春、君が消えて、アイツに惹かれた

 四〇七号室のドアを開けて、飯田先生は中に入る。
 玄関には楕円形のグレーのマットと帽子スタンドがある。黒くて、十個くらい置けるやつだ。

「今日こんな濡れるなら被って行けばよかった」
 そんなことを言いながら飯田先生は靴を脱ぐ。帽子はアジダスやナイキの黒やグレーのものが多い。
「お邪魔します。いつも被ってるんですか?」
 靴を脱ぎながら尋ねる。
「寝坊した日は」
 つい笑ってしまう。そんな日のためにあんの?

 廊下の左側にある脱衣所に通される。飯田先生が下着と制服を渡してくれた。着替えが終わると、背後でブオーっと音がする。何かと思って振り向く。飯田先生がドライヤーを持っている。

「え、いいです」
「大人しくしろ」
 そうっと指を入れて、髪を乾かしてくれる。すごい。全然痛くない。
「へへ。ありがとうございます」
 嬉しいし、気持ちいい。

「ん。留喜、食欲はそんなにない?」
「はい。お粥とかの方が」
 飯田先生の顔を見上げる。

「わかった。俺もなんか食べよっかな。酒飲んでいい?」
 別に聞かなくていいのに。

「はい。仕事はもうないんですか?」
 そういうことなのかな。
「いやなくはないんだけど、家でできるのしかもうやらないから」
 持ってきているのか。

「飲んでもできるんですか?」
「俺酒強いから」
 確かに、弱そうには見えないかも。

 髪が乾いた。飯田先生は廊下の突き当りに進んでいく。後を追うと、そこにはキッチンダイニングとリビングがあった。
 中央にある黒い机は書類が山積みで、端にあるソファはグレーで皺ひとつない。

 インスタントココアの粉をコップに入れて、温めた牛乳で溶かしてから飯田先生は俺に渡してくれる。

「ほい」
 受け取ると、甘い匂いが鼻腔をくすぐる。思わず口元がほころぶ。
「ありがとうございます」
「留喜、くいーって」
 自分の頬に指を当てて、飯田先生は口角をぎゅーっと伸ばす。もっと笑えって言っているのか。

「はい。あま!」
 飲むと甘みが口の中に広がって、身体全体が暖かくなる。

「それミルクココアだから」
 ん?
「甘党なんですか?」
「まあ、それなりに」
 飯田先生の顔が赤くなっている。

 それなりにってなんだよ。可愛い。

「作ってるからソファ座ってて」
 笑いながら、俺はソファに腰を下ろす。

 それから十分もしないうちに、梅のお粥を先生は作ってくれた。

 あれ? 梅からハチミツの味がする!甘酸っぱい。米の塩味が舌にしみる。

「美味しい」
「ハハ、美味そうに食うなぁ」
 俺の隣に座って、飯田先生は缶ビールを飲む。
「そうですか?」
「ああ、かわい……なんでもね」

 へ?
 驚いて、瞬きする。

「先生、今なんて」
「羅喜! あとで羅喜に迎え来るよう連絡しておくから。そしたら二人で帰れるだろ」
 思いっきり話を逸らされた。
「ハハ。雨止みますかね」
「どうだろ。もう梅雨だな」
 お腹いっぱいになるとうとうとして、目を開いたり閉じたりしてしまう。

「留喜」
 手を軽く引っ張って俺の身体を横向きにしてから、飯田先生は自分の膝に俺の頭をのせる。
「え、ええ! いいです!」
 ばっと起き上がる。
「いいから寝てろ」
 また膝の上に頭を置かれる。
 恥ずかしいのに。でも眠い。色々あって疲れたし。睡魔にあらがえなくて、俺は目を閉じる。