光のない僕と、音のない君

 叩きつける雨が、アスファルトに残っていた昼間の熱を強引に奪い去り、むせ返るような重い土の匂いを屋上へと運び上げてくる。

 僕は、コンクリートの無機質な冷たさを背中に感じながら、その上にのしかかるシズヤの鼓動を全身で受け止めていた。重い。けれど、これまでに感じたどんな親切よりも、この重みは僕を安心させた。

(……なんで。なんで、君はそんなに怒っているの。そんなに、泣きそうな声を出しているの)

 シズヤの掌は、僕の胸元を強く圧迫したまま、小刻みに、けれど激しく震えている。その様子は、弱者を助けに来た正義のヒーローなどでは断じてなかった。まるで、逃げ場のない檻の中で追い詰められた若き獣のように、必死で、乱暴で、そしてひどく孤独だった。

 僕は、自分を抑え込むシズヤの硬い腕をそっと掴んだ。雨に濡れた彼の肌は、氷のように冷え切っている。

「……ヒカル。理解できねぇかもしんねぇけど、いいか、よく聞け」

 シズヤの掠れた声が、至近距離で僕の鼓膜を激しく揺らす。

「俺は……お前を、助けにきたんじゃねぇんだよ。逃げてきたんだ。お前の教室から這い出してきた、あのわけの分からねぇ『化け物』から、ここまで必死に逃げてきたんだ!」

 ドクン、と僕の心臓が大きく跳ねた。

 僕が、あの『優しいソプラノの声』に誘われ、天国へ向かうような心地で階段を上っていた時、シズヤは、僕の背後にある異形に追い回されていたというのか。

 僕は震える指先を立て、シズヤの広い掌に、問いかける文字を叩きつけた。

(……化け物? どこに。僕の周りには、あんなに綺麗な声の主しかいなかったよ)

「どこにって、そいつが……今さっきまで、お前のすぐ耳元で囁いてたんだよ!」

 信じられなかった。僕を導いたあの響きは、母親の胎内に戻るような安らぎをくれたはずだ。この忌々しい白杖という鎖を解き放ち、色彩のない銀色の虚無から僕を目覚めさせてくれる福音だったはずなんだ。

(嘘だ。あいつは僕に、自由になれるって教えてくれた。この世界でたった一人、僕を可哀想だと思わずに、ありのままを受け入れてくれた、優しい存在だったんだよ)

 シズヤの呼吸が、一瞬だけ止まった。
 直後、僕を抑え込んでいた彼の腕に、さらに凄まじい力がこもる。

(痛い。痛いよ、シズヤ)

「馬鹿か、お前……! あんなもんを、優しいだと……? 正気かよ」

 シズヤの声は、ガタガタと歯の根が合わないほどに震えていた。

 指先から伝わる彼の筋肉の硬直。それが、恐怖から来るものだということは、見えない僕にも痛いほど分かった。冗談で言っているわけではない。彼は、本当に見てしまったのだ。僕を「自由」に誘ったものの正体を。

(シズヤ、教えて。僕を誘ったあいつは……本当は、どんな姿をしているの?)

 沈黙が流れた。
 ただ、荒れ狂う雨音だけが、僕らの間の凍りついた空白を埋めていく。

 シズヤは、僕の隣に力なくへたり込むと、僕の右手を自分の顔へと導いた。彼が今、どれほど絶望的な表情を浮かべているのかを、僕の指先に叩き込むように。
 
 彼の頬は、雨と、そして熱い涙でぐちゃぐちゃに濡れていた。

「あいつは、今もそこにいる。お前がさっき乗り越えようとした、フェンスのすぐ向こう側だ。あいつはな、ヒカル。人間じゃねぇ。いや、そもそも……生き物の形すらしてねぇんだよ」

 シズヤの声が、湿った風に混じって震える。

「あいつは、空に不気味に浮いてるんだ。自分の腹を裂いて、剥き出しになった内臓を手でもてあそんでる。まるで、高いところから飛び降りて、地面に激突して破裂した死体そのものみたいな見た目でな……」

(そんな……顔は? 顔はどんな風なの?)

「顔? あんなもんを顔とは呼ばねぇよ。頭があるはずの場所には、巨大な唇が無数に、びっしりとくっついてる。それが呼吸をするたびに、びちゃびちゃと嫌な音を立てて開閉してやがるんだ。あの綺麗な声は、その無数の口から漏れ出た、死の誘いだったんだよ」



(嘘だ……嘘だ……!)

「目も耳もねぇ。ただ、その腐りかけた口の隙間から、何十本もの細長い指が、触手みたいにずるずると這い出して……お前に向かって手招きしてたんだ。ヒカル、死ななくて本当によかった。俺は……俺はもう、あんなもん、二度と見たくねぇ。頼む、早くここから戻ろう」

 背筋に、(おぞ)ましいまでの寒気が奔った。

 僕が救いだと思っていた、あの天上のアリアのような響きは、シズヤの目には、破裂した内臓と無数の肉欲的な唇が蠢く、冒涜的な地獄の化身として映っていたなんて。

(そいつ……僕らを逃がしてくれるかな。まだ、そこにいるの?)

「そいつは今、口の中から出た指先を全部お前に向けて、笑ってる。ヒカルが絶望して死のうとしたその瞬間を、最高のご馳走を前にしたみたいに楽しんでやがるんだ。……見えてなくてよかったな、ヒカル。もし見えてたら、お前の心臓は、それだけで恐怖で止まってたかもしれねぇ」

 僕は、激しい吐き気を覚えた。
 そんな悍ましいものに、僕は理解者としての安心感を覚え、すべてを委ねようとしていたのか。
 
 放り投げた白杖を、僕は闇雲に手探りで探した。けれど、見つからなかった。僕は、この残酷な世界で生き抜くための唯一の武器を自ら捨て、裸の魂のまま、雨の中に放り出されていたのだ。

「……なあ、ヒカル」

 シズヤが、僕の震える肩を力強く抱き寄せた。
 その力は、先ほどまでの暴力的な強さではなく、壊れやすいガラス細工を命がけで守るような、切実な祈りに変わっていた。

(なに、シズヤ)

「……あいつらは、俺たちみたいな『死のうとする奴』が大好物なんだ。お前の見えない孤独も、俺の聞こえない恐怖も、あいつらにとっちゃ極上のデザートなんだよ。……あんな奴らに、魂を喰われてたまるか」

 シズヤの胸に手を当てると、彼の激しい鼓動が、掌を突き破らんばかりに伝わってきた。

(シズヤも……死のうと思ったことがあるんだね。僕と同じように)
 
「……ああ。何度もな。でも、あいつらに利用されて死ぬのは、真っ平御免だ」

(……そうだね。僕も、あんなものに喰われるのは嫌だ)

「だったらさ、二人で……このクソみたいな、救いようのない世界を、最後まで生き抜いてみようぜ。お前の耳と、俺の目。二人でいれば、きっと一人前になれる」

(……わかった。約束だよ、シズヤ)

 僕は、シズヤの雨に濡れたシャツを、指が白くなるほどぎゅっと掴んだ。

 もう、どこにも銀色の安らかな海なんてなかった。
 そこにあるのは、激しい雨の音、冷たいコンクリートの感触、そして隣にいる少年の、熱すぎるほどの体温。それだけが、僕にとっての唯一の真実だった。

「一緒に、高校に行ってみねぇか。俺もさ、もう全部諦めてたんだけど……ヒカルの耳があれば、もしかしたら、二人で新しい音を作れるかもしれねぇ」

(いいよ。僕が君の耳になる。だから、シズヤは……僕の目になってくれる?)

「ああ。望むところだ。俺が、お前を地獄から守ってやるよ」

 僕は、雨の中で震えながら、何度も深く頷いた。

 その瞬間、屋上の闇の中で、何者かが断末魔のような叫び声を上げた。先ほどまで僕を酔わせていた優しいソプラノはどこにもなく、それは鼓膜を引き裂くような、悍ましい異音へと変わっていた。

 シズヤの大きな手が、耳を塞ごうとする僕の両手の上に、力強く重ねられた。

「大丈夫だ。気にするな。俺たちが生きる決意をしたから、あいつはもう消えるしかないんだ。……俺がずっと、お前のそばにいるからな」
 
 激しい雨の屋上で、僕らが初めて交わした、魂の契約。
 それは、二人の欠落した少年が、一つの『光と音』として歩み出した、最初の一歩だった――。