――カチャン。
錠が閉まる冷たい金属音が、僕の心臓の鼓動を止めた。
鉄格子の向こう側、急速に遠ざかるシズヤの気配。あの日、屋上で交わした『俺がお前の目になる』という約束が、この地下監獄の闇に飲み込まれていく。
(シズヤ……待って。一人にしないで……!)
僕は震える指先を伸ばし、冷酷な鉄格子を掻きむしった。爪の間に錆の欠片が混じる。
檻の中から、シズヤが壁を叩く音がした。
――トン、トトン。
それは、シズヤがいつも僕に聴かせてくれる心地良い心音のリズムだ。
励ましではない。行けという、切実な相棒からの命令。
「……さあ、行きな。お前の目は、もうここにはいないんだから」
老婆の嘲笑が背中に突き刺さる。
僕は、這いずるようにして石段を上った。一段ごとに、シズヤの刻むリズムが遠ざかり、代わりに僕の過敏な聴覚を、地下から漏れ出す『数万の死者の嘆き』が侵食し始める。
古民家の縁側に転がり出た瞬間、夕立の上がったばかりの、むせ返るような土の匂いが鼻を突いた。
静かだ。
あまりにも、静かすぎる。
隣でシズヤが足を踏み鳴らす震動も、僕の肩を掴む大きな手の熱も、何一つない。
僕は、白杖さえも檻の前に忘れてきてしまっていた。
視界のない僕にとって、シズヤは『目』であり、白杖は『足』だった。その両方を奪われた僕は、今、夜の帳が下り始めた巨大な山の中に、放り出されたのだ。
「……あぁ」
声にならない悲鳴が漏れる。
一歩、足を踏み出す。濡れた木の根が僕の足を掬い、身体が斜面を転げ落ちた。
痛い。杉の葉が頬を切り、泥が口の中に飛び込んでくる。
どこが上で、どこが下かも分からない。平衡感覚が死んでいく。
(シズヤ、助けて……!)
いつもの癖で、届くはずのない名前を呼んだ。
返ってくるのは、夜の山が発する、無機質な風の音だけ。
――トン、トトン。
頭の中でシズヤのリズムが反響した。檻の中のシズヤが、きっとまだ叩いてくれている。
心の奥底に感じる一定のリズムだけが、パニックでバラバラになりそうな僕の意識を、かろうじて繋ぎ止めた。
「……死んで、たまるか」
僕は泥だらけの手で、湿った地面を這った。
掌で泥の感触を確かめ、耳で沢の音の方向を必死に探った。
沢の音がする方には、道があるはずだ。
何度も木に激突し、額を割り、指先を血で染めながら、僕は醜く山を這い下りた。
街の灯りなんて見えない。
けれど、遠くから微かに、文明の音が聞こえてくる。
車の走行音。深夜の国道を走る、大型トラックの地響き。
それは、シズヤの刻む心音とは正反対の、冷たくて残酷な世界の音だ。
泥まみれの手が、冷たい鉄の支柱に触れた。風に揺れる時刻表が、カタカタと乾いた音を立てている。バス停だ。

僕は、ようやく人間たちの世界の端っこに辿り着いたんだ。
警察に駆け込むべきか?
一瞬、そんな考えがよぎる。けれど、すぐに打ち消した。
(言ったところで、誰も助けられない。老婆の言う通りなら、僕らの音楽が呼び寄せた呪いは、もう動き出しているんだ)
シズヤをあんな地獄に置いたまま、僕だけが警察に保護されて終わる。そんなの魂の敗北だ。
バスが停車する音がした。
「おい、大丈夫か!」
運転手さんの声。
何も言えずに、僕は頷いた。深夜バスの座席の隅で、シズヤに何度も謝りながら街へ戻った。
「これ、使いな」
バスを降りる時に、運転手さんが予備の白状を貸してくれた。親切なバスで良かった。
「ありがとうございます。必ず返します」
深夜。僕は自力で自宅に向かった。
貸してもらった白杖で地面を叩き、震える足で玄関の扉を開ける。
「ただいま……」
「ヒカル!? どうしたのその格好! シズヤ君は!?」
駆け寄ってきた母さんの手に触れた瞬間、張り詰めていた糸が切れた。シズヤのいない恐怖、暗闇の山を這った絶望。僕は母さんの胸で、子供のように声を上げて泣いた。
温かいほうじ茶を淹れてもらい、僕はすべてを話した。名無しさんのこと、あの古民家、そして檻に残ったシズヤのこと。普通なら信じてもらえない話だ。けれど、母さんは僕の手を握り、最後まで静かに聞いてくれた。
「……シズヤ君は、あなたを守ったのね。あの子らしいわ」
母さんの声は震えていたが、そこには決意があった。
僕は自分の部屋に入り、シズヤが置いていったパーカーや、二人で分け合ったイヤホンを手に取った。洗いたての柔軟剤の匂いと、あいつと一緒に音楽を作った、眩しいほどに純粋な日常の香りだ。
(シズヤ。……母さんと一緒に、必ずお前を連れ戻す。一人で死なせたりしない)
母さんは、一冊の古い連絡先を取り出した。
「ヒカル。……お母さんの知り合いに、一人だけこういう不思議な出来事に詳しい人がいるわ。今は隠居しているけれど、その人なら、何とかしてくれるかも」
錠が閉まる冷たい金属音が、僕の心臓の鼓動を止めた。
鉄格子の向こう側、急速に遠ざかるシズヤの気配。あの日、屋上で交わした『俺がお前の目になる』という約束が、この地下監獄の闇に飲み込まれていく。
(シズヤ……待って。一人にしないで……!)
僕は震える指先を伸ばし、冷酷な鉄格子を掻きむしった。爪の間に錆の欠片が混じる。
檻の中から、シズヤが壁を叩く音がした。
――トン、トトン。
それは、シズヤがいつも僕に聴かせてくれる心地良い心音のリズムだ。
励ましではない。行けという、切実な相棒からの命令。
「……さあ、行きな。お前の目は、もうここにはいないんだから」
老婆の嘲笑が背中に突き刺さる。
僕は、這いずるようにして石段を上った。一段ごとに、シズヤの刻むリズムが遠ざかり、代わりに僕の過敏な聴覚を、地下から漏れ出す『数万の死者の嘆き』が侵食し始める。
古民家の縁側に転がり出た瞬間、夕立の上がったばかりの、むせ返るような土の匂いが鼻を突いた。
静かだ。
あまりにも、静かすぎる。
隣でシズヤが足を踏み鳴らす震動も、僕の肩を掴む大きな手の熱も、何一つない。
僕は、白杖さえも檻の前に忘れてきてしまっていた。
視界のない僕にとって、シズヤは『目』であり、白杖は『足』だった。その両方を奪われた僕は、今、夜の帳が下り始めた巨大な山の中に、放り出されたのだ。
「……あぁ」
声にならない悲鳴が漏れる。
一歩、足を踏み出す。濡れた木の根が僕の足を掬い、身体が斜面を転げ落ちた。
痛い。杉の葉が頬を切り、泥が口の中に飛び込んでくる。
どこが上で、どこが下かも分からない。平衡感覚が死んでいく。
(シズヤ、助けて……!)
いつもの癖で、届くはずのない名前を呼んだ。
返ってくるのは、夜の山が発する、無機質な風の音だけ。
――トン、トトン。
頭の中でシズヤのリズムが反響した。檻の中のシズヤが、きっとまだ叩いてくれている。
心の奥底に感じる一定のリズムだけが、パニックでバラバラになりそうな僕の意識を、かろうじて繋ぎ止めた。
「……死んで、たまるか」
僕は泥だらけの手で、湿った地面を這った。
掌で泥の感触を確かめ、耳で沢の音の方向を必死に探った。
沢の音がする方には、道があるはずだ。
何度も木に激突し、額を割り、指先を血で染めながら、僕は醜く山を這い下りた。
街の灯りなんて見えない。
けれど、遠くから微かに、文明の音が聞こえてくる。
車の走行音。深夜の国道を走る、大型トラックの地響き。
それは、シズヤの刻む心音とは正反対の、冷たくて残酷な世界の音だ。
泥まみれの手が、冷たい鉄の支柱に触れた。風に揺れる時刻表が、カタカタと乾いた音を立てている。バス停だ。

僕は、ようやく人間たちの世界の端っこに辿り着いたんだ。
警察に駆け込むべきか?
一瞬、そんな考えがよぎる。けれど、すぐに打ち消した。
(言ったところで、誰も助けられない。老婆の言う通りなら、僕らの音楽が呼び寄せた呪いは、もう動き出しているんだ)
シズヤをあんな地獄に置いたまま、僕だけが警察に保護されて終わる。そんなの魂の敗北だ。
バスが停車する音がした。
「おい、大丈夫か!」
運転手さんの声。
何も言えずに、僕は頷いた。深夜バスの座席の隅で、シズヤに何度も謝りながら街へ戻った。
「これ、使いな」
バスを降りる時に、運転手さんが予備の白状を貸してくれた。親切なバスで良かった。
「ありがとうございます。必ず返します」
深夜。僕は自力で自宅に向かった。
貸してもらった白杖で地面を叩き、震える足で玄関の扉を開ける。
「ただいま……」
「ヒカル!? どうしたのその格好! シズヤ君は!?」
駆け寄ってきた母さんの手に触れた瞬間、張り詰めていた糸が切れた。シズヤのいない恐怖、暗闇の山を這った絶望。僕は母さんの胸で、子供のように声を上げて泣いた。
温かいほうじ茶を淹れてもらい、僕はすべてを話した。名無しさんのこと、あの古民家、そして檻に残ったシズヤのこと。普通なら信じてもらえない話だ。けれど、母さんは僕の手を握り、最後まで静かに聞いてくれた。
「……シズヤ君は、あなたを守ったのね。あの子らしいわ」
母さんの声は震えていたが、そこには決意があった。
僕は自分の部屋に入り、シズヤが置いていったパーカーや、二人で分け合ったイヤホンを手に取った。洗いたての柔軟剤の匂いと、あいつと一緒に音楽を作った、眩しいほどに純粋な日常の香りだ。
(シズヤ。……母さんと一緒に、必ずお前を連れ戻す。一人で死なせたりしない)
母さんは、一冊の古い連絡先を取り出した。
「ヒカル。……お母さんの知り合いに、一人だけこういう不思議な出来事に詳しい人がいるわ。今は隠居しているけれど、その人なら、何とかしてくれるかも」



