あの日の音が消えるまで

その音が聞こえた瞬間、世界が止まった。

 ガタン。

 教室の後ろで椅子が倒れただけの音。

 それだけなのに、胸が強く締めつけられる。

 息が浅くなる。
 手のひらがじんわりと汗ばんでいく。

 やめて。

 お願いだから、思い出させないで。

 頭の奥で、遠い記憶が揺れる。

 あの日の音。
 あの日の空気。
 あの日の、怖かった記憶。

 「小春?」

 隣の席から声がした。

 顔を上げると、奈緒が心配そうに私を見ている。

 「あ……ううん。大丈夫」

 私は慌てて笑った。

 大丈夫。

 そう言えば、本当に大丈夫になる気がするから。

 奈緒は少し首をかしげたけれど、それ以上は何も聞かなかった。

 奈緒は優しい。

 でも、私はこのことを誰にも話したことがない。

 話してしまったら、きっと「普通」じゃなくなる気がするから。

 私は普通の高校生。

 友達と笑って、授業を受けて、帰り道にコンビニに寄って。

 そんな毎日を送る、どこにでもいる高校生。

 ——そう思っていないと、壊れてしまいそうだった。

 「ねえ、小春」

 奈緒が机に肘をつきながら言う。

 「今日さ、転校生来るらしいよ」

 「え?」

 思わず聞き返す。

 「さっき先生が職員室で話してるの聞いたんだ。男子らしいよ」

 「へえ」

 興味があるような、ないような返事をする。

 でも奈緒は楽しそうだった。

 「どんな人だろうね。かっこよかったらいいなー」

 「奈緒ってほんとそればっかり」

 私は少し笑った。

 こうやって友達と話しているときは、少しだけ安心できる。

 窓の外を見ると、桜が揺れていた。

 春の風が、やわらかく吹いている。

 本当なら、好きな季節のはずなのに。

 最近は、どうしてか落ち着かない。

 そのとき。

 ガラッ。

 教室のドアが開いた。

 その音に、また体がびくっと反応する。

 心臓が強く跳ねる。

 やめて。

 ただドアが開いただけ。

 それだけなのに。

 「みんな、席につけー」

 先生の声が響いた。

 教室が少しざわつきながら静かになる。

 「今日は転校生を紹介する」

 その言葉に、教室が一気に騒がしくなった。

 「え、ほんと?」

 「男子?」

 「イケメンかな」

 奈緒も小さく「楽しみ」とつぶやいている。

 先生がドアの方を見た。

 「入ってきていいぞ」

 教室の空気が少しだけ変わる。

 そして、ドアの前に一人の男子が現れた。

 背が高くて、少し長めの黒い髪。

 制服もきちんと着ているのに、どこか周りと距離を取っているような雰囲気。

 教室がざわつく。

 女子たちの小さな声が聞こえる。

 「かっこいい…」

 「静かそう」

 その男子は黒板の前に立った。

 先生がうながす。

 「自己紹介」

 少しの沈黙のあと、その人は口を開いた。

 「神崎蒼真です」

 静かな声だった。

 でも不思議と、よく通る声。

 「よろしくお願いします」

 それだけ言って、口を閉じた。

 短い自己紹介。

 でも、その声を聞いた瞬間——

 胸がざわついた。

 理由はわからない。

 ただ、どこか不思議な感覚。

 先生が教室を見回す。

 「空いてる席は……」

 そして指をさした。

 「一ノ瀬の後ろだな」

 その言葉に、私は思わず顔を上げた。

 私の後ろ。

 つまり——

 神崎蒼真は、まっすぐこちらに歩いてきた。

 一歩。

 また一歩。

 近づいてくる。

 なぜか少し緊張する。

 そして彼が私の席の後ろに立ったとき。

 ふと、視線を感じた。

 顔を上げる。

 その瞬間。

 彼と目が合った。

 黒くて静かな目。

 その目が、ほんの少しだけ驚いたように揺れた。

 まるで——

 私の何かに気づいたみたいに。

 そして彼は小さな声で言った。

 「……大丈夫?」

 え?

 思わず固まる。

 どうして、そんなことを聞くの?

 私は慌てて目をそらした。

 「だ、大丈夫」

 そう答えるのが精一杯だった。

 でも。

 そのとき、胸の奥で小さく思った。

 この人は——

 もしかして。

 私の「普通じゃない部分」に気づいてしまったのかもしれない。