月曜日の朝。
学校の廊下は、いつものように平和な音に満ち溢れていた。
上履きが床を擦る音、隣のクラスの笑い声、チョークが黒板を叩く振動。つい昨日まで、生きるか死ぬかの暗闇を這いずり回っていたのが嘘のように、世界は平然と回っている。
「おい、ちょっと右下が曲がってる。ヒカル、もう少し上」
(貼るのは目が見えるシズヤの仕事でしょ)
「お前のリハビリのためだ、ほら、早く」
(リハビリしたって、目は見えるようにならないってば)
僕は笑いながら、画鋲を強く押し込んだ。
「……よし、こんなもんか」
僕たちは今、生徒が行き交う一階の渡り廊下の掲示板に、一枚のポスターを貼り出していた。
『怪異事件の解決、引き受けます。身の回りで起きる不可解な現象にお悩みの方は、放課後、音楽室まで――音楽ユニット・光と音』

僕の提案に、シズヤは「正気か?」と呆れながらも、油性ペンでデカデカと文字を書いてくれた。
あの山の因習を打ち破った夜、僕たちは決めたのだ。
音楽が呪いを吸い寄せる磁石なら、僕たちがその呪いを『新しい音楽』で上書きし続ければいい。耳の聞こえないシズヤと、目の見えない僕。二人なら、どんな怪異の音だって分解し、解体できる。
僕らの武器は、白杖でも拳でもない。パソコンとキーボードとシンセサイザー。それに、ボーカロイドだ。
*
放課後の音楽室。
僕は久しぶりにノートパソコンを開き、DTM(デスクトップ・ミュージック)のソフトを立ち上げていた。ヘッドホンからは、規則正しいクリック音が心地よく流れている。
隣ではシズヤが、パイプ椅子にふんぞり返りながらぼやいている。
「……誰も来ねぇな」
シズヤのつまらなそうな声。
(初日から来るわけないよ。ただのイタズラだと思われてるかもね)
僕が苦笑しながらキーボードを叩き始めた、その時だった。
ガラッ!!
勢いよく音楽室の引き戸が開く音がした。
革靴が床を力強く踏みしめる、重くて威圧的な足音。この独特の歩幅と、歩くたびにジャラジャラと鳴るキーケースの音は間違いない。
「君たち……! 廊下のあのふざけた張り紙はなんだ!」
生活指導も担当している、あの口うるさい教頭先生だ。
僕は思わず背筋を伸ばした。シズヤも慌てて座り直すの音がした。
「あ、いや、これはその……」
シズヤが言い訳を探そうとした瞬間、僕はシズヤの膝に触れた。
(……待って。教頭先生の声、何かに怯えてない?)
僕には教頭の顔は見えない。けれど、先生の声に耳を澄ませることはできる。
「あの張り紙……怪異と書いてあったな。君たち、本当に……対処できるのか?」
息が、浅い。
革靴のつま先が、貧乏ゆすりのように小刻みに震え、床と微かに摩擦を起こしている。何より、さっきから生唾を飲み込む音が異常に多い。
教頭先生は怒っているんじゃない。極限まで『怯えている』のだ。
僕が探るように沈黙していると、背中にシズヤの指先が文字をなぞった。
『ガチ・ビビリ』
思わず吹き出しそうになるのを堪え、僕は努めて冷静な声を出した。
「……ええ、お引き受けしますよ」
教頭先生は重いパイプ椅子を引きずり、僕らの向かいにドスンと腰を下ろした。
「……夜の巡回中だ。深夜二時、誰もいないはずの旧体育館から、毎晩聞こえてくるんだよ」
教頭の低い声が、音楽室の空気を一段冷たくした。
「ピアノの音だ。それも、本校の校歌……その、メロディがすべて『逆再生』で弾かれている。気味が悪くなって扉を開けると、そこには誰もいない。ただ、グランドピアノの蓋だけが開いているんだ」
僕とシズヤは、顔を見合わせた。
見えなくても、シズヤが口角をニヤリと上げたのが分かった。
「教頭先生。それ、録音とかはしてみましたか?」
「スマホで録ろうとしたが……録画ボタンを押した瞬間、データが砂嵐に化けるんだ。妻にはストレスだと言われるし、病院に行っても異常はない。だが、あの逆再生の校歌を聞くたびに、首を絞められるような息苦しさに襲われるんだ……!」
教頭の声は、最後には悲鳴に近い震えを帯びていた。
「わかりました。その怪異、僕たちが解決します」
僕はノートパソコンの画面に向き直った。
(シズヤ。逆再生の校歌に対抗するなら、どんなビートが良いと思う?)
「決まってんだろ。四つ打ちの爆音エレクトロで、校歌のテンポごと強制的にアッパーに書き換えてやるんだよ。幽霊も踊り出すくらいのな」
シズヤが僕の肩をバンッと叩く。
僕の指先が、久しぶりにボーカロイドのエディタの上を滑り始めた。
「教頭先生、明日の夜の巡回、俺たちも同行します」
得体の知れない怪異の恐怖に怯える大人を前に、高校生の僕たちは、たまらなく不敵な笑みを浮かべていた。
世界で一番頼りなくて、世界で一番強力な『音楽室の探偵』の、最初のセッションが始まろうとしていた。
学校の廊下は、いつものように平和な音に満ち溢れていた。
上履きが床を擦る音、隣のクラスの笑い声、チョークが黒板を叩く振動。つい昨日まで、生きるか死ぬかの暗闇を這いずり回っていたのが嘘のように、世界は平然と回っている。
「おい、ちょっと右下が曲がってる。ヒカル、もう少し上」
(貼るのは目が見えるシズヤの仕事でしょ)
「お前のリハビリのためだ、ほら、早く」
(リハビリしたって、目は見えるようにならないってば)
僕は笑いながら、画鋲を強く押し込んだ。
「……よし、こんなもんか」
僕たちは今、生徒が行き交う一階の渡り廊下の掲示板に、一枚のポスターを貼り出していた。
『怪異事件の解決、引き受けます。身の回りで起きる不可解な現象にお悩みの方は、放課後、音楽室まで――音楽ユニット・光と音』

僕の提案に、シズヤは「正気か?」と呆れながらも、油性ペンでデカデカと文字を書いてくれた。
あの山の因習を打ち破った夜、僕たちは決めたのだ。
音楽が呪いを吸い寄せる磁石なら、僕たちがその呪いを『新しい音楽』で上書きし続ければいい。耳の聞こえないシズヤと、目の見えない僕。二人なら、どんな怪異の音だって分解し、解体できる。
僕らの武器は、白杖でも拳でもない。パソコンとキーボードとシンセサイザー。それに、ボーカロイドだ。
*
放課後の音楽室。
僕は久しぶりにノートパソコンを開き、DTM(デスクトップ・ミュージック)のソフトを立ち上げていた。ヘッドホンからは、規則正しいクリック音が心地よく流れている。
隣ではシズヤが、パイプ椅子にふんぞり返りながらぼやいている。
「……誰も来ねぇな」
シズヤのつまらなそうな声。
(初日から来るわけないよ。ただのイタズラだと思われてるかもね)
僕が苦笑しながらキーボードを叩き始めた、その時だった。
ガラッ!!
勢いよく音楽室の引き戸が開く音がした。
革靴が床を力強く踏みしめる、重くて威圧的な足音。この独特の歩幅と、歩くたびにジャラジャラと鳴るキーケースの音は間違いない。
「君たち……! 廊下のあのふざけた張り紙はなんだ!」
生活指導も担当している、あの口うるさい教頭先生だ。
僕は思わず背筋を伸ばした。シズヤも慌てて座り直すの音がした。
「あ、いや、これはその……」
シズヤが言い訳を探そうとした瞬間、僕はシズヤの膝に触れた。
(……待って。教頭先生の声、何かに怯えてない?)
僕には教頭の顔は見えない。けれど、先生の声に耳を澄ませることはできる。
「あの張り紙……怪異と書いてあったな。君たち、本当に……対処できるのか?」
息が、浅い。
革靴のつま先が、貧乏ゆすりのように小刻みに震え、床と微かに摩擦を起こしている。何より、さっきから生唾を飲み込む音が異常に多い。
教頭先生は怒っているんじゃない。極限まで『怯えている』のだ。
僕が探るように沈黙していると、背中にシズヤの指先が文字をなぞった。
『ガチ・ビビリ』
思わず吹き出しそうになるのを堪え、僕は努めて冷静な声を出した。
「……ええ、お引き受けしますよ」
教頭先生は重いパイプ椅子を引きずり、僕らの向かいにドスンと腰を下ろした。
「……夜の巡回中だ。深夜二時、誰もいないはずの旧体育館から、毎晩聞こえてくるんだよ」
教頭の低い声が、音楽室の空気を一段冷たくした。
「ピアノの音だ。それも、本校の校歌……その、メロディがすべて『逆再生』で弾かれている。気味が悪くなって扉を開けると、そこには誰もいない。ただ、グランドピアノの蓋だけが開いているんだ」
僕とシズヤは、顔を見合わせた。
見えなくても、シズヤが口角をニヤリと上げたのが分かった。
「教頭先生。それ、録音とかはしてみましたか?」
「スマホで録ろうとしたが……録画ボタンを押した瞬間、データが砂嵐に化けるんだ。妻にはストレスだと言われるし、病院に行っても異常はない。だが、あの逆再生の校歌を聞くたびに、首を絞められるような息苦しさに襲われるんだ……!」
教頭の声は、最後には悲鳴に近い震えを帯びていた。
「わかりました。その怪異、僕たちが解決します」
僕はノートパソコンの画面に向き直った。
(シズヤ。逆再生の校歌に対抗するなら、どんなビートが良いと思う?)
「決まってんだろ。四つ打ちの爆音エレクトロで、校歌のテンポごと強制的にアッパーに書き換えてやるんだよ。幽霊も踊り出すくらいのな」
シズヤが僕の肩をバンッと叩く。
僕の指先が、久しぶりにボーカロイドのエディタの上を滑り始めた。
「教頭先生、明日の夜の巡回、俺たちも同行します」
得体の知れない怪異の恐怖に怯える大人を前に、高校生の僕たちは、たまらなく不敵な笑みを浮かべていた。
世界で一番頼りなくて、世界で一番強力な『音楽室の探偵』の、最初のセッションが始まろうとしていた。



