光のない僕と、音のない君

 地下監獄の空気は、明らかに異質だった。

 吸い込むたびに、肺の奥が細い針で刺されるような、冷たくて重い静寂。

 壁から滴り落ちる水の音。雫は規則正しく、けれど生命の鼓動をあざ笑うかのような、冷酷なメトロノームとなって僕の過敏な聴覚を侵食していく。

(シズヤ、ここ……何かが、多すぎる。音じゃない、もっと重い……叫びの塊みたいなものが)

 僕は震える手でシズヤの腕を掴んだ。
 シズヤの手は、岩のように硬く強張っている。視覚を持つ彼には、僕には感じ取ることしかできない『絶望の正体』が、より鮮明に見えているはずだ。

「……ヒカル、離れるなよ。いいか、絶対に離れるな」

 シズヤの掠れた声。その震動が僕の掌に伝わってくるが、それさえも地下に渦巻く重圧にかき消されそうだった。

 老婆の持つ松明が、パチパチとはぜる音を立てる。その淡い光を瞼の裏に感じていた。

「まだ決断できないのかい? お前さんたちが救ったつもりでいる怪異……あの『名無し』のような連中は、まだ幸せな方だ。あいつらは、器から溢れ出した残り(かす)に過ぎんのだからね」

「まずは教えてくれ。この人たちは、誰なんだ」

 老婆が移動する音がする。

「この男はね、五十年前、天才と呼ばれた作曲家だった。自分の音楽で世界中の孤独を癒やそうとした、お前さんたちそっくりの大馬鹿野郎さ」

 老婆の声が、湿った回廊に反響する。

「音楽や言葉は、怪異の嘆きを吸い寄せる磁石だ。救うということは、その呪いを自分の中に引き受けるということ。だが、人間の魂には容量がある。溢れ出した呪いは、街を壊し、人を殺す。だからね、誰かがここで『フィルター』にならなきゃならんのさ。自分の魂を犠牲にして、名前を捨てて、生きたまま怨嗟を濾過(ろか)し続ける墓石にね」

 ドクン、ドクン。

 僕の心臓が、警告音を鳴らし始める。この牢獄から漏れ出す音を拾ってしまった。

 それは言葉ですらない。数万人の死者が、同時に爪を立ててガラスを引っ掻くような、凄まじい不協和音だ。

(やめて……。聴きたくない)

 僕は耳を塞ぎ、その場にうずくまった。

 見えないはずの瞼の裏に、赤黒い亀裂が走る。老婆の言う通りだ。僕の耳は、この監獄に満ちる数十年分の呪いを、高感度のアンテナのように受信し始めている。



「ヒカル! おい、しっかりしろ、ヒカル!」

 シズヤが僕を抱きしめる。けれど、その腕も震えている。

 僕の耳に届く絶望と、シズヤの目に見える(おぞ)ましさ。

 僕らの不完全な感覚が、今、最悪の形で共鳴し合っていた。

「……お前さんたちは、実に素晴らしい。一人は見えず、一人は聞こえぬ。互いの欠落を埋め合う絆。その強固な精神の繋がりがあれば、この男たちが数十年かけて溜め込んできた呪いも、あと数百年は封じ込めておけるだろうよ。二人で一つ……『光と音』。お前さんたちは、この地獄を維持するための、最も効率的な器になるのさ」

「ふざけるな……誰が、こんなところに……!」

 シズヤが吼える。けれど、老婆は低い声で笑うだけだ。

「断れば、お前さんたちの奏でた『残響の海』は、世界中で再生され続ける。あの音が呼び寄せた巨大な怨嗟は、今、行き場を失ってお前さんたちのファンへ、愛する者たちへと牙を剥こうとしている。お前さんたちが拒めば、次にこの檻に入るのは、身近な誰かだよ」

 シズヤの鼓動が、掌を通じて僕に届く。
 その脈動は、先ほどまでの怒りから、冷たく、静かな絶望へと変わっていった。

 僕は、必死にシズヤの手を握った。

 行かせたくない。この暗闇に、シズヤを置いていきたくない。
 けれど、僕の耳には今も、世界中から届く『呪いの予兆』が聞こえている。僕たちの作った音楽が、誰かを救うどころか、奈落へ引き摺り込もうとしているなんて。

「……一つ、聞かせてくれ、婆さん」

 シズヤの声が、低く、凪いだ海のように響いた。

「どちらか一人が、この檻に入れば……もう一人は、外へ帰してくれるんだな?」

「ああ。約束しよう。残された者は、一生、相棒の奏でる『鎮魂の音』を外の世界へ伝える語り部として、生かして生かされる」

(シズヤ、ダメだ。行かないで。僕が……選ばれるべきだよ)

 僕が手話で伝えようとする。けれど、シズヤは僕の両手を、力強く、それでいて壊れ物を扱うように優しく包み込んだ。

「ヒカル。お前のその耳は、世界で一番綺麗な音を聴くためにあるんだ。こんな、ヘドロみたいな死人の声で汚しちゃいけねぇ」

(シズヤ!)

「……俺は、耳が聞こえねぇ。幸いなことにな。ここの連中の叫びも、俺に届くときにはただの振動だ。半分はカットできる。だから、俺の方が、ここのフィルターに向いてるんだよ。合理的だろ?」

 嘘だ。シズヤだって震えている。

 彼は目がいい。僕には見えない、檻の中の人間が真っ黒な泥を吐き、白髪になって腐っていく様を、誰よりも鮮明に見つめ続けなければならないのだ。

「ヒカル。俺の分まで、外で音を鳴らせ。お前のピアノには、俺のビートが必要だろ? だから、俺がここでヒカルのために祈り続ける。好きな音楽に、怪異が寄ってこないように。二人で一人前……そう約束したもんな」

 シズヤが、僕の額に自分の額をコツンとぶつけた。
 
 シズヤの手が、僕の手から離れていく。
 指先が空気を切り、熱が奪われていく。
 
「……さあ、器の交代だ。若者よ、入りな」

 老婆が鉄格子の鍵を開ける。
 ギィィィ……。

 その音が、僕の世界が真っ二つに裂ける音のように聞こえた。
 シズヤは振り返らず、暗い檻の中へと足を踏み入れた。
 
「シズヤ! シズヤッ!!」

 僕は叫び、見えない手を伸ばした。
 けれど、僕の指先に触れたのは、冷たく、非情な鉄格子の感触だけだった。

 カチャン。
 錠が閉まる。

 その瞬間、檻の中からシズヤの――絶叫ではない、けれど、魂が削り取られるような、重い溜息が聞こえてきた。

(シズヤ……嘘だろ……。一人にしないで)

 僕は冷たい床に膝をつき、鉄格子を掻きむしった。
 檻の中から、シズヤが鉄格子を叩くリズムが聞こえてくる。
 
 ――トン、トトン。
 
 それは、シズヤの不安を代弁するような不規則な心音のリズム。
 
(生きてるぞ。諦めるな。音楽を続けろ)
 
 言葉にならない彼のメッセージが、冷たい震動となって、僕の指先を、そして心を激しく揺さぶっていた。

 僕は泣いた。

 銀色の偽りの海よりも、ずっと残酷で、ずっと熱い、相棒の自己犠牲という名の絶望の中で。

「……行きな、ヒカル。お前の目は、もうここにはいないんだから」

 老婆の嘲笑が響く中、僕は一人、どうすることもできなかった――。