シズヤの体温が、僕の隣からふっと消えた。
途端に、世界が巨大な音の怪物へと変貌する。
(……シズヤ、どこ? 返事をしてよ)
空を仰いでも、僕には夜の深さは分からない。ただ、頬を撫でる風が、先ほどよりも急に冷たく、鋭くなったように感じた。
どこかで野良猫が威嚇し合うような低い鳴き声が、僕の不安を逆撫でする。
「悪い悪い、ちょっとその先でアパートを見上げてきただけだ」
数メートル先から、シズヤの聞き慣れた声が戻ってきた。砂利を蹴る足音が近づき、彼の服から漂う微かな洗剤の匂いが鼻先を掠める。
それだけで、僕の肺から詰まっていた呼気が漏れ出した。
(ちゃんと、行き先は告げてくれなきゃ! 君がいなくなると、僕は自分がどこを向いているのかさえ分からなくなるんだ)
「だから、悪ぃってば。怒んなよ、ヒカル。ほら、もう離れないから」
シズヤの大きな手が僕の二の腕を軽く叩く。その無頓着な優しさに、少し腹が立った。
僕たちは今、ネットの断片から特定したT大学裏手の、築四十年の木造アパート『若草荘』の前にいる。
シズヤが語る『ガムテープだらけの窓』、僕の耳が拾った『十五分おきに鳴る、遮断機の油切れのような悲鳴』。それらが、西武線のこの踏切の音と完璧に一致した。
(あれの正体は、やっぱりこのアパートなの?)
「……ああ。二階の角部屋だ。あそこの窓だけ、中から真っ黒なビニールが隙間なく貼られてる。光を拒絶してるみたいだ」

(二階か。空気が重いね。階段から湿った木の腐ったような匂いがしてくる)
「とりあえず、俺が一人で中を見てくる。階段が狭いし、踊り場には不法投棄の粗大ゴミが山積みだ。ヒカルの白杖が当たれば、近隣の人たちに不法侵入がバレるかもしれないし」
(待って、僕も行く。一人は危ないよ、シズヤ。あの掲示板の書き込み、普通じゃない)
僕が懸命に手話を描こうとすると、シズヤの固い指が僕の両肩を強く掴んだ。その力強さは、拒絶ではなく、僕をこの暗闇から遠ざけようとする必死の保護に感じた。
「いいか、ヒカル。ここで待ってろ。スマホの通話は繋ぎっぱなしにする。スマホから聞こえてくる音に集中してくれ。もし、俺の周囲に異変があったら、お前の耳で気づいてくれ」
シズヤが僕のスマホをポケットから出し、握らせた。通話状態にしてあるらしい。スピーカーからは、シズヤの少しだけ上ずった、荒い鼻息だけが聞こえてた。
(絶対に無理はしないで。五分以内に戻ってこないと、僕、通報するからね)
「ヒカルは心配性だな。大丈夫だ。決して、一人で動くなよ」
足音が遠ざかっていく。
砂利を踏む不規則な音。階段の鉄錆が、ギィと悲鳴を上げる音。そして――。
静寂。
シズヤという錨を失った瞬間、僕は真っ暗な情報の海に放り出された。
遠くで走る車の走行音。通り過ぎる見知らぬ誰かの話し声。木の葉がカサカサと擦れ合う音。それらすべてが、自分を刺しに来る刃のように鋭敏に響く。
白杖を握りしめる僕の手は、自分でも驚くほど冷え切っていた。
(シズヤ……怖いよ。君がいないと、僕は自分がどこに立っているのかさえ、確信が持てないんだ)
頼れるのは、手のひらの中のスマホだけだ。カサッという衣擦れの音、シズヤの靴底が古い廊下の床板を軋ませる音。僕は全神経を耳に集中させた。
シズヤが今、廊下の奥へ進んでいる。
止まった。問題の部屋の前に立ったんだ。
『……おい、ヒカル。聴こえるか』
スマホから、圧し殺したようなシズヤの掠れた声が届く。
『ドアの前に来た。なんだこれ。臭いがひどい。腐った生ゴミと、古い回路が焼けたようなシリコンの匂いが混ざり合ってる。それに……中から声がする』
(……どんな声? 誰か、話してるの?)
僕は白杖を足の間に挟み、見えないテレビ電話の向こうのシズヤに向かって、必死に手話を描いた。
『分からない。ドア越しではあまりにも小さくて、言葉にならない囁きみたいだ。スマホ、ドアの隙間にくっ付けてみるぞ』
その瞬間――。
僕の耳に、人の声よりも先に、悍ましい物理的な破壊音が流れ込んできた。
――カチカチカチカチカチ、カチッ!
それは、マウスをクリックし続ける乾いた音。けれど、その数は一つじゃない。
数千、数万の指が、一斉にプラスチックのボタンを叩きつけているような、猛烈な連打音。
「助けろ」「認めろ」「寂しい」「ここから出せ」
地獄の底から這い出してきた餓鬼たちが、骨を打ち鳴らして叫んでいるような、絶望の不協和音。
その時だ。背後で踏切の警報機が鳴り響いた。
十五分に一度の、あの油切れの悲鳴。
――ガシャン!
スマホの向こうで、何かが激しく割れる音がした。
ほどなくして、シズヤの絶叫。
(シズヤ、どうしたの! 返事をして!)
僕は白杖を握り、音のする方へ無我夢中で駆け出そうとした。けれど、近くにあるはずの階段の位置が分からない。
一歩踏み出した先には、ゴミの山があった。空き缶が散らばる音が夜の闇に響き渡り、僕はバランスを崩す。
暗闇の中で、僕は自分の足音さえも見失った。
ガクッ、と膝が折れる。
冷たいコンクリートの上に崩れ落ちた僕の耳に、スマホから絶望的な音が届きた。
「ヒカル! 来るな!」
(シズヤ……! どうして? 何があったの)
スピーカーからは、無機質なクリック音の嵐と、シズヤが何か――目に見えない、粘着質な何かを必死に振り払おうとする、鈍い打撃音だけが虚しく響き続けていた。
「やめろ! やめてくれ」
シズヤの微かな声が、猛烈なクリック音にかき消されていく。
僕は立ち上がるも、右も左も分からなかった。
シズヤという光を失った僕は、ただの無力な人間だ。
途端に、世界が巨大な音の怪物へと変貌する。
(……シズヤ、どこ? 返事をしてよ)
空を仰いでも、僕には夜の深さは分からない。ただ、頬を撫でる風が、先ほどよりも急に冷たく、鋭くなったように感じた。
どこかで野良猫が威嚇し合うような低い鳴き声が、僕の不安を逆撫でする。
「悪い悪い、ちょっとその先でアパートを見上げてきただけだ」
数メートル先から、シズヤの聞き慣れた声が戻ってきた。砂利を蹴る足音が近づき、彼の服から漂う微かな洗剤の匂いが鼻先を掠める。
それだけで、僕の肺から詰まっていた呼気が漏れ出した。
(ちゃんと、行き先は告げてくれなきゃ! 君がいなくなると、僕は自分がどこを向いているのかさえ分からなくなるんだ)
「だから、悪ぃってば。怒んなよ、ヒカル。ほら、もう離れないから」
シズヤの大きな手が僕の二の腕を軽く叩く。その無頓着な優しさに、少し腹が立った。
僕たちは今、ネットの断片から特定したT大学裏手の、築四十年の木造アパート『若草荘』の前にいる。
シズヤが語る『ガムテープだらけの窓』、僕の耳が拾った『十五分おきに鳴る、遮断機の油切れのような悲鳴』。それらが、西武線のこの踏切の音と完璧に一致した。
(あれの正体は、やっぱりこのアパートなの?)
「……ああ。二階の角部屋だ。あそこの窓だけ、中から真っ黒なビニールが隙間なく貼られてる。光を拒絶してるみたいだ」

(二階か。空気が重いね。階段から湿った木の腐ったような匂いがしてくる)
「とりあえず、俺が一人で中を見てくる。階段が狭いし、踊り場には不法投棄の粗大ゴミが山積みだ。ヒカルの白杖が当たれば、近隣の人たちに不法侵入がバレるかもしれないし」
(待って、僕も行く。一人は危ないよ、シズヤ。あの掲示板の書き込み、普通じゃない)
僕が懸命に手話を描こうとすると、シズヤの固い指が僕の両肩を強く掴んだ。その力強さは、拒絶ではなく、僕をこの暗闇から遠ざけようとする必死の保護に感じた。
「いいか、ヒカル。ここで待ってろ。スマホの通話は繋ぎっぱなしにする。スマホから聞こえてくる音に集中してくれ。もし、俺の周囲に異変があったら、お前の耳で気づいてくれ」
シズヤが僕のスマホをポケットから出し、握らせた。通話状態にしてあるらしい。スピーカーからは、シズヤの少しだけ上ずった、荒い鼻息だけが聞こえてた。
(絶対に無理はしないで。五分以内に戻ってこないと、僕、通報するからね)
「ヒカルは心配性だな。大丈夫だ。決して、一人で動くなよ」
足音が遠ざかっていく。
砂利を踏む不規則な音。階段の鉄錆が、ギィと悲鳴を上げる音。そして――。
静寂。
シズヤという錨を失った瞬間、僕は真っ暗な情報の海に放り出された。
遠くで走る車の走行音。通り過ぎる見知らぬ誰かの話し声。木の葉がカサカサと擦れ合う音。それらすべてが、自分を刺しに来る刃のように鋭敏に響く。
白杖を握りしめる僕の手は、自分でも驚くほど冷え切っていた。
(シズヤ……怖いよ。君がいないと、僕は自分がどこに立っているのかさえ、確信が持てないんだ)
頼れるのは、手のひらの中のスマホだけだ。カサッという衣擦れの音、シズヤの靴底が古い廊下の床板を軋ませる音。僕は全神経を耳に集中させた。
シズヤが今、廊下の奥へ進んでいる。
止まった。問題の部屋の前に立ったんだ。
『……おい、ヒカル。聴こえるか』
スマホから、圧し殺したようなシズヤの掠れた声が届く。
『ドアの前に来た。なんだこれ。臭いがひどい。腐った生ゴミと、古い回路が焼けたようなシリコンの匂いが混ざり合ってる。それに……中から声がする』
(……どんな声? 誰か、話してるの?)
僕は白杖を足の間に挟み、見えないテレビ電話の向こうのシズヤに向かって、必死に手話を描いた。
『分からない。ドア越しではあまりにも小さくて、言葉にならない囁きみたいだ。スマホ、ドアの隙間にくっ付けてみるぞ』
その瞬間――。
僕の耳に、人の声よりも先に、悍ましい物理的な破壊音が流れ込んできた。
――カチカチカチカチカチ、カチッ!
それは、マウスをクリックし続ける乾いた音。けれど、その数は一つじゃない。
数千、数万の指が、一斉にプラスチックのボタンを叩きつけているような、猛烈な連打音。
「助けろ」「認めろ」「寂しい」「ここから出せ」
地獄の底から這い出してきた餓鬼たちが、骨を打ち鳴らして叫んでいるような、絶望の不協和音。
その時だ。背後で踏切の警報機が鳴り響いた。
十五分に一度の、あの油切れの悲鳴。
――ガシャン!
スマホの向こうで、何かが激しく割れる音がした。
ほどなくして、シズヤの絶叫。
(シズヤ、どうしたの! 返事をして!)
僕は白杖を握り、音のする方へ無我夢中で駆け出そうとした。けれど、近くにあるはずの階段の位置が分からない。
一歩踏み出した先には、ゴミの山があった。空き缶が散らばる音が夜の闇に響き渡り、僕はバランスを崩す。
暗闇の中で、僕は自分の足音さえも見失った。
ガクッ、と膝が折れる。
冷たいコンクリートの上に崩れ落ちた僕の耳に、スマホから絶望的な音が届きた。
「ヒカル! 来るな!」
(シズヤ……! どうして? 何があったの)
スピーカーからは、無機質なクリック音の嵐と、シズヤが何か――目に見えない、粘着質な何かを必死に振り払おうとする、鈍い打撃音だけが虚しく響き続けていた。
「やめろ! やめてくれ」
シズヤの微かな声が、猛烈なクリック音にかき消されていく。
僕は立ち上がるも、右も左も分からなかった。
シズヤという光を失った僕は、ただの無力な人間だ。



