母さんが電話のダイヤルを回す、微かな電子音が部屋に響いた。壁時計の針が、午前三時を回ったことをメロディで教えてくれた。
僕は、膝の上に抱えたシズヤのパーカーをぎゅっと握りしめていた。
シズヤの匂い。洗いたての柔軟剤の香りの奥に隠れた、微かな汗と、夜の音楽室の空気。これを手放せば、シズヤが本当に僕の世界から消えてしまうような気がして、指が痛くなるほど布地を掴んだ。
「……夜分遅くに申し訳ありません。ヒカルの母です。息子たちが山奥でおかしな体験を――」
母さんの声が、ひどく強張っている。
電話の向こうの相手は、長い沈黙のあと、低く、地を這うような重低音で何かを答えた。その声の振動は、受話器越しでも僕の鼓膜を微かに震わせるほど、圧倒的な密度を持っていた。
「……月曜の朝がタイムリミットです。えぇ、わかりました。ヒカル、ほら話して」
僕は受話器を受け取り、全てを話した。
「そうか、そりゃあ君。大変だったな。だが、必ずしも友は救える」
「……ありがとうございます」
涙が溢れそうになった。母に受話器を戻す。電話を切った母さんが、僕の隣に座った。僕の手を握る母の手は、少しだけ震えていた。
「ヒカル。夜明けに、ある人がここへ来るわ。名前は、黒須さん。かつて、あなたたちと同じように怪異と向き合っていた人。同じような経験をしてるって」
「そんな人がいるんだね! ボクだけじゃなかった……」
「月曜の朝になってシズヤ君が学校に行かなければ、ご両親が確実に警察を動かすわ。警察があの山に入れば、呪いは無関係な大人たちを巻き込んで大惨事になる。だから、すぐにでも決着をつけるしかないって」
僕は、無言で頷いた。
警察には頼れない。自分で蒔いた種は自分でなんとかしなきゃ。
*
空が白み始めた頃。
家の前に、重々しいディーゼルエンジンを響かせて、一台のトラックが停まった。
「ヒカル、黒須さんよ」
玄関を開けると、ひどく煙草臭い空気が入り込んできた。
「……君が、ヒカルくんか」
黒須さんの声は、チェロの一番低い弦を、さらに無理やり弾いたような重低音だった。足音には、片足を引きずるような不規則なリズムが混じっている。
「俺の目には、君がひどく不完全に見える。シズヤ君だっけ? その山に、自分の目を置いてきたんだな」
容赦のない言葉。けれど、そこに憐れみはなかった。
「はい。僕の相棒は、僕を守るために自ら檻に入りました。連れ戻したいんです」
黒須さんは、鼻で短く笑うような音を立てた。
「連れ戻す、か。威勢が良いが、あそこの『生きた墓石』たちがどれほどの呪いを濾過しているか、その耳で聴いたはずだ。その婆さんが言った通り、お前たちの音楽は、奴らの嘆きを呼び覚ます極上の磁石になっちまった」
黒須さんの太い指が、僕の肩を軽く叩いた。
その手は、シズヤの手よりずっと分厚く、至る所に固いタコができているのが分かった。長年、弦楽器か何かを弾き続けてきた人間の手だ。
「だがな、婆さんは一つだけ嘘をついている。いや、音の性質を理解していないと言った方が正しいか」
「音の性質……ですか?」
「音楽は磁石だ。呪いを吸い寄せる。だがな、極限まで増幅された逆位相の周波数は、磁場そのものを破壊する力を持ってるんだよ。ちょっと、一緒に来いよ」
母に連れられて、トラックのそばまで歩いた。荷台を叩く音がする。
「俺のトラックには、野外フェスで使うような化け物クラスのアンプとスピーカーが積んである。お前たちの作った『残響の海』だっけ? 曲のデータを解析させてもらった。見事な音楽だ。あの音の波形を反転させ、俺の機材で山ごと震わせるほどの爆音をぶつける。そうすれば、老婆の檻を構成している呪いの共鳴を、物理的に相殺できる」
黒須さんのトラックを手触りで想像した。

「そんなことが、本当に?」
「理論上はな。だが、ただ録音した音を流すだけじゃ駄目だ。呪いの中心で、生きた人間が核となって音の波を制御しなきゃならねぇ。つまり、お前があの山の麓で、直接ピアノを弾くんだよ」
黒須さんの言葉に、僕の心臓が激しく跳ねた。
「俺は、かつてそれに失敗した。相棒を婆さんの檻に残したまま、逃げ帰っちまった腰抜けだ。だから、お前たちの音楽に賭けてみたい。やれるか、坊主」
「やります」
僕は迷わず、答えた。
「僕が弾きます。シズヤは耳が聞こえない。でも、僕の弾くピアノのなら、シズヤの身体に直接届くはず……シズヤに、僕が迎えに来たってことを、音で知らせたいんです」
膝の上のパーカーを、僕は自分の胸に強く押し当てた。
「……いい覚悟だ。耳の聞こえねぇ相棒と、目のみえねぇピアニスト。最高にイカれたバディじゃねぇか」
黒須さんの声に、初めて微かな熱が混じった。
「今日の夕暮れに出発する。それまでに、お前のピアノと、そのパーカー……相棒の匂いが染み付いた依代を準備しておけ。夜の山は冷えるぞ」
「私も行きます」
母さんが、きっぱりと口を挟んだ。
「親として、子供たちをあんな場所に置いておけません。機材の運搬でも何でも手伝います」
黒須さんは少し黙った後、「好きにしな。足手まといにはならねぇだろう」とだけ呟いた。
*
僕は、自分の部屋へ戻り、愛用の電子ピアノをケースにしまい始めた。
鍵盤に触れるたび、昨日の夜、暗闇の山道で僕を導いてくれたシズヤの『トン、トトン』という不規則なリズムが蘇る。
一人では、何もできないと思っていた。
他人の憐れみに囲まれ、銀色の海で溺れていた僕を、シズヤが強引に引っ張り上げてくれた。
(待ってろよ、シズヤ。今度は、僕の番だ)
僕は、シズヤのパーカーをしっかりと鞄に詰めた。
月曜の朝が来る前に。
大人たちの理屈や、警察の正義が介入して、すべてが手遅れになる前に。
僕たちの音楽で、あの傲慢な因習の檻をぶっ壊してやる。
窓の外、薄明るくなってきた朝の空気が、開いた隙間から流れ込んでくる。
鳥の囀りが、遠くで聞こえ始めた。それは、昨日の山奥の死の静寂とは違う、確かな命の音だった。
僕は深く息を吸い込み、決戦の夜に向けて、静かに目を閉じた。
僕は、膝の上に抱えたシズヤのパーカーをぎゅっと握りしめていた。
シズヤの匂い。洗いたての柔軟剤の香りの奥に隠れた、微かな汗と、夜の音楽室の空気。これを手放せば、シズヤが本当に僕の世界から消えてしまうような気がして、指が痛くなるほど布地を掴んだ。
「……夜分遅くに申し訳ありません。ヒカルの母です。息子たちが山奥でおかしな体験を――」
母さんの声が、ひどく強張っている。
電話の向こうの相手は、長い沈黙のあと、低く、地を這うような重低音で何かを答えた。その声の振動は、受話器越しでも僕の鼓膜を微かに震わせるほど、圧倒的な密度を持っていた。
「……月曜の朝がタイムリミットです。えぇ、わかりました。ヒカル、ほら話して」
僕は受話器を受け取り、全てを話した。
「そうか、そりゃあ君。大変だったな。だが、必ずしも友は救える」
「……ありがとうございます」
涙が溢れそうになった。母に受話器を戻す。電話を切った母さんが、僕の隣に座った。僕の手を握る母の手は、少しだけ震えていた。
「ヒカル。夜明けに、ある人がここへ来るわ。名前は、黒須さん。かつて、あなたたちと同じように怪異と向き合っていた人。同じような経験をしてるって」
「そんな人がいるんだね! ボクだけじゃなかった……」
「月曜の朝になってシズヤ君が学校に行かなければ、ご両親が確実に警察を動かすわ。警察があの山に入れば、呪いは無関係な大人たちを巻き込んで大惨事になる。だから、すぐにでも決着をつけるしかないって」
僕は、無言で頷いた。
警察には頼れない。自分で蒔いた種は自分でなんとかしなきゃ。
*
空が白み始めた頃。
家の前に、重々しいディーゼルエンジンを響かせて、一台のトラックが停まった。
「ヒカル、黒須さんよ」
玄関を開けると、ひどく煙草臭い空気が入り込んできた。
「……君が、ヒカルくんか」
黒須さんの声は、チェロの一番低い弦を、さらに無理やり弾いたような重低音だった。足音には、片足を引きずるような不規則なリズムが混じっている。
「俺の目には、君がひどく不完全に見える。シズヤ君だっけ? その山に、自分の目を置いてきたんだな」
容赦のない言葉。けれど、そこに憐れみはなかった。
「はい。僕の相棒は、僕を守るために自ら檻に入りました。連れ戻したいんです」
黒須さんは、鼻で短く笑うような音を立てた。
「連れ戻す、か。威勢が良いが、あそこの『生きた墓石』たちがどれほどの呪いを濾過しているか、その耳で聴いたはずだ。その婆さんが言った通り、お前たちの音楽は、奴らの嘆きを呼び覚ます極上の磁石になっちまった」
黒須さんの太い指が、僕の肩を軽く叩いた。
その手は、シズヤの手よりずっと分厚く、至る所に固いタコができているのが分かった。長年、弦楽器か何かを弾き続けてきた人間の手だ。
「だがな、婆さんは一つだけ嘘をついている。いや、音の性質を理解していないと言った方が正しいか」
「音の性質……ですか?」
「音楽は磁石だ。呪いを吸い寄せる。だがな、極限まで増幅された逆位相の周波数は、磁場そのものを破壊する力を持ってるんだよ。ちょっと、一緒に来いよ」
母に連れられて、トラックのそばまで歩いた。荷台を叩く音がする。
「俺のトラックには、野外フェスで使うような化け物クラスのアンプとスピーカーが積んである。お前たちの作った『残響の海』だっけ? 曲のデータを解析させてもらった。見事な音楽だ。あの音の波形を反転させ、俺の機材で山ごと震わせるほどの爆音をぶつける。そうすれば、老婆の檻を構成している呪いの共鳴を、物理的に相殺できる」
黒須さんのトラックを手触りで想像した。

「そんなことが、本当に?」
「理論上はな。だが、ただ録音した音を流すだけじゃ駄目だ。呪いの中心で、生きた人間が核となって音の波を制御しなきゃならねぇ。つまり、お前があの山の麓で、直接ピアノを弾くんだよ」
黒須さんの言葉に、僕の心臓が激しく跳ねた。
「俺は、かつてそれに失敗した。相棒を婆さんの檻に残したまま、逃げ帰っちまった腰抜けだ。だから、お前たちの音楽に賭けてみたい。やれるか、坊主」
「やります」
僕は迷わず、答えた。
「僕が弾きます。シズヤは耳が聞こえない。でも、僕の弾くピアノのなら、シズヤの身体に直接届くはず……シズヤに、僕が迎えに来たってことを、音で知らせたいんです」
膝の上のパーカーを、僕は自分の胸に強く押し当てた。
「……いい覚悟だ。耳の聞こえねぇ相棒と、目のみえねぇピアニスト。最高にイカれたバディじゃねぇか」
黒須さんの声に、初めて微かな熱が混じった。
「今日の夕暮れに出発する。それまでに、お前のピアノと、そのパーカー……相棒の匂いが染み付いた依代を準備しておけ。夜の山は冷えるぞ」
「私も行きます」
母さんが、きっぱりと口を挟んだ。
「親として、子供たちをあんな場所に置いておけません。機材の運搬でも何でも手伝います」
黒須さんは少し黙った後、「好きにしな。足手まといにはならねぇだろう」とだけ呟いた。
*
僕は、自分の部屋へ戻り、愛用の電子ピアノをケースにしまい始めた。
鍵盤に触れるたび、昨日の夜、暗闇の山道で僕を導いてくれたシズヤの『トン、トトン』という不規則なリズムが蘇る。
一人では、何もできないと思っていた。
他人の憐れみに囲まれ、銀色の海で溺れていた僕を、シズヤが強引に引っ張り上げてくれた。
(待ってろよ、シズヤ。今度は、僕の番だ)
僕は、シズヤのパーカーをしっかりと鞄に詰めた。
月曜の朝が来る前に。
大人たちの理屈や、警察の正義が介入して、すべてが手遅れになる前に。
僕たちの音楽で、あの傲慢な因習の檻をぶっ壊してやる。
窓の外、薄明るくなってきた朝の空気が、開いた隙間から流れ込んでくる。
鳥の囀りが、遠くで聞こえ始めた。それは、昨日の山奥の死の静寂とは違う、確かな命の音だった。
僕は深く息を吸い込み、決戦の夜に向けて、静かに目を閉じた。



