光のない僕と、音のない君

 シズヤの絶叫が、スマホの小さなスピーカーを震わせ、僕の鼓膜に突き刺さる。

 それは言葉としての形を成していない。喉の奥から絞り出された、獣のような、切実な空気の塊。

(シズヤ! 答えて、シズヤ!)

 叫びながら、僕は自分の無力さに歯噛みした。

 僕の声は、電波に乗って彼のスマホまで届いても、彼の鼓膜を揺らすことはない。音が聞こえない彼にとって、パニックの中での呼びかけは、真空の中へ石を投げるようなものだ。

 スピーカーからは、ただ、激しく何かが床を叩く不規則な打撃音と、シズヤの必死な呼吸の音だけが聞こえてくるだけだ。

(……落ち着け。耳を研ぎ澄ませろ。僕にしか聴こえない『糸口』が、必ずあるはずだ)

 僕はコンクリートに膝を突き、右手の白杖を短く握り直した。

 カチ、カチ、カチ。
 杖の先で地面を叩き、跳ね返ってくる音の質で、周囲の空間を脳内にマッピングする。
 
 二メートル先に、一段目の階段。
 鉄錆の匂い。空気が淀んでいる場所が、二階への入り口だ。

 一歩、二段、三段――。

 スマホから漏れる猛烈なクリック音と、今、僕の頭上の部屋から空気を震わせて直接降り注ぐ『カチカチ』という高周波の不協和音が、ピタリと重なった。

(あそこだ)

 二階の廊下に這い上がると、そこはもう『音』の地獄だった。古い回路がショートしたようなシリコンの焼ける匂いと、鼻をつく腐敗臭。

 右から4番目。204号室だろうか。
 ドアが開いている。
 
 中から聞こえるのは、狂ったようなPCファンの回転音。数万のマウスが刻む死のリズム。

『助けて』『無視するな』『孤独が痛い』

 デジタルの底に沈んだ情報の残滓(ざんし)が、音の濁流となって僕を押し戻そうとする。

(シズヤ、どこ!?)

 僕は部屋に足を踏み入れた。
 悪臭の中、足元に転がるゴミ袋を蹴散らし、激しく暴れる気配がする方へ、闇雲に手を伸ばす。


 
「……っ!!」

 汗で濡れた、固く強張った腕に触れた。

 シズヤか――。

 彼は激しく身体を(よじ)らせ、何もない空間を振り払おうとしている。

 目が見えない僕には分からないが、彼は音のない真っ暗な闇に閉じ込められているのだと直感した。

「……あ、あ、あああ!」

 僕が触れた瞬間、シズヤはひときわ大きく跳ねた。
 彼には、僕が『助けに来た相棒』なのか、『襲いかかる怪異』なのかさえ分からない。

 僕は躊躇せず、彼の背後に回り、身体を力一杯、抱き寄せた。

(シズヤ、僕だ! ヒカルだ! ここにいる、落ち着いて!)

 僕は彼の右手を奪い取り、自分の指先をその掌に力強く叩きつけた。

 指先で文字を刻む。『触手話(タクタイル)』――僕らだけに許された、究極の意思疎通。

『H・I・K・A・R・U』

 シズヤの硬直した身体が、一瞬だけ、僕の指先の圧に反応して震えた。まだ足りない。恐怖に飲み込まれた彼の意識を引き戻すには。

 僕は彼の右手を、自分の左胸、心臓の真上に押し当てた。

(感じて、シズヤ。いつもの僕の鼓動だ)

 激しく打つ心拍。
 シズヤの指先が、僕の肋骨をなぞるように震え、やがて指に力がこもった。
 
 彼が、僕を認識した。

「ヒカル……?」

 シズヤの、ひび割れた声。
 次の瞬間、シズヤは僕の服を破れんばかりに掴み、抱き寄せた。
 彼ほどの大きな身体が、今は怯えきった子供のように小さく震えている。

「すまない! 何も見えないんだ! 俺の目はどうなってる? 光を失ったヒカルの気持ちが分かった気がする」
 
 その時だ。
 部屋の空気が、一気にマイナスまで冷え込んだ。
 
『……カチ……カチ……』
 
 それまで狂騒的だったマウスの音が消え、ただ一箇所、部屋の奥から『一つの指がボタンを叩く音』だけが響き始めた。
 
 スクリーンリーダーが、震える声で読み上げる。

『ログアウト……デキナイヨ……?』

 シズヤが僕の腕を握る力が強くなった。

 触手話で状況を伝える。

(シズヤ、落ち着いて。目が見えないのは、おそらく怪異のせいだ。僕が何とかする)

 僕はシズヤの手を繋ぎ直し、立ち上がった。