光のない僕と、音のない君

 校門を出て、数分。

 アスファルトの上を叩く白杖の音が、住宅街の静寂に溶けてゆく。

 僕にとっては、朝も夕も同じ闇だ。けれど、瞼の裏に感じる闇の濃淡は時間に合わせて異なる。音楽室にいる時よりも濃くなった夕闇は、それほど嫌いじゃない。

 どこか遠くで響く(からす)の鳴き声が、まるで頭上を掠めたように鋭く鼓膜を刺した。

(シズヤ、彼は?)

 空中で描く僕の手話に、シズヤが僕の腕を強く引き寄せながら答えた。

「……あそこだ。公園の一番奥にある、古びたベンチ。あいつ、そこに座り込んで……手紙を、何度も何度も開いては閉じてる」

 シズヤの導きで、僕は公園の入り口を抜けた。

 足元の感覚が変わる。硬いアスファルトから、湿った土と枯れ葉の柔らかい感触へ。
 
 キィ、キィィ――。

 風もないのに、錆びついたブランコが不気味な悲鳴を上げた。僕の耳には、その音が『少女の笑い声』を無理やり引き延ばしたような、歪んだ音に聞こえた。

「ヒカル、止まれ……ここから先は、墨がひどい」

 シズヤの声が、ひどく緊張していた。
 僕の鼻をつくのは、雨上がりの土の匂いに混じる、焦げたインクのような異臭。
 
 ――瞬間、耳元でテープを逆再生したような、ギュルリとした音が弾けた。

『……もう無理なの。あなたのこと、支えきれない。手紙、気持ちに応えられないから返すよ』

 それは、過去の残影が放つ言葉の断片だった。この公園にこびりついた、沙織の声に違いない。

「彼女が現れたぞ。ありゃ、生き霊だ。男の念に引っ張られて、生きたまま魂だけ、この場に引っ張り出されてる」

(……だね。僕には二人のやり取りが聞こえてる。耳が痛いよ)

 男の隣に、透き通った彼女の姿が見えるのだと、シズヤが実況してくれた。

 僕は耳で捉えた彼女のセリフを、同時翻訳的にシズヤに伝えていく。

『だから、過酷なピアノのストレスを、私には支えてあげられないの。才能があるんだから、恋愛に時間を割いてる場合じゃないって。お願い、聞いて。私は自分の意思で、あなたを選んだ。みんなが言うみたいに、ピアノに惹かれて奪われたわけじゃない』

 シズヤの息遣いが早くなった。

「……彼女、泣いてる。目も笑ってないんだ。あいつの顔を、まるで重病人を見るような目で見下ろしてるんだ」

 シズヤの言葉と、僕の耳に届く『沙織の声』が重なる。
 
『だからこのままだと、あなたとの将来が、私には見えないの……一緒にいると、大切な夢を奪っちゃいそうで。次のコンテスト、本気で応援してるんだよ。なのに、こんな風に泣いてたら、私まで暗闇に引きずり込まれちゃう。そういうところが、重すぎるんだよ』

 冷酷で、現実的な拒絶。

 男の霊は、下半身のない身体をベンチに預け、激しく身悶えているらしい。つま先が冷たくなった。切断面から噴き出す墨が、公園の遊具を、砂場を侵食していく。

(……重すぎる、か)

 僕は手話を描きながら、自嘲気味に笑った。

 その言葉は、僕ら二人にとっても、いつか誰かから投げつけられるのではないかと怯えている、呪いの言葉だ。
 
 シズヤが、僕の肩を掴む手に力を込めた。

「……俺だって同じだ。耳が聞こえないせいで、ヒカルに道を歩かせる時も、音楽作りの時も……ヒカルのお荷物になってるんじゃないかって」

 シズヤの告白は、静かだった。音が聞こえない彼が、自分の声がどれほどの音量かも分からずに放つ、魂の独白。

(そんなこと、考えたこともないよ)

「サンキュ。だけど、俺たちの未来も、誰かから見れば重すぎるのかもな」

 僕は杖を地面に突き立て、シズヤの手を優しく握り返した。

(重いっていうのは、それだけ僕らの絆に密度があるからでしょ)

 僕は片手で、手話を描いた。
 止まらぬ想いが溢れ出す。

(目が見える人たちが、耳が聞こえる人たちが、簡単に捨てられるものを、僕らは捨てられない。……それを重荷と呼ぶなら、僕は一生、君を背負いたい)

「ヒカル、早口すぎ。興奮すんなって。俺の事、好きすぎかよ」

(茶化さないでよ。それに、手話の早口って、なんだよ?!)

 僕らは顔を見合わせて、しばらく笑った。緊張感が続いていたから、こんな時間もないと心がパンクしてしまうだ。

 不意に、シズヤの笑い声が止まる。

「……あっ。ヒカル、冗談は後だ。男が手紙を捨てた。俺、拾ってくるぞ」



(待って――)

 手話よりも早く、シズヤの気配が隣から消えた。

 瞬間、隣にシズヤがいない、目を失ったような恐怖が僕を包み込んだ。白杖を握りしめ、信じて待つ。しばらくすると、無事にシズヤの気配が戻った。

(無茶しないで)

「……大丈夫だ。ヒカル、俺が手紙を読むよ。あいつ、自分の言葉を誰かに聞いてほしくて、ここでずっと待ってるんだと思うから」

 シズヤが耳元で囁いた。

 耳が聞こえなければ、自分の声がどれほどの大きさで、どんな響きをしているのか、シズヤ自身には一生分からない。それどころか、思春期の声変わりで、シズヤは本当の自分の声すら知らない。

 それでもシズヤは、腹の底から精一杯の声を出してくれる。

「……愛し君へ。君と過ごす時間は、オレの人生で、唯一の光です。必ず結果を出すから待って欲しい。ヨーロッパのコンテストに勝つために、そばにいて欲しいんだ」

 文頭から、男の想いが溢れている。

 シズヤの声は掠れていて、時折音程が不安定に揺れる。けれど、その一語一語には、シズヤにしか込められない切実な熱が宿っている。

「初めて、この公園で告白した日、君は照れ臭そうに微笑んで、頷いてくれた。いつから俺は、君の重荷になってしまったのだろう。掛け違えたボタンは――」
 
 公園の空気が凍りついた。
 男の霊が、獣のような咆哮を上げたのだ。

【読むな……! そんな昔の想い、今の俺には――】

「男の切断面から、とんでもない勢いで墨が噴き出してる。だが、俺は溺れたって、続けるからな」

(ダメだよ、冷静に。シズヤ、逃げて!)

 手話を描く指の動きが、焦りで思わず鋭くなった。

 シズヤには男の咆哮が聞こえない。彼はただ、墨に捉えられながらも、必死に声を張り上げ続けてくれる。

「君が隣にいてくれたから、俺は……絶対に」

 ドロリとした冷たい感触を足元に感じた。
 まずい。このままでは、シズヤが呑まれる――。

 僕は反射的に、傍らの白杖を振り抜いた。

「シズヤから、離れろ……!」

 目蓋の裏の暗闇の中、シズヤの激しい呼吸音を探す。見えなくても、かけがえの無い存在の位置は明確だ。

 僕は杖の先端で、シズヤの身体にまとわりつこうとする黒い塊を、渾身の力で薙ぎ払った。

 シズヤを助けたいという思いが、僕の神経を研ぎ澄ませる。杖の先から伝わる重い抵抗を、力ずくで弾き飛ばした。

(シズヤ、無事かい?)

 僕はシズヤの襟首を掴み、力任せに手繰り寄せた。
 転がり込むようにして僕の胸に収まったシズヤは、それでも手紙を離さなかった。

「……助かった。だが、最後まで読ませてくれ。そうだ、ここだ。ここまで読んだ。君が生きてさえいれば、それだけで幸せなんだ。重いと思われても、君の存在は太陽のようだ。ずっと、これからもそばにいて欲しい――」

 シズヤの声が止まる。
 不意に、シズヤが僕の手元を離れた。

「……あんたも、辛かったんだな。生きてりゃ、通じない想いばかりだ。俺にも分かる」

 シズヤが、ねぎらいの言葉を掛けた、その時だった。
 
 泥のようだった男の泣き声が、一瞬だけ、澄んだ和音に変わった。暴れていた墨が、砂が崩れるように力を失い、静かに地面へと消えていく。

(何が、起きてるの?)

「……ヒカル、男の影が腰のあたりまで、戻った! 墨が消えていく。あいつ、彼女が去った後のベンチで、ただじっと、自分の手を見つめてるんだ。まだ、彼女の温もりが残ってるみたいに」

 大切な存在に振られ、絶望の底に落ちた男。
 けれど、僕らがその『重み』を肯定したことで、彼の身体の一部が再生した。

(まだだね。まだ、完全じゃない)

 男の意識は、既にここにはないようだ。息遣いで分かる。
 
「……ヒカル。あいつ、立ち上がって、フラフラと歩き始めた」

(追いかけよう)

 夜の公園に、僕の白杖の音が再び響き始めた。

 シズヤと歩きながら、女性の声を思い返す。

『……重すぎるんだよ』

 冷酷に響く彼女の拒絶。けれど、その後に続く、一秒にも満たない空白の中に、僕は何か聞いた気がした。

 そうだ。
 彼女が言い終えた瞬間、耐えきれずに溢れた嗚咽(おえつ)を。

 立ち止まる。

(……待って、シズヤ。彼女、本当に彼を嫌いになったのかな?)

 僕が手話を描く指に、迷いが混ざる。

「どういう意味だよ?」

(彼女の声、震えてた。『重すぎる』と言った後、涙を(こら)えて、何か言葉を飲み込んだんだ)

 シズヤがハッとして、ポケットから取り出した手紙を凝視した。

「……ヒカル、これを見てくれ。男が書いたこの便箋……端の方に透明な染みがいくつもついてる。これ、手紙を突き返される前に、彼女が読みながら何度も落とした涙の跡だ」

 僕は思わず息を呑んだ。
 
 彼女は、別れる瞬間も彼を愛していた。けれど、何らかの理由で別れを告げた可能性。

「……だとしたら、最悪だ」

 シズヤの声が、凍りついたように低い。

(うん。男が死んだ意味が……いや、とにかく確かめに行こう)

「あいつ、この手紙を『突き返された絶望の証』として抱えてるけど……本当はこれ、彼女が最後まで手放したくなかった未練そのものかもしれないな」

 シズヤの手を強く握る。走りたいのに、走れない。早く、男の元に駆け付けたい。世界を見ることができない自分の目が、今日は無性にもどかしかった。