光のない僕と、音のない君

 ドォォン! ドォォン!

 道場の床を激しく打ち据える巨大な足音が、僕の鼓膜を暴力的に揺らす。
 
「ヒカル! 来るぞ、影が膨れ上がりすぎて道場の天井まで届きそうだ!」

 シズヤの叫び声。その声が微かに震えている。シズヤがここまで怯えるなんて、相当な見た目に違いない。

 その時だった。

 体育館の入り口の重い扉が、外から力任せに蹴り開けられた。

 入り込んできたのは、冷たい夜風と……ひどく荒い獣のような生身の人間の呼吸音だ。

「……神崎。神崎ぃ……どこだ。練習、練習だ。私がいなければ、君はダメになるんだ……」

 濁った、耳障りな声。

 笹井先生だ。卓球部の部室にいるはずの彼が、生霊の暴走に呼応するように、現実の肉体を引きずってここへ現れた。

「先生……もう、やめてください!」

 神崎先輩の悲鳴。

 僕の耳は、今この空間で起きている『二つの音』の共鳴を捉えていた。
 天井で吠える生霊のノイズと、笹井先生の異常に速い心拍音。この二つが、恐ろしい精度でシンクロしている。

(シズヤ! 生霊と本体が繋がってる気がする。影を叩いてもダメだ。先生自身の執着のサイクルを壊さないと!)

 僕は手話でシズヤに伝え、ノートパソコンのフェーダーを指先で一気に押し上げた。画面は見えないが、指に伝わる抵抗感で出力は把握している。

「わかった、ヒカル! ……クソッ、先生の目、完全にイっちまってやがる!」

 シズヤがスピーカーを抱え、突進してくる笹井先生の前へと躍り出る気配がした。
 先生の呼吸から、彼が何かを強く握りしめているのが分かった。プラスチックが軋む、微かな音。

「邪魔だ……退け! 神崎は私の作品なんだ!」

 ヒュッ、と空気を切り裂く鋭い音。
 シズヤの「危ねぇ!」という怒声と重なるように、僕の頭上で空間そのものが沈み込むような、巨大な圧迫音がした。

 僕はエンターキーを、魂を込めて叩きつけた。
 
 流したのは、さっきのトラップじゃない。

 神崎先輩がかつて放った、あの凛として真っ直ぐな『面』の打突音。それを何重にもリバーブで増幅し、聖なる鐘のような響きに加工した、浄化の音階だ。

 突き抜けるような高音が道場を満たす。
 それは、先生がかつて愛したはずの『正しい剣道の音』だ。
 
『ガ、ァァァ、アアッ!?』

 生霊がのたうち回る、不快な高周波が弾けた。それと同時に、目の前で笹井先生が糸の切れた人形のようにその場に膝をつく音がした。

(シズヤ、今だ! 先生を現実に引き戻せ!)

 シズヤが動いた。先生の魂に届くように、道場の床を思い切り踏み抜いた振動が伝わってきた。

「……目を覚ませ、先生! あんたが教えてんのは、卓球でも剣道でもねぇ。ただの独りよがりなんだ!」

 シズヤの怒声。

 その瞬間、僕の耳を塞いでいた粘着質な音が霧散した。

 天井を覆い尽くしていた巨大な気配が空気の抜けるような音と共に消えていく。
 
 ――静寂。

 聞こえるのは、肩で息をするシズヤと、泣きじゃくる神崎先輩の声。
 そして、床に突っ伏して「私は、何を……」と力なく呟く、一人の男の情けない声だけだった。

「……終わったな、ヒカル」

 シズヤの、少し疲れた足音が近づいてくる。
 
(音が澄んだよ。もう、ピンポン玉の音は聞こえない)

 神崎先輩が僕たちの元へ駆け寄ってくる気配。
 僕たちは、一滴の血も流さず、けれど一曲の音楽で、一人の人間を呪縛から解き放ったのだ。

 夜の剣道場に、静かな風が吹き抜ける音だけが残った。