くと思ったから。

 蒼真は続ける。

 「でも」

 少し間があった。

 「一人で我慢するの、つらいだろ」

 その言葉を聞いた瞬間。

 胸の奥が、少し痛くなった。

 私はずっと、一人で我慢してきた。

 怖くても。

 苦しくても。

 普通のふりをして。

 でも。

 蒼真は、それを当たり前みたいに言った。

 「……別に」

 私は小さく答える。

 でも声は少し震えていた。

 蒼真はそれ以上何も言わなかった。

 ただ屋上の空を見ている。

 私はフェンスの向こうを見る。

 校庭では、体育の授業をしているクラスがいた。

 ボールの音が遠くで響く。

 ドン。

 少しだけ胸が反応する。

 でも——

 さっきより怖くない。

 横を見る。

 蒼真がそこにいる。

 何もしていない。

 ただ同じ屋上にいるだけ。

 なのに。

 なぜか少しだけ、安心する。

 そのときチャイムが鳴った。

 昼休みの終わり。

 蒼真が立ち上がる。

 「戻るか」

 「うん」

 私はうなずいた。

 

 教室へ戻る階段を降りながら、ふと思う。

 どうしてこの人は、こんなに落ち着いているんだろう。

 そしてもう一つ。

 蒼真の言葉が頭に残っていた。

 

 ――妹がいた。

 

 過去形だった。

 それが、少しだけ気になった。