光のない僕と、音のない君

 シズヤの身体は、抱き寄せた腕の中でまだ小刻みに震えている。彼ほどの体躯が、今は頼りなく僕の胸に沈んでいた。

「ヒカル……何も、見えない。真っ暗だ。ここには、俺とお前以外に、誰かいるのか? すまない、そんなことを尋ねても、ヒカルも見えないのに」

 掠れた、怯えきった声。

 僕は彼の右手をとり、掌に指で言葉を刻む。

(大丈夫。今日は、僕が君の目になる。音で分かる情報は多いんだ。シズヤ、君が見た『この部屋』の情報を教えて。耳が聞こえない分、君の記憶力は誰よりも頼りになる)

 僕はシズヤの頭を優しく抱えて、彼の唇に耳を寄せた。

「分かった。見たものを、ヒカルに伝える」

 シズヤの呼吸が荒く乱れ、やがて途切れ途切れの独白が始まった。

「……最初は、ただの音楽オタクだったみたいだ。『名無し402』って名前で、新曲のベースの弾き方を考察して、一万以上の『いいね』を貰ってた。指の骨が折れるまでクリックして良かった、なんてはしゃいでて……」

 シズヤの震える吐息が、僕の首筋に冷たく当たる。

 ――カチッ。

 部屋の奥で、マウスをクリックする音が一つ、ひどく明瞭に響いた。

(シズヤ、続けて。僕がついてる)

 僕は彼を抱きしめる腕に力を込め、強張った広い背中をゆっくりと撫でた。

「……でも、次第にコメント欄で孤立していった。ファンを浅いと見下して、『俺はこの掲示板の神だ』って……。誰も反応しなくなった画面に向かって、狂ったように書き込みを続けてる」

 シズヤの声が恐怖で上ずる。
 同時に、部屋の温度が氷点下まで急激に下がった。腐敗臭とシリコンが焼ける匂いが、粘り気を持って僕らの鼻腔を塞ぐ。

 ――カチカチカチカチッ!

 クリック音が焦りを帯びる。名無しの孤独が、目に見えない凶器となって僕らの肌を刺す。

「……最後は、悲惨だ。腹が減って指が動かないのに、リロードしても自分の書き込みしかない。『ログアウトの仕方がわからない。画面から出られない』って……ヒカル、こいつ、誰かに気付いてほしくて、狂い死んだんだ」

 シズヤが僕の服を、破れるほど強く握りしめた。
 彼の恐怖と、得体の知れない怪異への同情が入り混じった激しい鼓動が、僕の胸に直接伝わってくる。

 耳を澄ませば、部屋の隅――おそらくPCモニターの青白い光に照らされた場所から、骨と皮だけになった遺体が放つ、乾いたクリック音が今も響き続けている。



(シズヤの目が見えないのは、きっとモニターに閉じ込められた孤独を、君に追体験させようとしているからだよ)

「ったく、迷惑なやつだな。怖かったけど……一周回って、腹が立ってきた。おい、聞いてるか! そこのお前!」

 シズヤが僕の腕から離れ、勢いよく立ち上がった。

(ちょっと、シズヤってば)

「俺らの曲に、コメントしてみろよ」

 シズヤのスマホから、僕らの曲が突然、流れ始めた――。

(シズヤ、無茶だよ。でも、悪くないね)

 今はシズヤも手話が見えない。僕は白杖でシズヤを探し、その背中にそっと手を置いた。僕から彼へ、少しでも体温を移すように。

 タターン、と。重く、ひどくゆっくりとしたキーボードを叩く音がした。

 名無しだ。名無しが動き出した。

「ヒカル……見えるぞ。そうか、コメントを見させるためにコイツは俺の視力を――」

 シズヤの視覚が戻った。

(良かった! 何が起きてる?)

「モニターが……バグったみたいに点滅してる」

 シズヤの掠れた声。その直後、スクリーンリーダーがそれまで聴いたこともない、泥水のように濁った音声を吐き出した。

『……このボカロ、羨ましいな。歌詞に登場するような人間になりたかった』

 キーボードを叩く音が止まる。

 僕は息を大きく吸った。

「なれるでしょ。君だって、僕らの音楽の中なら、名前をきっと持てるから!」