光のない僕と、音のない君

 ゴォォォォ……という巨大な咆哮が、空港の厚いガラスを震わせ、僕の鼓膜を力任せに押し込んできた。

 一機、また一機。

 鉄の塊が重力を切り裂き、空へと消えていく気配を音に感じる。そのたびに、僕とシズヤを繋いでいた細い糸が、物理的に引きちぎられていくような錯覚に陥った。

 ロビーの椅子に深く沈み込み、僕は白杖を両手で強く握りしめていた。

 シズヤが手荷物検査場の向こう側へ消えてから、もう三十分は経っただろうか。
 
 僕の周りには、無数の音で溢れている。

 キャリーケースが床を転がる乾いた音、出発を急ぐアナウンスの声、小さな子供の泣き声や笑い声だってある。

 いつもなら、それらすべてを感じとり、楽譜に書き起こしたいと思うのに、今はダメだ。

 すべての音が、意味を持たないただの雑音として、僕の頭の中をぐちゃぐちゃにかき回していた。

(……君がいないと静かすぎるよ、シズヤ)

 どんなに雑踏が騒がしくても、隣に君がいないだけで、僕の世界は絶対的な静寂に沈んでしまう。

 君が僕の肩を叩く、あの乱暴で温かいリズム。僕がピアノを弾く横で、君が床を踏み鳴らす、あの心強いビート。
 
 それらが失われたあとの世界は、光のない僕にとって、ただの冷たい空洞でしかなかった。

「ヒカル。そろそろ、行くよ」

 母さんの無理に明るく振る舞う声が聞こえた。

「シズヤくんの乗った飛行機、もうすぐ離陸するから。帰り、どこかで食べていく?」

「……ううん。お腹、空いてないや」

 僕は重い腰を上げた。

 一歩、踏み出す。いつもならシズヤがさりげなく僕の肘を支え、進むべき方向を体の動きで教えてくれる。

 でも、今は僕の左側には何もない。
 
 白杖で床を叩く。コツ、コツ、という音が、ロビーの広い空間に虚しく響いて消える。

 僕は、この音を聴きながら、これから一人で生きていくのかもしれない。

 シズヤが『音』を手に入れ、僕の知らない新しい世界に旅立っていくのを、ただ遠くから祝福するだけの、一人の音楽家として。

 ――その時だった。

 背後から、バタバタと激しい足音が近づいてくるのが分かった。

 走っている。それも、相当な勢いだ。
 空港の警備員か、それとも遅刻しそうな乗客か――。
 
 足音は真っ直ぐに僕の方に向かってきて、僕の数歩手前で、急ブレーキをかけるように止まった。
 
 ハァハァという、ひどく乱れた呼吸音。

 一呼吸おいて――トン、トトン。

 僕の左肩に、馴染み深いリズムが刻まれた。

「……え?」

 僕は凍りついた。白杖を握る手が震え、呼吸を忘れる。ありえない。シズヤはもう、ゲートの向こう側にいるはずだ。

 でも、僕の肩を叩くこの指の硬さ。僕の皮膚が記憶している、この独特のビートの癖。

「おい、ヒカル。なんだよ、そのリアクション。他人だと思ってんのか?」

 (かす)れた、けれどたまらなく愛おしい低い声。
 
(シズヤ……なんで! 飛行機は? アメリカは?!)

 僕が慌てて振り返ると、シズヤが僕の肩を乱暴に抱き寄せた。
 その体温は、走ってきたせいか、いつもよりずっと熱かった。

「やめた。搭乗口の前でさ、周りの奴らの顔見てたんだよ。みんな、スマホ見たり新聞読んだりして、俺のことなんて見てやしねぇ」

 シズヤの声に、少しだけ笑いが混じる。

「その時、思ったんだ。俺、耳が聞こえるようになったらさ。きっと、ヒカルの存在も音楽も、耳で感じるんだろ? それって、普通の奴らと同じじゃねぇか。つまんねぇよ」

(バカ……! 何言ってるんだよ。耳、治したいって、あんなに……!)

「治したいと思ったよ。でもさ、それ以上に、俺はお前の目でありたいんだ。皮膚で、震動で、魂で、ヒカルの鼓動とシンクロしてぇんだよ。俺たちの『光と音』は、この不完全な二人だから作れるはずだろ?」

 シズヤの大きな手が、僕の頭をガシガシと掻き回す。
 
 僕の視界は相変わらず真っ暗だ。

 でも、その暗闇の中に、シズヤが連れ戻してくれた色が、音が、瞬時に溢れ出していくのが分かった。
 
 後ろの方から、怒声と笑い声が混ざったような騒ぎが聞こえてきた。

「こら、シズヤ!! チケット代、いくらしたと思ってるの! って、叫んでも聞こえないんだわ」

 シズヤの両親だ。
 呆れ果てたシズヤの母と、どこか誇らしげに笑っているシズヤの父。
 
「悪い、父ちゃん、母ちゃん! お金なら、次の新曲がヒットしたら必ず返すから!」

「もう、本当にあんたは!」
 
「ヒカル、帰ろうぜ。帰りはウチの車に乗っていけよ」

 シズヤが僕の肘を、いつものように力強く掴む。

 その瞬間、僕の世界に「軸」が戻った。

   *

 帰りの車の中。

 後部座席の隣で、シズヤはさっきまでの騒動が嘘のように、楽しそうにスマホのメモ帳を叩いていた。

「なあ、ヒカル。今、良いタイトルが浮かんだんだ。『飛び立つ鉄鳥を、地上から見上げる二人の不完全なオーケストラ』。どうだ? これに、ヒカルのちょっと泣かせるピアノを乗せるんだよ」

(悪くないね)

 僕が手話で返すと、シズヤが嬉しそうに笑って車のシートをドン、と叩いた。

「……なあ、ヒカル」

 不意に、シズヤが僕の肘を掴む手に、ギュッと力が入った。
 
(どうしたの? やっぱり、アメリカに行きたくなったとか?)

 僕は冗談めかして手話で返そうとした。

 けれど、シズヤの呼吸が、先ほどまでの歓喜とは明らかに違う鋭い警戒に切り替わった。

「……変なんだよ。さっきからオーディオのディスプレイに妙なもんが映ってる」

 シズヤの声が、低く、困惑に沈んでいる。

 僕には見えない。けれど、シズヤの瞳には、電源を切っているはずのカーオーディオの液晶パネルが、不自然な青白い光で明滅している様子が見えるらしい。

(液晶に、数字でも出てるの?)

「いや、違う。波形だ。それも、俺が見たこともねぇような、細かくて……まるで、無数の指が這いずり回ってるみたいな、気持ち悪い波形だ」



 シズヤの腕から、微かな、けれど今まで経験したどの怪異よりも冷たい感触が伝わってきた。

 ――次の瞬間だった。

 僕の耳に、静寂を切り裂いて不協和音が届いた。

 ――ザーッ……、ザーッ……。

 ただの砂嵐ではない。
 音の奥底で、誰かが、何千、何万という数の爪で、金属の板をゆっくりと引っ掻いているような、生理的な嫌悪感を催す音が蠢いている。
 
 
『……コ、ロス』

 それは、声ですらなかった。

 僕の脳内に直接、何重にも重なった不協和音が無理やり流し込まれたような感覚。

(シズヤ、今……!)

 手話で問いかけるより早く、シズヤが僕の肩を激しく叩いた。
 
「……ヒカル、何か聞こえたのか? 今の震動、スピーカーからじゃねぇ。車全体の鉄板が……いや、俺たちの骨が、直接鳴らされたみたいな――」

 僕たちは、言葉を失った。
 
 この世の(ことわり)から外れた何かが、僕たちの存在を、この街で見つけ出したような。
 
「……ハッ、最高じゃねぇか」
 
 シズヤが、震えながらも、挑戦的な笑い声を漏らした。シズヤの心臓の鼓動が、恐怖を塗りつぶすような爆速のビートを刻み始める。
 
「新しい曲のネタには、困らねぇみたいだな。だろ、ヒカル?」

 僕は、見えない暗闇の向こう側を見据え、静かに頷いた。
 
『光のない僕と、音のない君』

 僕たちのアンサンブルを必要とする闇は、この世界の裏側に、まだまだ無数に潜んでいるらしい。
 
(うん。次の曲は、もっと騒がしくなりそうだ)

 加速する車のエンジン音に混じって、正体不明の()めきが、いつまでも、いつまでも僕たちのすぐ後ろを追いかけてきていた。

 でも、隣にシズヤが居てくれる。それだけで、僕はどんな怪異にだって立ち向かえる気がした――。(了)