光のない僕と、音のない君

 土曜日の夕暮れ。

 閉め切った部屋の中には、微かに熱を帯びた機械の匂いと、シズヤが淹れてくれた冷めた紅茶の香りが漂っていた。

 配信から半日が経過しても、僕らはまだPCの前にいた。僕にとって、この時間は『数字の輝き』を待つ時間だ。1stシングル『スイレン・クロウル』のストリーミング画面を、シズヤが実況するように読み上げてくれる。

「再生数は345,678回。おい、また増えたぞ。やったな、ヒカル!」

 シズヤの興奮した声が鼓膜を震わせ、直後、右肩にズシンと重みが走った。
 彼が僕の肩をバンバンと力任せに叩く。

(痛いってば。シズヤ、落ち着いて。指が痺れる)

 僕が苦笑しながら手話を描くと、隣でシズヤが「落ち着いてられるかよ」と鼻を鳴らす音が聞こえた。彼が座り直すたびに、椅子のバネがキュルリと小気味よく軋む。

 目が見えない僕には、画面上に踊る『光の波形(アナライザー)』は見えない。けれど、シズヤの弾んだ吐息や、激しくマウスを滑らせる摩擦音から、世界が僕らの音楽に熱狂し始めていることが、肌で感じられた。

(何か、コメントはついてる? 沙織さん、聴いてくれたかな)

「待ってろ、今、更新してみるから」

 マウスのカチッというクリック音が部屋に響く。
 シズヤが読み上げる声に、僕は耳を澄ませた。

   ▽▼▽

•@ボカマニ
 鳥肌が止まらない。この重いビートと、ボカロAIとは思えない「泣き」の表現、一体誰が作ってるんだ?

•@ミユミユ0713
 歌詞が刺さりました。まるで、誰かの人生を最期まで見てきたみたいに切ないです。「無声映画(サイレント)のような教室の隅」ってフレーズがたまりません。

•@神曲BOT
 これ、2026年の伝説の始まりだろ。〝光と音〟の正体が知りたい。二人組のユニットか?

•@ユウキ改
「私をもう一度、愛して」。サビのこの一言で、全部持っていかれた。この曲に、自分も救われる気がする。

   ▽▼▽

 胸の奥が、じんわりと熱くなる。
 男の黒い墨のような絶望が、誰かの心で光に変わった。その手応えだけで、僕らがあの夜の駅で震えた意味があったと思えた。

(よかったね。彼の苦悩と愛、世界に届いたみたいだ)

 僕がそう伝えた瞬間、隣のシズヤの気配が、凍りついたように静止した。
 シズヤが腰を浮かせ、前のめりになっている。衣類が擦れるカサリという音が、先ほどまでの歓喜とは違う、鋭い緊張を(はら)んでいた。

「ヒカル……なんか、変なんだ。バグか……?」

(どうしたの?)

「コメント欄をジャックするみたいに、画面のレイアウトを無視してメッセージが湧き出してきた……なんだこれ、フォントが、滲んでるのか? 読み上げるぞ」

 シズヤの声から温度が消える。

   ▽▼▽

• @[ ]
(投稿時刻:--:--:--)
 だれか見てる? リロードしても僕しかいないんだ。寂しい。

• @[ ]
(投稿時刻:--:--:--)
 402日、誰とも話してない。この掲示板だけが僕の部屋だ。ねえ、誰か。気付いて。気付いて。気付いて。気付いて。気付いて。気付いて。気付いて。気付いて。

• @[ ]
(投稿時刻:現在)
「ねえ、君たちの画面から、僕の部屋が見えるでしょ?」

   ▽▼▽

 シズヤの呼吸が、短く、鋭く止まった。
 その時、僕の耳元にあるスピーカーから、読み上げソフトのスクリーンリーダーが異常な声を出し始めた。

『システムエラー……警告。……不正なパケットを受信しました。……読み込みます』

(シズヤ、今の……聴こえた? 誰かの息遣いだよ)

 機械の音声に混じって、生々しい呼吸の音がする。
 それは、肺の奥がひりつくような、不快で湿った喘鳴(ぜんめい)
 背後では、遮断機の油切れのような悲鳴が木霊している。

「ヒカル、落ち着いて聞いてくれ。モニターが変だ。表面が、古いブラウン管みたいに波打って……コメントの背景に、見たこともない映像が透過して映ってる」

(……何が見えてるの?)

 シズヤが僕の腕を掴む手に、力がこもる。指先が微かに震えていた。

「狭い……アパートの部屋だ。ゴミ袋が天井まで積み上がってて、窓には隙間なくガムテープが貼られてる。こいつ、そこに座ってるんだ。モニターの『向こう側』から、こっちを覗き込んでる」

 スクリーンリーダーが、再び異音を拾い上げた。

『カチッ、カチカチカチッ……カチカチカチカチカチカチッ!』

 狂ったようなマウスのクリック音。

 それが僕の脳内に、一人の男の姿を形作っていく。
 暗い部屋。
 液晶の青白い光だけに照らされた、痩せこけた指。

 外界と断絶し、デジタルの海にだけ自分の存在を証明しようと、ただひたすらにボタンを叩き続ける影。

(……この音。シズヤ、生きたリズムじゃないよ、これ。メトロノームが壊れたみたいに、ただ反復してるだけだ。すごく……寂しい音がする)

 その時、シズヤが弾かれたように僕の両耳を手のひらで覆った。
 遮断される音。けれど、手のひら越しに伝わるシズヤの動悸が、どんな言葉よりも『その場の異常さ』を物語っていた。

「聴くな、ヒカル。これは、音楽室の男みたいな綺麗な未練じゃない。もっと底知れない……泥水みたいな生への渇望だ。あっ――新しいコメントが、一行だけ更新された。読み上げるぞ。『そこの君たち、ログアウトの仕方が、永遠に分からないんだ』」

 背筋に氷を押し当てられたような眩暈(めまい)がした。

 ログアウトできない。
 肉体はアパートのゴミの中で朽ち果て、魂だけがデジタルの回線に、永久に閉じ込められてしまったということなのだろうか。

(……このまま、僕らの曲のコメント欄が荒らされるのは辛い。シズヤ、助けに行こうよ)

 僕はシズヤの手を優しく払い、彼がいつも座っている右肩の方へ、ゆっくりと頭を預けた。
 彼の筋肉が、ガチガチに緊張しているのが分かる。

「ああ、悪いものじゃないと良いが。こいつ、俺たちの曲を聴いて、部屋の扉を開けようとしてる。いや、違う。モニターから、こっちに来ようとしてるんだ」

 シズヤの肩の温もりだけが、今の僕にとっての唯一の現実だった。
 音楽室の男の時とは違う。
 今度の相手は、現代の闇に溶け込んだ、顔のない孤独そのものだ。

(調べよう。彼がどこの誰で、何に飢えているのか。音が聞こえる限り、僕は逃げないよ)

「……わかったよ。お前のそういう頑固なところ、嫌いじゃない」

 シズヤの大きな手が、僕の頭を一度だけ乱暴に撫でた。
 モニターの中では、今も「カチカチ」と、終わりのないクリック音が響き続けている。
 新しい怪異との、出口なき接触が始まろうとしていた――。