夕暮れ時の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
けれど、僕にとってここは決して無音ではない。
西日に熱せられた廊下の古いワックスの甘い香りと、北側の階段から這い上がってくる湿ったコンクリートの冷たい匂いが、僕に建物の輪郭を教えてくれる。
点字ブロックのない廊下を、白杖の先がリズムよく叩く。
カツン、カツン。
その反響音の硬さの変化で、壁の凹凸や扉の位置が手に取るように分かった。
(あの人、どこにいる?)
僕が片手で手話を描くと、隣を歩くシズヤが僕の耳元に顔を寄せた。
「……廊下の突き当たり。男が這いつくばって移動してる。墨を引きずりながら、今、理科準備室を通り過ぎた。あっ、二年の教室に入ったみたいだ」
シズヤの掠れた声が、右耳の奥を震わせた。
僕らは、音楽室で出会ったあの『下半身のない男』を追っていた。彼が呟く「返せ」という呪詛の声が、僕の耳には細い糸のように、行き先を導いてくれた。
「二年B組……か」
シズヤが呟き、重い扉をゆっくりと引いた。
――瞬間、僕の耳に届く空気の密度が変わった。
ヒソヒソ。クスクス。
誰もいないはずの教室から、無数の嘲笑が層をなして聞こえてくる。
これまでにも、自分の耳でいろんな人の過去を聴いてきた。けれど、これほどまでに熱を帯びた強い感情は、久しぶりだ。
生きた人間の発する言葉との違いは、温度。
目が見えない僕だからこそ、この『冷え切った悪意』に敏感になってしまう。
「ヒカル、ここ、なんか気持ち悪いな……」
シズヤが僕の肩を掴む力が強まった。
(無数の何かが、いるね)
「聞こえるのか? 教室の中はすでに真っ黒だ。机も椅子も、男が噴き出した墨に飲み込まれてる。あいつ、後ろのほうの席にしがみ付いてるよ」
僕は杖を頼りに、シズヤに導かれながら、その席に近づく。
耳を澄ませた。
男の啜り泣きに混じって、剥き出しの記憶が流れ込んでくる。
【おい、無視かよ。ピアノがお友達だもんな。ああ、そもそもコイツ、存在しないんだっけ?】
【なら、机に菊でも供えてやらないとな。もしかしたら、花瓶でも音楽を奏でたりして】
【やめてやれよ。将来、有名なピアニストになったらサインもらわねぇと。あっ、色紙が汚れるから無理か。黒鍵を触った手で、そこらに触んなよ】

この教室で、かつて吹き荒れていた無神経な言葉の雨。
そうか。彼は一人、ピアノを頑張ってきた。理由は分からないが、それを面白く思わないクラスメイトが心無い言葉を浴びせたんだ。
(シズヤ、君の嫌いな場所だね)
僕が手話を描くと、シズヤは少しの間を置いてから、僕の耳元で囁いた。
「……ああ。昼間の教室は、俺にとって『字幕のない無声映画』だ。先生が何を言っているのかも、周りが何を見て笑っているのかも分からない。疎外感という名の、透明な壁。あの男も、ここに閉じ込められてたんだと思う」
シズヤの告白に、胸の奥がチリリと痛む。
音が聞こえないシズヤは、教室という閉鎖空間で、常に正解を探し続けている。
光が見えない僕も、誰かが自分を哀れんで見ているのではないかと、常に気配に怯えているから、シズヤの孤独は痛いほど理解できた。
僕らは男の怨念に、自分たちの『生きづらさ』を重ねた。
【時間を……返せ……。もっと自由に生きたかった。みんなと、普通に笑いたかっただけなのに……沙織と付き合っただけで、急に――】
沙織。
男の口から、ようやくヒントが零れた。
もう一度、クラスの雑念に耳を傾ける。
【こいつ、ピアノを使って、光太郎から彼女を奪ったんだぜ。ちょっと弾けるからって、カッコつけやがって】
なるほど。
男に絡みつく墨の正体は『妬み』。
シズヤに聞いた全てを伝えた。
「そりゃ、虐めてる奴らの器が小さい。ヒカル、もう一度、弾いてみてくれないか。今なら、もっと男の後悔が分かるかもしれない」
僕はキーボードの代わりに、男が座っている机の天板に指を置いた。木目の感触。そこに、男が爪で刻んだ悔しさの感触が残っている。
これも平穏を取り戻すためだ。僕らに関わってくる怪異は、理解してやらないと終わらない。
イメージする鎮魂歌を、即興で。優しく口ずさみながら、鍵盤に見立てた机を弾いた。
「あっ、ヒカル、聞いてくれ……!」
シズヤが息を呑んだのが分かった。
(どうしたの?)
「男の足。足首の先だけが墨じゃなくて、薄っすらと血の通った肌が見えた。少しずつ、戻ってきてる」
男の無念を認め、僕らがその痛みを共有したことで、止まっていた時間が動き出したのだ。
(彼は今、何をしてる?)
「カバンの中から手紙を取り出した。真っ黒に汚れてるけど、その手紙を抱きしめて……じっと外を見てる」
夕暮れの教室に、僕の白杖の音とシズヤの静かな呼吸だけが響いた。僕らは、まだこの男の『奪われた時間』の入口に立ったばかりだ。
「行こう、ヒカル。彼の無念が消えるまで、付き合わないと。落ち着いて音楽室にいられないもんな」
シズヤが僕の腕を掴む。
(もちろんだよ。彼がピアニストを目指してたのなら、音楽が好きな僕らとも、もしかしたら話が合うかもね)
僕は目を閉じたまま、シズヤの背中をポンと叩いた。
けれど、僕にとってここは決して無音ではない。
西日に熱せられた廊下の古いワックスの甘い香りと、北側の階段から這い上がってくる湿ったコンクリートの冷たい匂いが、僕に建物の輪郭を教えてくれる。
点字ブロックのない廊下を、白杖の先がリズムよく叩く。
カツン、カツン。
その反響音の硬さの変化で、壁の凹凸や扉の位置が手に取るように分かった。
(あの人、どこにいる?)
僕が片手で手話を描くと、隣を歩くシズヤが僕の耳元に顔を寄せた。
「……廊下の突き当たり。男が這いつくばって移動してる。墨を引きずりながら、今、理科準備室を通り過ぎた。あっ、二年の教室に入ったみたいだ」
シズヤの掠れた声が、右耳の奥を震わせた。
僕らは、音楽室で出会ったあの『下半身のない男』を追っていた。彼が呟く「返せ」という呪詛の声が、僕の耳には細い糸のように、行き先を導いてくれた。
「二年B組……か」
シズヤが呟き、重い扉をゆっくりと引いた。
――瞬間、僕の耳に届く空気の密度が変わった。
ヒソヒソ。クスクス。
誰もいないはずの教室から、無数の嘲笑が層をなして聞こえてくる。
これまでにも、自分の耳でいろんな人の過去を聴いてきた。けれど、これほどまでに熱を帯びた強い感情は、久しぶりだ。
生きた人間の発する言葉との違いは、温度。
目が見えない僕だからこそ、この『冷え切った悪意』に敏感になってしまう。
「ヒカル、ここ、なんか気持ち悪いな……」
シズヤが僕の肩を掴む力が強まった。
(無数の何かが、いるね)
「聞こえるのか? 教室の中はすでに真っ黒だ。机も椅子も、男が噴き出した墨に飲み込まれてる。あいつ、後ろのほうの席にしがみ付いてるよ」
僕は杖を頼りに、シズヤに導かれながら、その席に近づく。
耳を澄ませた。
男の啜り泣きに混じって、剥き出しの記憶が流れ込んでくる。
【おい、無視かよ。ピアノがお友達だもんな。ああ、そもそもコイツ、存在しないんだっけ?】
【なら、机に菊でも供えてやらないとな。もしかしたら、花瓶でも音楽を奏でたりして】
【やめてやれよ。将来、有名なピアニストになったらサインもらわねぇと。あっ、色紙が汚れるから無理か。黒鍵を触った手で、そこらに触んなよ】

この教室で、かつて吹き荒れていた無神経な言葉の雨。
そうか。彼は一人、ピアノを頑張ってきた。理由は分からないが、それを面白く思わないクラスメイトが心無い言葉を浴びせたんだ。
(シズヤ、君の嫌いな場所だね)
僕が手話を描くと、シズヤは少しの間を置いてから、僕の耳元で囁いた。
「……ああ。昼間の教室は、俺にとって『字幕のない無声映画』だ。先生が何を言っているのかも、周りが何を見て笑っているのかも分からない。疎外感という名の、透明な壁。あの男も、ここに閉じ込められてたんだと思う」
シズヤの告白に、胸の奥がチリリと痛む。
音が聞こえないシズヤは、教室という閉鎖空間で、常に正解を探し続けている。
光が見えない僕も、誰かが自分を哀れんで見ているのではないかと、常に気配に怯えているから、シズヤの孤独は痛いほど理解できた。
僕らは男の怨念に、自分たちの『生きづらさ』を重ねた。
【時間を……返せ……。もっと自由に生きたかった。みんなと、普通に笑いたかっただけなのに……沙織と付き合っただけで、急に――】
沙織。
男の口から、ようやくヒントが零れた。
もう一度、クラスの雑念に耳を傾ける。
【こいつ、ピアノを使って、光太郎から彼女を奪ったんだぜ。ちょっと弾けるからって、カッコつけやがって】
なるほど。
男に絡みつく墨の正体は『妬み』。
シズヤに聞いた全てを伝えた。
「そりゃ、虐めてる奴らの器が小さい。ヒカル、もう一度、弾いてみてくれないか。今なら、もっと男の後悔が分かるかもしれない」
僕はキーボードの代わりに、男が座っている机の天板に指を置いた。木目の感触。そこに、男が爪で刻んだ悔しさの感触が残っている。
これも平穏を取り戻すためだ。僕らに関わってくる怪異は、理解してやらないと終わらない。
イメージする鎮魂歌を、即興で。優しく口ずさみながら、鍵盤に見立てた机を弾いた。
「あっ、ヒカル、聞いてくれ……!」
シズヤが息を呑んだのが分かった。
(どうしたの?)
「男の足。足首の先だけが墨じゃなくて、薄っすらと血の通った肌が見えた。少しずつ、戻ってきてる」
男の無念を認め、僕らがその痛みを共有したことで、止まっていた時間が動き出したのだ。
(彼は今、何をしてる?)
「カバンの中から手紙を取り出した。真っ黒に汚れてるけど、その手紙を抱きしめて……じっと外を見てる」
夕暮れの教室に、僕の白杖の音とシズヤの静かな呼吸だけが響いた。僕らは、まだこの男の『奪われた時間』の入口に立ったばかりだ。
「行こう、ヒカル。彼の無念が消えるまで、付き合わないと。落ち着いて音楽室にいられないもんな」
シズヤが僕の腕を掴む。
(もちろんだよ。彼がピアニストを目指してたのなら、音楽が好きな僕らとも、もしかしたら話が合うかもね)
僕は目を閉じたまま、シズヤの背中をポンと叩いた。



