あの日の音が消えるまで

 授業中なのに、なぜか集中できなかった。

 黒板の文字をノートに写しながら、私は何度も後ろの席を気にしてしまう。

 神崎蒼真。

 今日転校してきたばかりの男子。

 静かな人だと思う。
 自己紹介も短かったし、授業中もほとんど話さない。

 でも——

 「……大丈夫?」

 あの言葉が、頭の中で何度もよみがえる。

 どうして、あんなことを聞いたんだろう。

 私は普通にしていたはずなのに。

 チャイムが鳴る。

 キーンコーンカーンコーン。

 その音に、胸が小さく跳ねた。

 でもさっきよりは平気だった。

 深呼吸する。

 大丈夫。
 今日はまだ大丈夫。

 「小春!」

 奈緒が机に身を乗り出してくる。

 「転校生めっちゃ静かだね」

 「そうだね」

 「でもかっこよくない?」

 奈緒は小声で言いながら、ちらっと後ろを見る。

 私もつられて少し振り返った。

 蒼真は窓の外を見ていた。

 風でカーテンが揺れている。

 その横顔は、なんだか遠くを見ているみたいだった。

 クラスの男子が話しかけている。

 「神崎ってさ、どこから来たの?」

 蒼真は少しだけ視線を動かした。

 「東京」

 「へえー」

 それ以上はあまり会話が続かなかった。

 本当に静かな人だ。

 そのとき。

 ドン!

 廊下で大きな音がした。

 誰かがぶつかったみたいだ。

 その瞬間。

 体が勝手にびくっと動いた。

 胸が強く締めつけられる。

 呼吸が浅くなる。

 やめて。

 やめて、思い出さないで。

 机の端をぎゅっと握る。

 大丈夫。

 ただの音。

 怖いことなんて、何も起きていない。

 「小春?」

 奈緒が心配そうに見る。

 「平気?」

 「う、うん」

 私は無理に笑った。

 でも手の震えは止まらない。

 そのとき。

 後ろから椅子が動く音がした。

 ガタン。

 振り返ると、蒼真が立っていた。

 そして、私の机の横まで来る。

 奈緒が少し驚いた顔をする。

 蒼真は静かな声で言った。

 「保健室、行く?」

 え?

 突然すぎて、言葉が出ない。

 「顔色、悪い」

 そう言われて、私は慌てて首を振った。

 「だ、大丈夫」

 でも蒼真は少しだけ眉をひそめた。

 「無理してる」

 その言葉に、胸がどきっとする。

 どうして。

 どうしてこの人は、そんなことがわかるの?

 私は目をそらした。

 「本当に平気だから」

 蒼真は少し黙った。

 そして、小さく言った。

 「……そう」

 それだけ言って、自分の席に戻っていく。

 奈緒が小声で言った。

 「小春、大丈夫?」

 「うん」

 私はうなずく。

 でも心の中は少しだけ揺れていた。

 蒼真は、どうして気づいたんだろう。

 私はずっと隠してきたのに。

 誰にも知られないようにしてきたのに。

 窓の外では、桜の花びらが風に舞っていた。

 そしてそのとき。

 後ろから、もう一度声が聞こえた。

 小さくて、静かな声。

 「……やっぱり」

 え?

 振り返る。

 でも蒼真はもう窓の外を見ていた。

 まるで、何も言っていないみたいに。

 けれど私は確かに聞いた。

 彼がつぶやいた言葉。

 「前にも、見たことがある」