男が向かった先は、駅だった。ホームに、湿った風が吹き抜けている。
僕にとって、夜の駅は巨大な音の巣窟だ。
絶え間なく流れるアナウンス、電車の排熱音、数え切れない人々の足音。それらが混ざり合い、真っ黒な壁となって僕の聴覚を鈍らせる。
「ヒカル、大丈夫か? 落っこちるぞ! ほら、もっとこっち寄れって」
(いつも助かるよ。危険な音は、僕がシズヤに知らせるから)
白杖を握りしめ、空いた左手でシズヤの服の裾を掴んだ。
隣を歩くシズヤが、僕の肩を抱き寄せる。彼の体温だけが、この情報の嵐の中での唯一の錨だった。
何にも代え難い安心感がここにある。
彼にとって、それは沙織さんの存在だったはずだ。
(彼、どこにいる? 彼女の涙の訳、伝えなきゃ)
「……最果ての1番ホームだ。あいつ、線路の端に立ってる。墨が、ホームの下まで滝みたいに流れ落ちていて、近づくのも怖いくらいだ」
シズヤの掠れた声が耳元で響いた。これが視覚を有する者の現実だ。音が聞こえなくとも、視覚から入る情報は脳を支配する。
シズヤの恐怖を、同じレベルで共有できない自分がもどかしい。
何か当時の事件情報がないかと、僕らはホームを延々と歩き回った。
「君たち、ちょっと良いかな?」
年配の人の声がして、僕は目を閉じたまま振り返った。
「駅員さんだ」
シズヤが呟く。
「あまりホームをウロウロしたら危ないから。何か探し物かな?」
僕は自分たちの障害のことを素直に伝えた。その上で、片手で手話をしながら慎重に切り出す。
「信じてもらえないかもしれないですが、ここで、亡くなった方が救いを求めてて。その彼、たぶん、下半身を失ってると思うんです」
「あっ――」
「分かるんですね。僕ら彼の手紙を預かってて」
「場所を変えようか」
駅員さんの優しい声。
シズヤと二人で駅舎に向かった。駅員さんが用意してくれたパイプ椅子に、ゆっくりと手探りで腰掛ける。
「……あの雨の日のことは、今も忘れられなくてね。亡くなった彼は、ずっと誰かを待っているようだったな」
駅員さんの語る記憶が、僕の脳内に再現されてゆく。
❀
――雨音。
踏切音がする中、大きな影が線路に落ちた。車輌のブレーキの激しい軋み。乗車を待つ者たちのざわめき。
男の身体は列車に敷かれ、真っ二つに裂かれた。下半身はホームの上に転がったという。
凄惨な事件現場に、彼女の姿があった。気を失い、その場に倒れる。救急車のサイレン。駆けつけた警察が規制線を慌ただしく張る。
線路の上に、無傷の手紙だけが落ちていた。
❀
駅員さんが大きく息を吐いた。
「後日、駅で倒れた女性が花束を持ってきてね。ホームの片隅に供えたいと。こちらとしては、飛び込みの印象が残るため、あまり派手にはしたくなかったんだけども」
駅員さんの言葉を、シズヤのために手話で翻訳する。
「そうしたら、人がいなくなる終電終わりまで待つって言うんだ。彼女は駅舎で睡蓮の花束を抱えたまま、泣いていたよ。ピアニストの夢を諦めて欲しくなかったのにと、ずっと独り言のように呟いてて。終電後、彼女は花束を添えて、両手をずっと合わせていたな」
駅員さんにお礼を言って、ホームに戻った。シズヤに連れられて、ホームの隅まで進む。
「ヒカル、睡蓮の花言葉、分かるか?」
(AIに聞いてみる)
スマホを取り出し、語りかける。
【睡蓮の花言葉は、もう一度、愛してです】
シズヤに手話で伝えると、パッと笑顔になった。
「手紙のシール、これも睡蓮だからな。もしかしたら、彼女が貼り替えたのかもな。あいつが、こんなに可愛いシール、持ってるとは思えないし」
白杖と点字ブロックのお陰で、ホームの最奥が分かった。気配で、下に彼がいると感じる。
「ヒカル、動くなよ」
シズヤが屈んで、線路下の彼に手紙を渡すらしい。
「ほらよ。彼女、本当は別れたくて別れたわけじゃなかったみたいだぞ」
男が声にならない声で叫んだ――。
言葉にならない後悔の雨。天から男の叫びがホームに降り注いだ。
【なんで……どうして、そんな】
僕はその場で深々と一礼した。
「過ちを犯したとしても、愛されていた過去は変わらないから。また、来世でピアニストを目指してもいいかも。いや、そんなこと言ってないで、今だよ。弾いてみたら?」
男が頷き、線路に座り込んだ。
枕木をピアノに見立てて、指先を踊らせる。
「指遣い、凄いな……」
シズヤが呟く。
僕には、はっきりと魂の旋律が聞こえた。会いたい気持ちを我慢して、ピアノに打ち込んだ日々。
叶わなかったコンクール。それでも、捨てられなかったピアニストの夢。彼女との未来。
男の嘆きが、夜の駅舎を震わせた。
雨はスコールとなり、やがて、ふわりとした感触に変わった――。
「ヒカル、睡蓮だ! 睡蓮の花びらが舞ってる!」

いつのまにか、男の気配が隣にあった。不思議と全く怖くなくなっていた。
【ありがとう。今度は、彼女を信じてずっと待つよ】
(……待つ、ってさ。彼女が死後の世界に来るまで)
僕は手話を描きながら、そっと目を閉じた。
男の気配は、線路の砂利に染み込むように霧散していく。最期に感じたのは、執着や呪いではなく、ただ純粋な、彼女への愛だった。
「……ヒカル。あいつ、消える瞬間、やっと足が戻ったんだ」
シズヤが再び僕の肩を強く引き寄せた。
(よかった)
「あいつさ、泣きながら笑ってたよ」
シズヤの鼓動が、掌を通じて僕に伝わる。
音が聞こえない彼が、魂で彼の叫びを聴いてあげた。
光が見えない僕も、心で彼の微笑みを見た気がした。
僕らはしばらくの間、睡蓮の花びらが舞うホームの隅で、無言のまま立ち尽くしていた。夜の駅を支配していた巨大な音の巣窟は、いつのまにか、潮が引くように静まり返っている。
――いや、静かになったんじゃない。
僕の耳には、はっきりと聴こえた。一度はすれ違った二人がきっとこの先、奏でるであろう壮大で美しいメロディが。
(シズヤ……僕らも好きな時間を過ごそっか)
僕は片手で、丁寧に手話を描く。
「だな。これで、もう怪異に巻き込まれないと良いんだが」
僕の腕を掴むシズヤの手に、熱が宿った。
夜の駅舎に、僕の白杖の音が、力強いリズムを刻み始める。この恐怖も、この絶望も、二人で分かち合えば、なんとか乗り越えられる。
そう信じて、僕らは光一つのない闇の中を、明日へと向かって歩き出した――。
僕にとって、夜の駅は巨大な音の巣窟だ。
絶え間なく流れるアナウンス、電車の排熱音、数え切れない人々の足音。それらが混ざり合い、真っ黒な壁となって僕の聴覚を鈍らせる。
「ヒカル、大丈夫か? 落っこちるぞ! ほら、もっとこっち寄れって」
(いつも助かるよ。危険な音は、僕がシズヤに知らせるから)
白杖を握りしめ、空いた左手でシズヤの服の裾を掴んだ。
隣を歩くシズヤが、僕の肩を抱き寄せる。彼の体温だけが、この情報の嵐の中での唯一の錨だった。
何にも代え難い安心感がここにある。
彼にとって、それは沙織さんの存在だったはずだ。
(彼、どこにいる? 彼女の涙の訳、伝えなきゃ)
「……最果ての1番ホームだ。あいつ、線路の端に立ってる。墨が、ホームの下まで滝みたいに流れ落ちていて、近づくのも怖いくらいだ」
シズヤの掠れた声が耳元で響いた。これが視覚を有する者の現実だ。音が聞こえなくとも、視覚から入る情報は脳を支配する。
シズヤの恐怖を、同じレベルで共有できない自分がもどかしい。
何か当時の事件情報がないかと、僕らはホームを延々と歩き回った。
「君たち、ちょっと良いかな?」
年配の人の声がして、僕は目を閉じたまま振り返った。
「駅員さんだ」
シズヤが呟く。
「あまりホームをウロウロしたら危ないから。何か探し物かな?」
僕は自分たちの障害のことを素直に伝えた。その上で、片手で手話をしながら慎重に切り出す。
「信じてもらえないかもしれないですが、ここで、亡くなった方が救いを求めてて。その彼、たぶん、下半身を失ってると思うんです」
「あっ――」
「分かるんですね。僕ら彼の手紙を預かってて」
「場所を変えようか」
駅員さんの優しい声。
シズヤと二人で駅舎に向かった。駅員さんが用意してくれたパイプ椅子に、ゆっくりと手探りで腰掛ける。
「……あの雨の日のことは、今も忘れられなくてね。亡くなった彼は、ずっと誰かを待っているようだったな」
駅員さんの語る記憶が、僕の脳内に再現されてゆく。
❀
――雨音。
踏切音がする中、大きな影が線路に落ちた。車輌のブレーキの激しい軋み。乗車を待つ者たちのざわめき。
男の身体は列車に敷かれ、真っ二つに裂かれた。下半身はホームの上に転がったという。
凄惨な事件現場に、彼女の姿があった。気を失い、その場に倒れる。救急車のサイレン。駆けつけた警察が規制線を慌ただしく張る。
線路の上に、無傷の手紙だけが落ちていた。
❀
駅員さんが大きく息を吐いた。
「後日、駅で倒れた女性が花束を持ってきてね。ホームの片隅に供えたいと。こちらとしては、飛び込みの印象が残るため、あまり派手にはしたくなかったんだけども」
駅員さんの言葉を、シズヤのために手話で翻訳する。
「そうしたら、人がいなくなる終電終わりまで待つって言うんだ。彼女は駅舎で睡蓮の花束を抱えたまま、泣いていたよ。ピアニストの夢を諦めて欲しくなかったのにと、ずっと独り言のように呟いてて。終電後、彼女は花束を添えて、両手をずっと合わせていたな」
駅員さんにお礼を言って、ホームに戻った。シズヤに連れられて、ホームの隅まで進む。
「ヒカル、睡蓮の花言葉、分かるか?」
(AIに聞いてみる)
スマホを取り出し、語りかける。
【睡蓮の花言葉は、もう一度、愛してです】
シズヤに手話で伝えると、パッと笑顔になった。
「手紙のシール、これも睡蓮だからな。もしかしたら、彼女が貼り替えたのかもな。あいつが、こんなに可愛いシール、持ってるとは思えないし」
白杖と点字ブロックのお陰で、ホームの最奥が分かった。気配で、下に彼がいると感じる。
「ヒカル、動くなよ」
シズヤが屈んで、線路下の彼に手紙を渡すらしい。
「ほらよ。彼女、本当は別れたくて別れたわけじゃなかったみたいだぞ」
男が声にならない声で叫んだ――。
言葉にならない後悔の雨。天から男の叫びがホームに降り注いだ。
【なんで……どうして、そんな】
僕はその場で深々と一礼した。
「過ちを犯したとしても、愛されていた過去は変わらないから。また、来世でピアニストを目指してもいいかも。いや、そんなこと言ってないで、今だよ。弾いてみたら?」
男が頷き、線路に座り込んだ。
枕木をピアノに見立てて、指先を踊らせる。
「指遣い、凄いな……」
シズヤが呟く。
僕には、はっきりと魂の旋律が聞こえた。会いたい気持ちを我慢して、ピアノに打ち込んだ日々。
叶わなかったコンクール。それでも、捨てられなかったピアニストの夢。彼女との未来。
男の嘆きが、夜の駅舎を震わせた。
雨はスコールとなり、やがて、ふわりとした感触に変わった――。
「ヒカル、睡蓮だ! 睡蓮の花びらが舞ってる!」

いつのまにか、男の気配が隣にあった。不思議と全く怖くなくなっていた。
【ありがとう。今度は、彼女を信じてずっと待つよ】
(……待つ、ってさ。彼女が死後の世界に来るまで)
僕は手話を描きながら、そっと目を閉じた。
男の気配は、線路の砂利に染み込むように霧散していく。最期に感じたのは、執着や呪いではなく、ただ純粋な、彼女への愛だった。
「……ヒカル。あいつ、消える瞬間、やっと足が戻ったんだ」
シズヤが再び僕の肩を強く引き寄せた。
(よかった)
「あいつさ、泣きながら笑ってたよ」
シズヤの鼓動が、掌を通じて僕に伝わる。
音が聞こえない彼が、魂で彼の叫びを聴いてあげた。
光が見えない僕も、心で彼の微笑みを見た気がした。
僕らはしばらくの間、睡蓮の花びらが舞うホームの隅で、無言のまま立ち尽くしていた。夜の駅を支配していた巨大な音の巣窟は、いつのまにか、潮が引くように静まり返っている。
――いや、静かになったんじゃない。
僕の耳には、はっきりと聴こえた。一度はすれ違った二人がきっとこの先、奏でるであろう壮大で美しいメロディが。
(シズヤ……僕らも好きな時間を過ごそっか)
僕は片手で、丁寧に手話を描く。
「だな。これで、もう怪異に巻き込まれないと良いんだが」
僕の腕を掴むシズヤの手に、熱が宿った。
夜の駅舎に、僕の白杖の音が、力強いリズムを刻み始める。この恐怖も、この絶望も、二人で分かち合えば、なんとか乗り越えられる。
そう信じて、僕らは光一つのない闇の中を、明日へと向かって歩き出した――。



