過去の残響が、耳の奥で静かに凪いでいく。
あの日、雨の屋上で交わした、熱くて不器用なシズヤとの約束。その記憶の温度を掌に感じながら、僕はゆっくりと意識を浮上させた。
ふと視界……というより、肌に伝わる気配を戻せば、そこはいつもの僕の部屋だった。窓の外は夕立が上がり、濡れたアスファルトが街灯を反射して、鈍い銀色の光を放っている。部屋の中に漂うのは、名無しさんの部屋から連れ帰った、あの冷たく澱んだ空気の残り香。
モニターの中では、僕らが命を削って作り上げた音楽『残響の海、魂の叫び』が、凄まじい速度で再生数を伸ばし続けていた。
「……おい、ヒカル。78万回だ。たった数日で78万回再生って、何が起きてんだよ」
シズヤが、震える声を隠せずに呟いた。
歌詞のない、静寂と不協和音が織りなすアンビエント。それが言葉の壁を越え、国境を越え、孤独という名の病に侵された者たちの『共通言語』になりつつあった。
称賛、困惑、そして熱狂的な崇拝。
濁流のように流れていくコメント欄の中、シズヤが不意に読み上げたその『異物』は、針のように鋭く、僕の聴覚の奥底に突き刺さった。
*
@user_unknown
あんたらの音楽は、危険すぎる。魂の叫びを気取っているが、本物の『嘆き』を何一つ分かっちゃいない。
あんたらだけに見える者の正体を知りたければ、ここに来ることだね。
【住所】東京都八王子市恩方町××-××
*
(シズヤ、どういう意味かな。正体を知っている……?)
静まり返る部屋。エアコンの駆動音さえもが、僕らを監視するノイズのように聞こえる。
示された住所をシズヤが検索する。それは、東京都とは思えないほどの深い山中、文明の道が途絶え、地図の空白へと消えていく寸前の場所を指していた。
「……ヒカル、こいつ。怪異の正体……いや、俺たちが屋上で出会った『あいつら』のことを知ってる口ぶりだ。悪戯にしちゃあ、場所が具体的すぎる。おまけに、このコメントからだけ……名無しと同じような、あの『腐った匂い』がしてくるんだ」
シズヤの低い声が、警告音のように響く。
普通なら無視するべき、質の悪い怪文書だ。けれど、僕らには分かっていた。この呼び声に応えなければ、僕らの音楽が、僕らの人生が、永遠にこの闇に囚われたままになるということを。
(気になるよ、シズヤ。僕らも、いつまでも怪異に怯えて逃げ回ってはいられないから)
*
――数日後。
僕らは中央線に揺られ、そこからさらにバスを乗り継ぎ、最後は杉林が陽光を遮る、湿った獣道の中を歩いていた。
鼻を突くのは、濃密な湿った土の匂い。
鳥の鳴き声さえない不自然な静寂が、耳を圧迫する。
僕の白杖が、泥に塗れた地面の歪みを捉える。ここは、街の音も、文明の恩恵も届かない、時間が澱んだまま腐敗している『境界』だ。
やがて、苔むした崩れかけの石段の先に、その建物は現れた。朽ち果てた古民家。屋根からは黒い蔓が這い出し、まるで家そのものが巨大な死骸のように横たわっている。
「……ここか。おいヒカル、冗談抜きでやばい気配だ。空気が、ピリピリしてやがる」
シズヤが僕の手を強く引き、寄り添うようにして縁側へ近づく。
(大丈夫……僕がシズヤの耳になる。だから、何があっても離れないで)
「お入り。その不完全な目と耳を持った、憐れな若者たちよ」
家の中から響いてきたのは、枯れ木が擦れ合うような、ひどく掠れた老婆の声。
暗い部屋の奥。囲炉裏から上がる細い煙の向こう側。火影の中に座っていたのは、地面に届くほど長く、不気味に白い髪を持った老婆だった。その瞳は、濁ったガラス玉のように僕らを射抜いていると、シズヤが掌に文字を刻んで教えてくれた。

「座んな。お前さんたちが奏でているのは、ただの流行り歌じゃない。それは、この国が古来より闇に葬り、封じ込めてきた……『名前を奪われた者たち』の嘆きの断片だ」
老婆の骨張った指が、乾いた音を立てて床を叩く。
その瞬間、僕の瞼の裏側に、真っ黒な泥のような怨嗟の渦が溢れ出した。冷たい。そして、ひどく寂しい。
(シズヤ、様子がおかしい!! 身体の芯が、凍りつくみたいだ……!)
「俺もだ……。目の前が、真っ黒な粘液で覆われてるみたいに見える。ヒカル、離れるなよ!」
「お前さんたちが、善意で救ったつもりでいる怪異も……もとはといえば、自業自得で死んだ哀れな魂の成れの果て。自ら死を選んだ者は、その瞬間に自分の名を奪われる。それを、あんな音楽なんぞにして世界中にバラまけばどうなるか……想像したこともなかったのかい?」
老婆の冷酷な問いかけが、僕の脳天を直接射抜いた。
「俺たちは……あいつを、孤独から救いたかっただけだ! そんなつもりじゃ……!」
「つもりじゃなかろうが、現実は現実だ! お前さんたちの眩しすぎる音楽は、眠っていた巨大な嘆きの数々を叩き起こし、引き寄せる『呼び声』になっちまったんだ」
老婆の言葉が、部屋の澱んだ空気を切り裂く。
シズヤの声が、かつてないほど上ずっている。
「そうだ。無念を抱えたまま、名もなき死体となった者たちの怨嗟だ。お前さんたちの音楽は、奴らにとってはこの上ない招待状だ。世界中のスピーカーから、呪いが漏れ出しているのさ」
老婆が囲炉裏の炭を激しくかき混ぜると、僕の瞼の裏側の黒い炎が、一瞬、鮮血のように赤く爆ぜた。
(シズヤ、大丈夫!? シズヤの鼓動が、痛いくらいに伝わってくるよ)
僕は震える手で、シズヤの腕を必死に掴んだ。
「怪異を救うどころか、呪いを撒き散らしてたなんて……。俺たちがやってきたことは、人殺しと同じだってことか……?」
シズヤの掌から伝わる振動は、激しい自己嫌悪に塗りつぶされていた。
「嘆きは、さらなる嘆きを呼ぶ。お前さんたちがこのまま音楽を作り続ければ、世界はいずれ音のない、色彩のない絶望で満たされるだろうよ。救いなど、どこにもない」
老婆の声は、無慈悲な宣告となって僕らの未来を塗りつぶしていく。
「……どうすればいい。どうすれば、それを止められる。俺たちは、ただ……」
シズヤが、僕の手を壊れそうなほど強く握り返す。
「止める方法は一つ。お前さんたちの魂の叫びを、今度は奴らを封じ込めるための『墓石』にするのさ。……だが、そのためには代償が必要だ」
老婆はそこで言葉を切ると、囲炉裏の影から、煤けて黒ずんだ古い一丁の横笛を取り出した。
「お前さんたちのどちらかが、その耳か目を、真の意味で奴らに差し出さねばならん。完全に『あちら側』と繋がるための器としてな」
(……どういう意味? 差し出すって、そんな……)
老婆が突きつけた、究極の選択。
シズヤの、激しく、そして絶望に震える鼓動が、僕の掌に、残酷なほど鮮明に伝わっていた――。
あの日、雨の屋上で交わした、熱くて不器用なシズヤとの約束。その記憶の温度を掌に感じながら、僕はゆっくりと意識を浮上させた。
ふと視界……というより、肌に伝わる気配を戻せば、そこはいつもの僕の部屋だった。窓の外は夕立が上がり、濡れたアスファルトが街灯を反射して、鈍い銀色の光を放っている。部屋の中に漂うのは、名無しさんの部屋から連れ帰った、あの冷たく澱んだ空気の残り香。
モニターの中では、僕らが命を削って作り上げた音楽『残響の海、魂の叫び』が、凄まじい速度で再生数を伸ばし続けていた。
「……おい、ヒカル。78万回だ。たった数日で78万回再生って、何が起きてんだよ」
シズヤが、震える声を隠せずに呟いた。
歌詞のない、静寂と不協和音が織りなすアンビエント。それが言葉の壁を越え、国境を越え、孤独という名の病に侵された者たちの『共通言語』になりつつあった。
称賛、困惑、そして熱狂的な崇拝。
濁流のように流れていくコメント欄の中、シズヤが不意に読み上げたその『異物』は、針のように鋭く、僕の聴覚の奥底に突き刺さった。
*
@user_unknown
あんたらの音楽は、危険すぎる。魂の叫びを気取っているが、本物の『嘆き』を何一つ分かっちゃいない。
あんたらだけに見える者の正体を知りたければ、ここに来ることだね。
【住所】東京都八王子市恩方町××-××
*
(シズヤ、どういう意味かな。正体を知っている……?)
静まり返る部屋。エアコンの駆動音さえもが、僕らを監視するノイズのように聞こえる。
示された住所をシズヤが検索する。それは、東京都とは思えないほどの深い山中、文明の道が途絶え、地図の空白へと消えていく寸前の場所を指していた。
「……ヒカル、こいつ。怪異の正体……いや、俺たちが屋上で出会った『あいつら』のことを知ってる口ぶりだ。悪戯にしちゃあ、場所が具体的すぎる。おまけに、このコメントからだけ……名無しと同じような、あの『腐った匂い』がしてくるんだ」
シズヤの低い声が、警告音のように響く。
普通なら無視するべき、質の悪い怪文書だ。けれど、僕らには分かっていた。この呼び声に応えなければ、僕らの音楽が、僕らの人生が、永遠にこの闇に囚われたままになるということを。
(気になるよ、シズヤ。僕らも、いつまでも怪異に怯えて逃げ回ってはいられないから)
*
――数日後。
僕らは中央線に揺られ、そこからさらにバスを乗り継ぎ、最後は杉林が陽光を遮る、湿った獣道の中を歩いていた。
鼻を突くのは、濃密な湿った土の匂い。
鳥の鳴き声さえない不自然な静寂が、耳を圧迫する。
僕の白杖が、泥に塗れた地面の歪みを捉える。ここは、街の音も、文明の恩恵も届かない、時間が澱んだまま腐敗している『境界』だ。
やがて、苔むした崩れかけの石段の先に、その建物は現れた。朽ち果てた古民家。屋根からは黒い蔓が這い出し、まるで家そのものが巨大な死骸のように横たわっている。
「……ここか。おいヒカル、冗談抜きでやばい気配だ。空気が、ピリピリしてやがる」
シズヤが僕の手を強く引き、寄り添うようにして縁側へ近づく。
(大丈夫……僕がシズヤの耳になる。だから、何があっても離れないで)
「お入り。その不完全な目と耳を持った、憐れな若者たちよ」
家の中から響いてきたのは、枯れ木が擦れ合うような、ひどく掠れた老婆の声。
暗い部屋の奥。囲炉裏から上がる細い煙の向こう側。火影の中に座っていたのは、地面に届くほど長く、不気味に白い髪を持った老婆だった。その瞳は、濁ったガラス玉のように僕らを射抜いていると、シズヤが掌に文字を刻んで教えてくれた。

「座んな。お前さんたちが奏でているのは、ただの流行り歌じゃない。それは、この国が古来より闇に葬り、封じ込めてきた……『名前を奪われた者たち』の嘆きの断片だ」
老婆の骨張った指が、乾いた音を立てて床を叩く。
その瞬間、僕の瞼の裏側に、真っ黒な泥のような怨嗟の渦が溢れ出した。冷たい。そして、ひどく寂しい。
(シズヤ、様子がおかしい!! 身体の芯が、凍りつくみたいだ……!)
「俺もだ……。目の前が、真っ黒な粘液で覆われてるみたいに見える。ヒカル、離れるなよ!」
「お前さんたちが、善意で救ったつもりでいる怪異も……もとはといえば、自業自得で死んだ哀れな魂の成れの果て。自ら死を選んだ者は、その瞬間に自分の名を奪われる。それを、あんな音楽なんぞにして世界中にバラまけばどうなるか……想像したこともなかったのかい?」
老婆の冷酷な問いかけが、僕の脳天を直接射抜いた。
「俺たちは……あいつを、孤独から救いたかっただけだ! そんなつもりじゃ……!」
「つもりじゃなかろうが、現実は現実だ! お前さんたちの眩しすぎる音楽は、眠っていた巨大な嘆きの数々を叩き起こし、引き寄せる『呼び声』になっちまったんだ」
老婆の言葉が、部屋の澱んだ空気を切り裂く。
シズヤの声が、かつてないほど上ずっている。
「そうだ。無念を抱えたまま、名もなき死体となった者たちの怨嗟だ。お前さんたちの音楽は、奴らにとってはこの上ない招待状だ。世界中のスピーカーから、呪いが漏れ出しているのさ」
老婆が囲炉裏の炭を激しくかき混ぜると、僕の瞼の裏側の黒い炎が、一瞬、鮮血のように赤く爆ぜた。
(シズヤ、大丈夫!? シズヤの鼓動が、痛いくらいに伝わってくるよ)
僕は震える手で、シズヤの腕を必死に掴んだ。
「怪異を救うどころか、呪いを撒き散らしてたなんて……。俺たちがやってきたことは、人殺しと同じだってことか……?」
シズヤの掌から伝わる振動は、激しい自己嫌悪に塗りつぶされていた。
「嘆きは、さらなる嘆きを呼ぶ。お前さんたちがこのまま音楽を作り続ければ、世界はいずれ音のない、色彩のない絶望で満たされるだろうよ。救いなど、どこにもない」
老婆の声は、無慈悲な宣告となって僕らの未来を塗りつぶしていく。
「……どうすればいい。どうすれば、それを止められる。俺たちは、ただ……」
シズヤが、僕の手を壊れそうなほど強く握り返す。
「止める方法は一つ。お前さんたちの魂の叫びを、今度は奴らを封じ込めるための『墓石』にするのさ。……だが、そのためには代償が必要だ」
老婆はそこで言葉を切ると、囲炉裏の影から、煤けて黒ずんだ古い一丁の横笛を取り出した。
「お前さんたちのどちらかが、その耳か目を、真の意味で奴らに差し出さねばならん。完全に『あちら側』と繋がるための器としてな」
(……どういう意味? 差し出すって、そんな……)
老婆が突きつけた、究極の選択。
シズヤの、激しく、そして絶望に震える鼓動が、僕の掌に、残酷なほど鮮明に伝わっていた――。



