深夜一時五十分。
僕たちは、教頭先生の先導で、冷え切った渡り廊下を歩いていた。
月明かりだけが頼りの校舎は、昼間とは全く別の表情を持っているらしい。僕には見えないが、シズヤの足音の響き方で、彼が周囲を鋭く警戒しているのが分かった。
「……本当に、大丈夫なんだろうな」
教頭先生の懐中電灯を持った手が、カチャカチャと震えている。歩くたびに、先生の浅い呼吸と、心臓の不規則な鼓動が僕の耳に届いた。
「大丈夫ですよ、教頭先生。シズヤが特大のBluetoothスピーカーを持ってきてますから」
発言しながら、シズヤに向けて手話を描いた。隣でシズヤがスピーカーの重みを誇示するように、ドンと肩を鳴らしてくれる。
やがて、埃っぽい匂いが鼻を突いた。取り壊しが決定している旧体育館だ。分厚い鉄扉の前に到着したみたいだ。

教頭先生の呼吸がいよいよ限界に近い音を立て始めた。
「……教頭先生。旧体育館の取り壊し責任者は、あなたですね?」
シズヤが不意に尋ねると、教頭先生はビクッと肩を揺らした。
「なぜ、それを……」
先生の言葉をシズヤに伝わるように手話で同時翻訳する。
「両肩のこわばりです。この場所に近づくにつれて、恐怖だけじゃない、何かを悔やむような罪悪感を背中から感じたから」
さすが、シズヤだ。視覚をフルに利用して、背中から感じ取る。
教頭先生は深く息を吐き出した。
「……ああ。老朽化で仕方がないことだが、卒業生や地元からは反対の声が多かった。私もこの学校のOBでね……本当は、壊したくなんかなかった。だが、立場上、私が強引に話を進めるしかなかった」
なるほど。
怪異というものは、人の心の澱みに寄り付く。教頭先生の『母校を壊す』という罪悪感が、この旧体育館に残る思い出の残滓と結びつき、『逆再生の校歌』という形で彼を責め立てていたのだ。
「時間だぞ、ヒカル」
シズヤの大きな手が、僕の肩を二回叩いた。
午前二時。
鉄扉の向こう側から、ポロン……と、冷たいピアノの音が響いた。
タ、ター、タ、タターン……。
教頭先生が短い悲鳴を上げる。
それは確かに校歌のメロディだった。しかし、すべての音が逆に向かって進行していく、ひどく不気味で、粘りつくような不協和音だ。
僕の過敏な耳は、そのピアノの音の裏側に張り付いている『無数の声』を拾い上げた。
(壊さないで。私たちの思い出を、消さないで……)
それは、教頭先生自身が押し殺してきた、彼自身の本音でもあった。
過去への執着が、呪いとなって空間を歪めている。
「開けてください、教頭先生」
僕が言うと、彼は震える手で鍵を開け、鉄扉を押し開いた。
冷たい風が吹き抜ける。シズヤが素早く僕の腕を引き、体育館の中央へと導いた。
グランドピアノの蓋が開き、鍵盤が目に見えない指によって叩かれているのが、音の反響で分かった。
「ヒカル、やれ。俺がスピーカーをセッティングした」
シズヤの頼もしい声。
僕はノートパソコンを開き、エンターキーに指を置いた。
「教頭先生。思い出は、後ろを振り返って縋るものじゃないと思います。未来に向かって、爆音で鳴らして持っていきましょう」
ターンッ!
僕はキーボードを強く叩いた。
次の瞬間、旧体育館の空気を震わせるほどの、強烈な重低音が爆発した。
ドン、ドン、ドン、ドン!
腹の底に響く、四つ打ちのキック音。それに乗せて、僕とシズヤで徹夜して打ち込んだ、『ボーカロイド』の透き通るような高音の歌声が響き渡る。
それは、紛れもない僕たちの校歌だった。
しかし、テンポは倍速。重厚なエレクトロダンスミュージックにアレンジされ、過去の呪縛などすべて吹き飛ばすような、圧倒的な熱量を持った未来のサウンド。
機械の歌声が、逆再生の気味の悪いピアノを完全に呑み込んだ。
体育館の床が震え、埃が舞い上がる。
僕の耳にこびりついていた「壊さないで」という未練がましい声は、四つ打ちの強烈なビートによって跡形もなく粉砕されていく。
(どうかな。これなら、取り壊されても笑って前に進めるでしょ?)
僕は、見えないグランドピアノに向かって手話で語りかけた。
隣でシズヤが、音楽に合わせて床を踏み鳴らす振動が伝わってくる。シズヤは耳が聞こえなくても、自分が作ったこの完璧なビートを、足の裏と空気の震えで完全に楽しんでいた。
「……す、すごい」
教頭先生の呟きが聞こえた。
先生の呼吸から、先ほどまでの恐怖と罪悪感が消え去っている。代わりに、激しいビートに圧倒され、どこか懐かしさすら感じているような、温かい体温を感じた。
――曲が終わる。
強烈な残響が体育館に響き渡り、やがて静寂が訪れた。グランドピアノからの逆再生は、もう聞こえない。
空間を歪めていた呪いは、僕たちの『前を向く音楽』によって、完全に浄化されたのだ。
「……止まった。本当に、止まった」
教頭先生が、へたり込むような音を立てた。
シズヤが僕の背中を、ポンポンと得意げに叩く。
「教頭先生」
僕はパソコンを閉じながら、教頭先生の方へ顔を向けた。
「これにて怪異事件、解決です。……これで、安心して旧体育館を取り壊せますね」
「あ、ああ……。ありがとう。君たちのおかげで、私の中の迷いも吹っ切れた気がするよ。まさか、校歌があんなにノリの良い曲になるとはな……」
教頭先生の声には、確かな安堵と、少しの笑いが混じっていた。
「料金は不要です。けれど、その代わり……僕たちが音楽室を遅くまで使ってても、大目に見てくださいね」
僕が冗談めかして言うと、教頭先生は「ちゃっかりしてるな」と、いつもの説教くさい、けれど優しいトーンで返してくれた。
帰り道。
夜の校庭を歩きながら、シズヤが僕の肩に腕を回してきた。
その体温と、力強い歩幅が、僕の足元をしっかりと照らしてくれている。
「なあ、ヒカル」
(なに?)
「次の依頼が来たら、今度はハードロックでぶっ飛ばそうぜ」
(ダメだよ。怪異の性質に合わせて曲を作らなきゃ)
僕たちは笑い合った。
光と音の不完全なバディが挑む、学校の怪異解決ミッション。どうやら僕たちの日常は、これからもっと騒がしくなりそうだ。
僕たちは、教頭先生の先導で、冷え切った渡り廊下を歩いていた。
月明かりだけが頼りの校舎は、昼間とは全く別の表情を持っているらしい。僕には見えないが、シズヤの足音の響き方で、彼が周囲を鋭く警戒しているのが分かった。
「……本当に、大丈夫なんだろうな」
教頭先生の懐中電灯を持った手が、カチャカチャと震えている。歩くたびに、先生の浅い呼吸と、心臓の不規則な鼓動が僕の耳に届いた。
「大丈夫ですよ、教頭先生。シズヤが特大のBluetoothスピーカーを持ってきてますから」
発言しながら、シズヤに向けて手話を描いた。隣でシズヤがスピーカーの重みを誇示するように、ドンと肩を鳴らしてくれる。
やがて、埃っぽい匂いが鼻を突いた。取り壊しが決定している旧体育館だ。分厚い鉄扉の前に到着したみたいだ。

教頭先生の呼吸がいよいよ限界に近い音を立て始めた。
「……教頭先生。旧体育館の取り壊し責任者は、あなたですね?」
シズヤが不意に尋ねると、教頭先生はビクッと肩を揺らした。
「なぜ、それを……」
先生の言葉をシズヤに伝わるように手話で同時翻訳する。
「両肩のこわばりです。この場所に近づくにつれて、恐怖だけじゃない、何かを悔やむような罪悪感を背中から感じたから」
さすが、シズヤだ。視覚をフルに利用して、背中から感じ取る。
教頭先生は深く息を吐き出した。
「……ああ。老朽化で仕方がないことだが、卒業生や地元からは反対の声が多かった。私もこの学校のOBでね……本当は、壊したくなんかなかった。だが、立場上、私が強引に話を進めるしかなかった」
なるほど。
怪異というものは、人の心の澱みに寄り付く。教頭先生の『母校を壊す』という罪悪感が、この旧体育館に残る思い出の残滓と結びつき、『逆再生の校歌』という形で彼を責め立てていたのだ。
「時間だぞ、ヒカル」
シズヤの大きな手が、僕の肩を二回叩いた。
午前二時。
鉄扉の向こう側から、ポロン……と、冷たいピアノの音が響いた。
タ、ター、タ、タターン……。
教頭先生が短い悲鳴を上げる。
それは確かに校歌のメロディだった。しかし、すべての音が逆に向かって進行していく、ひどく不気味で、粘りつくような不協和音だ。
僕の過敏な耳は、そのピアノの音の裏側に張り付いている『無数の声』を拾い上げた。
(壊さないで。私たちの思い出を、消さないで……)
それは、教頭先生自身が押し殺してきた、彼自身の本音でもあった。
過去への執着が、呪いとなって空間を歪めている。
「開けてください、教頭先生」
僕が言うと、彼は震える手で鍵を開け、鉄扉を押し開いた。
冷たい風が吹き抜ける。シズヤが素早く僕の腕を引き、体育館の中央へと導いた。
グランドピアノの蓋が開き、鍵盤が目に見えない指によって叩かれているのが、音の反響で分かった。
「ヒカル、やれ。俺がスピーカーをセッティングした」
シズヤの頼もしい声。
僕はノートパソコンを開き、エンターキーに指を置いた。
「教頭先生。思い出は、後ろを振り返って縋るものじゃないと思います。未来に向かって、爆音で鳴らして持っていきましょう」
ターンッ!
僕はキーボードを強く叩いた。
次の瞬間、旧体育館の空気を震わせるほどの、強烈な重低音が爆発した。
ドン、ドン、ドン、ドン!
腹の底に響く、四つ打ちのキック音。それに乗せて、僕とシズヤで徹夜して打ち込んだ、『ボーカロイド』の透き通るような高音の歌声が響き渡る。
それは、紛れもない僕たちの校歌だった。
しかし、テンポは倍速。重厚なエレクトロダンスミュージックにアレンジされ、過去の呪縛などすべて吹き飛ばすような、圧倒的な熱量を持った未来のサウンド。
機械の歌声が、逆再生の気味の悪いピアノを完全に呑み込んだ。
体育館の床が震え、埃が舞い上がる。
僕の耳にこびりついていた「壊さないで」という未練がましい声は、四つ打ちの強烈なビートによって跡形もなく粉砕されていく。
(どうかな。これなら、取り壊されても笑って前に進めるでしょ?)
僕は、見えないグランドピアノに向かって手話で語りかけた。
隣でシズヤが、音楽に合わせて床を踏み鳴らす振動が伝わってくる。シズヤは耳が聞こえなくても、自分が作ったこの完璧なビートを、足の裏と空気の震えで完全に楽しんでいた。
「……す、すごい」
教頭先生の呟きが聞こえた。
先生の呼吸から、先ほどまでの恐怖と罪悪感が消え去っている。代わりに、激しいビートに圧倒され、どこか懐かしさすら感じているような、温かい体温を感じた。
――曲が終わる。
強烈な残響が体育館に響き渡り、やがて静寂が訪れた。グランドピアノからの逆再生は、もう聞こえない。
空間を歪めていた呪いは、僕たちの『前を向く音楽』によって、完全に浄化されたのだ。
「……止まった。本当に、止まった」
教頭先生が、へたり込むような音を立てた。
シズヤが僕の背中を、ポンポンと得意げに叩く。
「教頭先生」
僕はパソコンを閉じながら、教頭先生の方へ顔を向けた。
「これにて怪異事件、解決です。……これで、安心して旧体育館を取り壊せますね」
「あ、ああ……。ありがとう。君たちのおかげで、私の中の迷いも吹っ切れた気がするよ。まさか、校歌があんなにノリの良い曲になるとはな……」
教頭先生の声には、確かな安堵と、少しの笑いが混じっていた。
「料金は不要です。けれど、その代わり……僕たちが音楽室を遅くまで使ってても、大目に見てくださいね」
僕が冗談めかして言うと、教頭先生は「ちゃっかりしてるな」と、いつもの説教くさい、けれど優しいトーンで返してくれた。
帰り道。
夜の校庭を歩きながら、シズヤが僕の肩に腕を回してきた。
その体温と、力強い歩幅が、僕の足元をしっかりと照らしてくれている。
「なあ、ヒカル」
(なに?)
「次の依頼が来たら、今度はハードロックでぶっ飛ばそうぜ」
(ダメだよ。怪異の性質に合わせて曲を作らなきゃ)
僕たちは笑い合った。
光と音の不完全なバディが挑む、学校の怪異解決ミッション。どうやら僕たちの日常は、これからもっと騒がしくなりそうだ。



