あの日の音が消えるまで

 次の日の朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。

 眠れたのか、眠れていないのか、自分でもよくわからない。
 夜中に見た夢の感覚だけが、まだ胸の奥に残っている。

 大きな音。
 暗い場所。
 誰かの叫び声。

 そこまで思い出したところで、私は首を振った。

 考えない。
 思い出さない。

 そう決めて、ベッドから起き上がる。

 カーテンを開けると、朝の光が部屋に入ってきた。
 少しだけ気持ちが落ち着く。

 制服に着替えて、鏡の前に立つ。

 顔色は、まあ普通。
 少し目の下にクマがあるけれど、たぶん大丈夫。

 私は小さく笑ってみる。

 「今日も、普通に」

 そうつぶやいて家を出た。

 

 学校に着くと、いつも通りの景色が広がっていた。

 昇降口で靴を履き替える。
 廊下を歩く。

 友達の声。
 笑い声。

 それを聞くだけで、少し安心する。

 教室に入ると、奈緒がすぐに気づいた。

 「おはよ、小春!」

 「おはよ」

 奈緒は椅子をくるっと回してこちらを見る。

 「昨日あのあと大丈夫だった?」

 「うん、大丈夫」

 私は笑って答えた。

 奈緒は少しだけ安心した顔をする。

 「よかった。ちょっとびっくりしたから」

 そのとき、教室のドアが開いた。

 数人の男子が入ってくる。

 その後ろから、蒼真も入ってきた。

 私は思わずそちらを見た。

 蒼真は特に誰とも話さず、自分の席に向かう。

 そして席に座る前、ほんの一瞬だけ——

 視線が合った。

 すぐに目をそらしてしまう。

 なぜか少し気まずい。

 昨日のことを思い出してしまうから。

 

 授業が始まる。

 でもその日、私はやっぱり少し落ち着かなかった。

 先生の声が遠くに聞こえる。

 ノートは取っているけれど、頭にはあまり入っていない。

 そのとき。

 ガタン。

 誰かが椅子を引く音がした。

 胸がびくっと反応する。

 大丈夫。
 ただの音。

 自分にそう言い聞かせる。

 でも、呼吸が少し浅くなっているのがわかる。

 その瞬間。

 後ろから小さな声がした。

 「一ノ瀬」

 私はびくっとした。

 振り返ると、蒼真が立っていた。

 先生は黒板に向かっている。

 蒼真は小さな声で言う。

 「ちょっと来て」

 「え?」

 驚いている間に、蒼真は教室を出ていった。

 私は迷った。

 でも、なぜか気になってしまう。

 そっと席を立つ。

 奈緒が不思議そうに見る。

 「トイレ」

 小声でそう言って教室を出た。

 

 廊下には蒼真が立っていた。

 私を見ると、少し歩き出す。

 「こっち」

 「どこ行くの?」

 「静かなところ」

 

 階段を上る。

 三階、四階。

 そして屋上の前のドアまで来た。

 蒼真はドアを開ける。

 屋上には、春の風が吹いていた。

 少し強い風。

 でも、不思議と気持ちがいい。

 蒼真はフェンスの近くまで歩いていく。

 私は少し離れたところで立ち止まった。

 沈黙が流れる。

 先に口を開いたのは蒼真だった。

 「昨日」

 私は少し身構える。

 蒼真は振り返らないまま言った。

 「音、苦手?」

 心臓がドクンと鳴った。

 言葉が出ない。

 どうしてわかったの?

 私は黙ったまま下を向いた。

 蒼真は少しだけ間を置いて言った。

 「無理に答えなくていい」

 その言葉に、少しだけ力が抜ける。

 屋上の風が髪を揺らした。

 私は小さく言った。

 「……ちょっとだけ」

 本当は「ちょっと」じゃない。

 でも、それ以上言うのは怖かった。

 蒼真はゆっくりこちらを見た。

 その目は、驚くほど静かだった。

 「そっか」

 それだけ言う。

 責めるわけでも、驚くわけでもない。

 ただ受け止めるみたいに。

 私は少しだけ戸惑った。

 普通なら、もっと聞くはずなのに。

 そのとき蒼真が言った。

 「俺、前に見たことある」

 「え?」

 蒼真は空を見る。

 青い空の向こうを見ているみたいだった。

 そして小さく言った。

 「似てたから」

 「……?」

 蒼真はそれ以上何も言わなかった。

 でもその言葉の意味が、少しだけ気になった。

 似てた?

 誰に?

 聞こうとしたそのとき。

 校内にチャイムが鳴った。

 キーンコーンカーンコーン。

 屋上に響く音。

 でもさっきより怖くない。

 なぜか少しだけ、落ち着いていた。

 蒼真がドアに向かう。

 「戻ろう」

 私は小さくうなずいた。

 教室へ戻る階段を降りながら、ふと思った。

 どうしてこの人は——

 こんなに静かに、私のそばにいるんだろう。

 まだ何も話していないのに。

 なのに少しだけ。

 本当に少しだけ。

 胸の奥の怖さが、やわらいだ気がした。