光のない僕と、音のない君

 老婆から突きつけられた、残酷なまでの二者択一。
 シズヤの掌が、僕の隣で岩のように硬く強張っているのが分かった。

「……差し出すといっても、物理的に肉体を削ぎ落とすわけじゃない。安心しな」

 老婆が囲炉裏の火をかき回すと、爆ぜた火の粉が爆音のように僕の鼓膜を叩いた。

「どちらか一人が、怪異の嘆きを受け止める『完全な器』として、その感覚をあちら側に開放するのさ。そうすれば、お前さんたちの音楽は呪いではなく、奴らを繋ぎ止める鎖になる」

(僕が、やってみるよ。シズヤ)
 
 僕が手話で伝えようとした瞬間、シズヤが僕の肩を掴み、乱暴に自分の背後へと押しやった。守るため、というよりは、相棒に犠牲を強いることへの烈火のような拒絶。
 
「……バカか、お前。ふざけんな」
 
 シズヤの低い声が、怒りで震えている。
 
「俺は……あの雨の屋上で、ヒカルの代わりにアイツを見ちまった。あの世の地獄をヒカルの脳内に流し込むなんて、そんなこと、俺が許すわけねぇだろ」
 
 シズヤは老婆を真っ向から睨みつけ、一歩も引かない構えを見せたと言う。
 
「選択を急ぐことはないよ。まずは、怪異を『封じる』とはどういうことか、その目で、その耳で確かめてからにするがいいさ」

 老婆が立ち上がり、壁際の重い引き戸を引いた。
 ギギィ……と、数十年分もの怨念が軋むような音が響き、奥へと続く暗い回廊が現れた。
 
「お入り。不完全な相棒たちよ。ここは、名前を失った者たちの末路が眠る場所だ」

 導かれるまま、僕らは地下へと続く石段を下りていった。一歩ごとに、空気の密度が重くなっていく。壁からは絶え間なく水が滴り、メトロノームのように正確で不気味なリズムを刻んでいた。
 やがて、シズヤの足が止まった。

「……おい、嘘だろ。監獄……なのか、ここは」

 シズヤの息を呑む音が聞こえた。彼が見ている光景を、僕は彼の掌に伝わる微かな震えから読み取ろうとした。
 
 そこは、広大な地下監獄だった。
 湿った石畳の左右に、錆びついた鉄格子の檻が果てしなく並んでいる。
 
「ヒカル、よく見ておきな」

 老婆が松明を檻の方へ掲げると、そこには信じられない光景が広がっていた。
 
 それぞれの檻の中に、一人の人間が座っている。
 全員が、この老婆と同じ、地面に届くほどの長い白髪を持ち、微動だにせず正座をしていた。



「……こいつらはね、お前さんたちと同じように、音楽や言葉で怪異を救おうとした愚か者たちの成れの果てさ。……生きたまま、この国の怨嗟を喰らい続ける『生きた墓石』だ」

「……鉄格子の隙間から、真っ黒な粘液が滲み出してる」

 シズヤが、僕にだけ聞こえる掠れた声で実況する。

「檻の中の連中、生きてるのか? 魂を抜かれたみたいに、ただ……何かに耐えてるみたいに見える」

(シズヤ、僕……身体が動かない。何かに吸い寄せられているみたいだ!)

「俺もだ。目の前が、真っ黒な泥に塗りつぶされていく……!」

 老婆の声が、地下の静寂を切り裂いた。

「分かったかい。救いなどという傲慢が、どれほどの代償を招くか。お前さんたちの音楽が呼び覚ました巨大な嘆きを、誰かがここで食い止めねばならん。でなければ、呪いはお前さんたちのファンから順に、食い荒らしていくだろうよ」

 シズヤの、僕の腕を掴む手が激しく震えている。
 
「……さあ、選ぶがいい。どちらが器となり、相棒を救うか。……お前たちのどちらかがここへ入れば、もう一方は、一生『光と音』として、日の当たる場所で音楽を続けられる」

 僕らは、深い闇の底で立ち尽くした。
 銀色の海も、名声も、もはやここには届かない。
 
 そこにあるのは、ただ湿った石の匂いと、隣にいる相棒の、熱すぎるほどの体温。

(シズヤ。僕らは、何を間違えたんだろう)
 
 僕が掌に刻んだ問いに、シズヤは答えなかった。ただ、僕の手を砕けんばかりに握りしめ、その横顔には、見たこともない決意の影が差していた――。