事件の翌日。
学校の廊下を流れる空気は、驚くほど透明だった。僕の耳に届くのは、遠くで鳴るブラスバンド部のチューニングの音、中庭で跳ねるテニスボールの規則正しいリズム。

何よりも、隣を歩くシズヤの、少し眠そうな足音が心地良い。
「……あ、光と音の二人だ」
「マジで解決したらしいよ、剣道場の幽霊。教頭先生もベタ褒めしてたって」
すれ違う生徒たちのささやき声が僕の耳をくすぐる。
どうやら僕たちの『探偵事務所』の噂は、一晩で学校中に広まってしまったらしい。
「おい、ヒカル。なんかジロジロ見られてねぇか?」
シズヤの少し居心地悪そうな声がした。
(有名人はつらいね)
僕は手話で返し、少しだけ胸を張った。
昇降口まで来ると、神崎先輩の気配を感じた。先輩の呼吸に、もう昨夜のような乱れはない。朝の光を吸い込んだような、穏やかで芯のある音だ。
「ヒカルくん、シズヤくん。本当に、ありがとう。昨夜のあと、笹井先生……ちゃんと病院でカウンセリングを受けることになったって。私も、今日からまた、真っ直ぐに面が打てそうだよ」
先輩の声には、迷いのない清々しさが宿っていた。
僕は先輩に一礼し、シズヤと一緒に校門へと向かった。
*
帰り道。
夕暮れの風が、街の雰囲気を優しく運んでくる。
踏切の音色、遠くを走る車のエンジン音、夕飯の支度を急ぐ主婦の自転車。
それらすべてが、今の僕には一つのオーケストラのように聞こえていた。
「なあ、ヒカル」
シズヤが不意に足を止めた。
「……俺さ、昨日の道場で思ったんだ。やっぱりヒカルの奏でる音の震動が、俺の体に一番しっくりくる。ヒカルが隣にいりゃあ、俺はどんなに無音な世界でも、一歩踏み出せる気がするんだよ」
不器用な、けれど真っ直ぐな言葉。
(僕もだよ、シズヤ。君の声がないと、僕の旋律は迷子になっちゃうから)
二人で笑い合い、また歩き出そうとした時。
僕のポケットの中で、スマホが震えた。母さんからの着信だ。
いつもなら「夕飯は何?」なんて呑気なメールを送ってくる母さんの声が、通話ボタンを押した瞬間に、異様なほど張り詰めているのが分かった。
『……ヒカル。落ち着いて聞いて』
母さんの声が、震えている。
「どうしたの?」
シズヤが隣で怪訝そうに首を傾げた。
『アメリカの医療チームからね、シズヤくんのお母さんに連絡があったの。シズヤくんの難聴を治せる、最新のオペができるかもしれないって。成功すれば、また音が聞こえるようになる。シズヤくんのご両親も、もう受けるつもりで動いているみたい。でも、このビッグニュースは彼の目であるヒカルから伝えて欲しいって』
――ドクン、と心臓が跳ねた。
一瞬、耳を疑った。世界が、急激に静まり返ったような錯覚。
聞こえるようになる。
シズヤの耳に、僕のピアノの音が、この世界の色彩豊かな音色が、ダイレクトに届く日が来るかもしれない。
それは、祝福すべき最高の結果だ。
シズヤが音を失ってから、ずっと待ち望んでいたはずの奇跡。
――なのに。
僕の胸の奥で、言いようのない闇が広がっていく。
(音が聞こえるようになったシズヤは、もう、僕の『目』ではなくなってしまうんだろうか。2人で一つになってシンクロするあの特別な時間は、終わってしまうんだろうか)
「ヒカル? どうした、急に黙り込んで。母ちゃんからなんて?」
シズヤの顔が僕に近づく。シズヤの呼吸は、相変わらず無邪気で、僕への全幅の信頼に満ちている。
僕は震える指先で、嘘の情報を手話で伝えようとした。けれど、僕の手首を掴むシズヤの体温が、僕の嘘を許さなかった。
(……シズヤ。あのね、すごいニュースがあるんだ)
僕は、自分の声がかすかに震えているのを自覚しながら、手話でゆっくりと伝えた。
「何だよ、改まりやがって――」
(君の耳が、治るかもしれない)
夕暮れの雑踏の中で、シズヤの気配が、凍り付くように静止した。
学校の廊下を流れる空気は、驚くほど透明だった。僕の耳に届くのは、遠くで鳴るブラスバンド部のチューニングの音、中庭で跳ねるテニスボールの規則正しいリズム。

何よりも、隣を歩くシズヤの、少し眠そうな足音が心地良い。
「……あ、光と音の二人だ」
「マジで解決したらしいよ、剣道場の幽霊。教頭先生もベタ褒めしてたって」
すれ違う生徒たちのささやき声が僕の耳をくすぐる。
どうやら僕たちの『探偵事務所』の噂は、一晩で学校中に広まってしまったらしい。
「おい、ヒカル。なんかジロジロ見られてねぇか?」
シズヤの少し居心地悪そうな声がした。
(有名人はつらいね)
僕は手話で返し、少しだけ胸を張った。
昇降口まで来ると、神崎先輩の気配を感じた。先輩の呼吸に、もう昨夜のような乱れはない。朝の光を吸い込んだような、穏やかで芯のある音だ。
「ヒカルくん、シズヤくん。本当に、ありがとう。昨夜のあと、笹井先生……ちゃんと病院でカウンセリングを受けることになったって。私も、今日からまた、真っ直ぐに面が打てそうだよ」
先輩の声には、迷いのない清々しさが宿っていた。
僕は先輩に一礼し、シズヤと一緒に校門へと向かった。
*
帰り道。
夕暮れの風が、街の雰囲気を優しく運んでくる。
踏切の音色、遠くを走る車のエンジン音、夕飯の支度を急ぐ主婦の自転車。
それらすべてが、今の僕には一つのオーケストラのように聞こえていた。
「なあ、ヒカル」
シズヤが不意に足を止めた。
「……俺さ、昨日の道場で思ったんだ。やっぱりヒカルの奏でる音の震動が、俺の体に一番しっくりくる。ヒカルが隣にいりゃあ、俺はどんなに無音な世界でも、一歩踏み出せる気がするんだよ」
不器用な、けれど真っ直ぐな言葉。
(僕もだよ、シズヤ。君の声がないと、僕の旋律は迷子になっちゃうから)
二人で笑い合い、また歩き出そうとした時。
僕のポケットの中で、スマホが震えた。母さんからの着信だ。
いつもなら「夕飯は何?」なんて呑気なメールを送ってくる母さんの声が、通話ボタンを押した瞬間に、異様なほど張り詰めているのが分かった。
『……ヒカル。落ち着いて聞いて』
母さんの声が、震えている。
「どうしたの?」
シズヤが隣で怪訝そうに首を傾げた。
『アメリカの医療チームからね、シズヤくんのお母さんに連絡があったの。シズヤくんの難聴を治せる、最新のオペができるかもしれないって。成功すれば、また音が聞こえるようになる。シズヤくんのご両親も、もう受けるつもりで動いているみたい。でも、このビッグニュースは彼の目であるヒカルから伝えて欲しいって』
――ドクン、と心臓が跳ねた。
一瞬、耳を疑った。世界が、急激に静まり返ったような錯覚。
聞こえるようになる。
シズヤの耳に、僕のピアノの音が、この世界の色彩豊かな音色が、ダイレクトに届く日が来るかもしれない。
それは、祝福すべき最高の結果だ。
シズヤが音を失ってから、ずっと待ち望んでいたはずの奇跡。
――なのに。
僕の胸の奥で、言いようのない闇が広がっていく。
(音が聞こえるようになったシズヤは、もう、僕の『目』ではなくなってしまうんだろうか。2人で一つになってシンクロするあの特別な時間は、終わってしまうんだろうか)
「ヒカル? どうした、急に黙り込んで。母ちゃんからなんて?」
シズヤの顔が僕に近づく。シズヤの呼吸は、相変わらず無邪気で、僕への全幅の信頼に満ちている。
僕は震える指先で、嘘の情報を手話で伝えようとした。けれど、僕の手首を掴むシズヤの体温が、僕の嘘を許さなかった。
(……シズヤ。あのね、すごいニュースがあるんだ)
僕は、自分の声がかすかに震えているのを自覚しながら、手話でゆっくりと伝えた。
「何だよ、改まりやがって――」
(君の耳が、治るかもしれない)
夕暮れの雑踏の中で、シズヤの気配が、凍り付くように静止した。



