光のない僕と、音のない君

「ヒカルー! シズヤくん、来てくれたよ!」

 玄関から母が叫ぶ。そんなに大声を出さなくたって、シズヤが来れば、気配で分かるのに。

 朝だ。
 闇に包まれているけれど、心地よい朝。

 ベッドから両足を下ろし、大きく伸びをする。

「今、行くよ」

 自宅の中では白杖は要らない。僕はゆっくりとシズヤの所に向かった。

(いらっしゃい)

 両手で手話を描く。

 母が僕の背中をバンバンと叩く。

「ごめんねぇ、この子。ノロマで。さあ、上がって」

(母さん、シズヤには聞こえないって。何度、言えば分かるの?)

「大丈夫。おばさんの口の動きで何となく分かるさ。お邪魔します」

 シズヤが靴を脱ぐ音。
 一緒に部屋まで向かう。シズヤが僕の部屋のドアを閉め、いつもの位置にカバンを置く音がした。

 僕がベッドの端に座り、手探りでシャツを掴むと、シズヤがそれを、ひょいと取り上げた。

「ヒカル、ボタン掛け違えるからな。じっとしてろ、ほら」

(いいってば。自分でやれるよ、そのくらい)

 シズヤの指先が僕の鎖骨あたりに触れ、器用にボタンを外していく。新しいシャツに着替えさせてくれるらしい。お節介な友人に少し困る。

(ズボンは自分でやるから)

「遠慮すんなって。付き合い長いんだから」

 目が見えない僕にとって、この距離は少しだけ心拍数が上がる。けれど、シズヤの動作には迷いがない。彼は僕の見えない不自由を、まるで自分事のように埋めてくれる。

(じゃあ、準備はいい?)

 着替えを終え、僕が手話で尋ねると、シズヤが力強く僕の肩を叩いた。

「もちろんだ。せっかくだから、俺たちが体験した怪異を歌に乗せないか?」

(イイかも、それ)
 
 机の上には、特注の音声読み上げソフトを入れたPCと、シズヤが歌詞を入力するためのキーボード。

 僕らが聴いた『男の叫び』と、睡蓮の花びらが舞う中で感じた『彼女の愛』を、一曲の音楽に閉じ込める作業を始めた。

「ヒカル。ボカロの声は、少し冷たいくらいが丁度いいと思う。歌詞を誰にも邪魔されずに、真っ直ぐに届けられるようにさ」

(そうだね。たまには、ダークな入りも良いかも)

 シズヤが打ち込む歌詞を、ソフトが合成音声で僕の耳に届けてくれる。

   ❀❀❀

title:『スイレン・クロウル』 

 Music & Arrangement:深山 光
 Lyrics:内海 静夜

【Aメロ】
 剥がれ落ちそうな鼓膜 聴きたくもない罵声
 無声映画(サイレント)のような 教室の隅
 時を返せと叫ぶ 声は誰にも 届かないまま
 それでも一途に想った
 睡蓮のような彼女の残影 そばにいたいのに
 近づくほど遠くなる

【Bメロ(サビ前)】
白杖が刻む 夜のビート
君の耳元で 真実を囁くから
(もつ)れた糸を 指先で解いて
重荷と呼ばれた 愛のカタチを 今夜、知る――

【サビ】
降り注げ 睡蓮の雨
止まった時間を 白く染め上げて
過ちさえも 抱きしめて歩く
もう一度 愛して
血の通う 魂のメロディ
花束を抱えて待つ 大切な人の元へ

   ❀❀❀

 PCの排熱ファンが静かに回り始める。

 僕がキーボードの『F12』を叩くと、スクリーン・リーダーの合成音声が、迷いのない機械的な声で現在のステータスを読み上げた。

『Studio One、プロジェクト名:光と音。サンプリングレート48kHz、24bit。全24トラック…予定…準備完了』

 僕の指先が、オーディオ・インターフェースのノブをなぞる。僕にとって、音作りは目に見えない巨大な『彫刻』を素手で組み上げる作業だ。

(シズヤ、トラック1のピアノ、ベロシティの微調整をお願い。彼の絶望を、もっと重くしたいんだ)

 僕が手話を描くと、シズヤは深く頷き、画面を食い入るように見つめる気配がした。

 シズヤには音が聞こえない。
 その代わりに、彼は『スペクトラム・アナライザー』というソフトを駆使する。音の振動が、周波数ごとの『光の柱』となってモニターに踊る。

 シズヤは、その光の高さや揺らぎを見て、音が濁っているか澄んでいるかを判断するらしい。

「……分かった。ピアノの低域、200Hzあたりを少しブーストして、墨が這いずるような粘り気を出した。ヒカル、聴いてみてくれ」

 シズヤが鍵盤を叩く。ヘッドフォンから漏れる低音が、僕の鼓膜を震わせた。

 ――重い。まるで、あの教室や線路の下に溜まった墨の重力そのものだ。

 次に、ボカロAIのエディターを立ち上げた。

 2026年最新の歌唱合成エンジンは、ブレスの音一つで、泣きを表現できるほど進化している。シズヤがモニター上のピアノロールに、自ら綴った言葉を流し込んでいく。

「……『愛して』の語尾、ピッチを少しだけ揺らすぞ。俺には聞こえなかったけど、あいつが、彼女の顔を思い出して震えた時の声、ヒカルなら分かるだろ」

 聞こえないのに、シズヤの感性がマウスをミリ単位で動かし、ボカロの調教を施す。

 僕はその変化を耳で追い、シズヤは波形の曲線が描く美しさを両目で認める。

(いいよ、完璧だね! 彼女に届ける準備ができた)

 数時間に及ぶミックスとマスタリング(最終的な音圧調整)を終え、僕らは楽曲を『WAV形式』で書き出した。

 次は、世界への放流だ。

 シズヤがタブレットで描いたジャケットイラストを読み込む。五線譜の周りに、睡蓮が咲き乱れていると、シズヤが教えてくれた。



「配信代行(TuneCore)の申請フォーム、入力終わった。レーベル名は……『光と音』で良いよな?」

(最高だね。僕らだけの名前だ)

 シズヤが僕の右手をとり、マウスの上に置いてくれた。その上から、シズヤの温かい手が重なる。

「……3、2、1――」

 カチリ。

 クリックした瞬間、僕らの目と耳を削り出して作った3分40秒が、電子の海へと解き放たれた。

 部屋の空気が一気に軽くなる。

 僕らはしばらく、どちらともなく手を繋いだまま、画面から発せられる微かな静電気の匂いを嗅いでいた。