雨音の隙間。
僕の耳元で囁いたのは、これまでの人生で聴いたどの声よりも澄んだ、天上の音楽のようなソプラノだった。
『……疲れたでしょう、ヒカル君。ずっと頑張ってきたんだね。もう、いいんだよ』
その声は、僕の魂に刻まれた無数のささくれを一つ一つ、柔らかい絹の布で撫でていくようだった。担任の教師が向ける薄っぺらな憐れみとも、クラスメイトが抱く湿った罪悪感とも違う。ただ、僕がそこに存在することを、透明な深海のように丸ごと受け入れてくれる響きだった。
「誰なの……? 僕、目が見えないんだ。何も見えないんだよ」
『目が見えないことは、不自由なことではないわ。あちら側の世界なら、そもそも見る必要すらない。光も影も、等しく無に帰す場所。そこなら誰も君を助けなくていいし、君も誰かに卑屈に頭を下げなくていい。本当の意味で自由になれる場所が、すぐそこにあるの』
その言葉は、僕の胸の奥に澱のように溜まった泥を、一瞬で洗い流してくれた。
――自由。
他人の親切という名の毒を飲まずに済む、唯一の安息地。
僕は、その声に抱かれるようにピアノの前を離れた。蓋を閉じる音さえ、今は遠い。
視界の端々で、銀色の海が穏やかに、けれど誘惑するように波打っている。僕は自分の意志で、一歩、また一歩と、音楽室の外へ足を踏み出した。
エスカレーターに乗っているかのような、重力さえも消え去った浮遊感。声に導かれ、階段を一段ずつ上っていく。不思議と、白杖の先が何かにぶつかることはなかった。冷たい何かが僕の手を、優しくエスコートしてくれている。
屋上への重い扉を開けると、むせ返るような激しい雨の匂いが僕を包んだ。けれど、ちっとも怖くはなかった。
『さあ、その杖を捨てて。それは、君をこの不自由な世界に縛り付ける、重い鎖だから』
僕は、言われるままに白杖を放り投げた。カラン、カラン、と。地面に落ちて転がる乾いた音が、僕の過去を切り離していく。
自分を『障害者』として定義し続けてきた唯一の道具を失った瞬間、背中に羽が生えたような錯覚さえ覚えた。
「どこだろう? そうか、ここは屋上か……。なんだか、とても気持ちが良いね」
雨に濡れた鉄柵を掴む。冷たいはずの金属が、今はなぜか命を持っているかのように温かい。この向こう側の虚無へ行けば、僕は、本当の僕になれる。

(さようなら。僕を憐れみ、僕を窒息させた世界)
柵に足をかけ、身体を投げ出そうとした、その時だった。
――ガツッと、腕の骨が軋むほどの猛烈な力で、腕を掴まれた。
あの優しいソプラノの声とは正反対の、痛いほど強く、無作法な力。
「……てめぇ、何やってんだよ!!」
鼓膜を震わせる怒鳴り声。
それは、同級生たちの綺麗な声じゃない。少し掠れていて、怒りと、そして隠しようのない怯えに震えた、少年の低い声だった。
「死ねば楽になるとか、そんな甘っちょろいこと考えてんのか? そんなに誰かの荷物になりたくねぇなら、一人で勝手にのたれ死ねよ!」
あまりにも身勝手で、容赦のない罵倒。
僕の中にあった銀色の安らぎは、その荒々しい罵声によって、ガラス細工のように無惨に砕け散った。
「……何、勝手なこと言ってるんだ! 僕の、僕の人生の何も知らないくせに!」
僕は、焦点の合わない目を見開き、その声の主に向かって、腹の底から叫び返した。
「君だって、僕を憐れんでるんだろ? 可哀想な盲人の子が屋上から飛び降りそうだから、助けてやった……そんな正義のヒーローごっこがしたいだけだろ! 放せよ、偽善者! 君もあいつらと同じだ!」
必死に腕を振りほどこうと、暴れ回る。けれど、相手は黙ったまま、僕を柵から力任せに引き剥がし、そのまま屋上の固いコンクリートへ叩きつけた。
背中に走る、冷たく鋭い衝撃。
僕は叫び続けた。これまでの人生で飲み込んできた呪詛を、憐れみへの猛烈な怒りを。けれど、どれだけ僕が汚い言葉で怒鳴り散らしても、相手からの反応はなかった。言い合いにすらならない。相手は、ただ僕の上にのしかかり、強い力で僕を抑え込んでいるだけだ。
「……何か言えよ! 僕を、笑えばいいだろ! 惨めな奴だって言えよ!」
肩で荒い息をつきながら、僕は相手の濡れた胸元を必死に掴んだ。
その時だ。
僕の手のひらに伝わってきたのは、破裂しそうなほど激しく、必死に打つ心臓の鼓動。
そして、それ以上に衝撃的だったのは――僕の死に物狂いの叫び声が、彼の鼓膜に届いている様子が、微塵もなかったことだ。
「俺、音が聞こえないんだ。わりぃ。お前が何を言ってんのか、……一つもわからねぇんだよ」
僕は言葉を失い、衝撃を受けた。
僕の声が聞こえない彼が。僕の言葉さえ持たない彼が。僕を「可哀想な盲人」という枠に当てはめることすらできない彼が、僕を助けたというのか。
僕は震える指先を立て、彼の大きな掌に、一文字ずつ必死に文字を刻んだ。
(な・ま・え・は・? 僕・ヒ・カ・ル)
「シズヤだ。……乱暴にして、悪かった。でもお前、本当に死んじゃうかと思って。身体が勝手に動いちまったんだ」
彼は、僕の胸元にそっと手を置き、僕が生きて、鼓動を刻んでいることを確認するように優しく、いつまでもそばにいてくれた。
僕は、雨の中で声を上げて泣いた。
銀色の偽りの海よりも、この少年の熱すぎるほどの不器用な手のひらが、僕を強く、この現実へ引き戻していた。
(僕だって、本当は……生きていたいよ)
僕の耳元で囁いたのは、これまでの人生で聴いたどの声よりも澄んだ、天上の音楽のようなソプラノだった。
『……疲れたでしょう、ヒカル君。ずっと頑張ってきたんだね。もう、いいんだよ』
その声は、僕の魂に刻まれた無数のささくれを一つ一つ、柔らかい絹の布で撫でていくようだった。担任の教師が向ける薄っぺらな憐れみとも、クラスメイトが抱く湿った罪悪感とも違う。ただ、僕がそこに存在することを、透明な深海のように丸ごと受け入れてくれる響きだった。
「誰なの……? 僕、目が見えないんだ。何も見えないんだよ」
『目が見えないことは、不自由なことではないわ。あちら側の世界なら、そもそも見る必要すらない。光も影も、等しく無に帰す場所。そこなら誰も君を助けなくていいし、君も誰かに卑屈に頭を下げなくていい。本当の意味で自由になれる場所が、すぐそこにあるの』
その言葉は、僕の胸の奥に澱のように溜まった泥を、一瞬で洗い流してくれた。
――自由。
他人の親切という名の毒を飲まずに済む、唯一の安息地。
僕は、その声に抱かれるようにピアノの前を離れた。蓋を閉じる音さえ、今は遠い。
視界の端々で、銀色の海が穏やかに、けれど誘惑するように波打っている。僕は自分の意志で、一歩、また一歩と、音楽室の外へ足を踏み出した。
エスカレーターに乗っているかのような、重力さえも消え去った浮遊感。声に導かれ、階段を一段ずつ上っていく。不思議と、白杖の先が何かにぶつかることはなかった。冷たい何かが僕の手を、優しくエスコートしてくれている。
屋上への重い扉を開けると、むせ返るような激しい雨の匂いが僕を包んだ。けれど、ちっとも怖くはなかった。
『さあ、その杖を捨てて。それは、君をこの不自由な世界に縛り付ける、重い鎖だから』
僕は、言われるままに白杖を放り投げた。カラン、カラン、と。地面に落ちて転がる乾いた音が、僕の過去を切り離していく。
自分を『障害者』として定義し続けてきた唯一の道具を失った瞬間、背中に羽が生えたような錯覚さえ覚えた。
「どこだろう? そうか、ここは屋上か……。なんだか、とても気持ちが良いね」
雨に濡れた鉄柵を掴む。冷たいはずの金属が、今はなぜか命を持っているかのように温かい。この向こう側の虚無へ行けば、僕は、本当の僕になれる。

(さようなら。僕を憐れみ、僕を窒息させた世界)
柵に足をかけ、身体を投げ出そうとした、その時だった。
――ガツッと、腕の骨が軋むほどの猛烈な力で、腕を掴まれた。
あの優しいソプラノの声とは正反対の、痛いほど強く、無作法な力。
「……てめぇ、何やってんだよ!!」
鼓膜を震わせる怒鳴り声。
それは、同級生たちの綺麗な声じゃない。少し掠れていて、怒りと、そして隠しようのない怯えに震えた、少年の低い声だった。
「死ねば楽になるとか、そんな甘っちょろいこと考えてんのか? そんなに誰かの荷物になりたくねぇなら、一人で勝手にのたれ死ねよ!」
あまりにも身勝手で、容赦のない罵倒。
僕の中にあった銀色の安らぎは、その荒々しい罵声によって、ガラス細工のように無惨に砕け散った。
「……何、勝手なこと言ってるんだ! 僕の、僕の人生の何も知らないくせに!」
僕は、焦点の合わない目を見開き、その声の主に向かって、腹の底から叫び返した。
「君だって、僕を憐れんでるんだろ? 可哀想な盲人の子が屋上から飛び降りそうだから、助けてやった……そんな正義のヒーローごっこがしたいだけだろ! 放せよ、偽善者! 君もあいつらと同じだ!」
必死に腕を振りほどこうと、暴れ回る。けれど、相手は黙ったまま、僕を柵から力任せに引き剥がし、そのまま屋上の固いコンクリートへ叩きつけた。
背中に走る、冷たく鋭い衝撃。
僕は叫び続けた。これまでの人生で飲み込んできた呪詛を、憐れみへの猛烈な怒りを。けれど、どれだけ僕が汚い言葉で怒鳴り散らしても、相手からの反応はなかった。言い合いにすらならない。相手は、ただ僕の上にのしかかり、強い力で僕を抑え込んでいるだけだ。
「……何か言えよ! 僕を、笑えばいいだろ! 惨めな奴だって言えよ!」
肩で荒い息をつきながら、僕は相手の濡れた胸元を必死に掴んだ。
その時だ。
僕の手のひらに伝わってきたのは、破裂しそうなほど激しく、必死に打つ心臓の鼓動。
そして、それ以上に衝撃的だったのは――僕の死に物狂いの叫び声が、彼の鼓膜に届いている様子が、微塵もなかったことだ。
「俺、音が聞こえないんだ。わりぃ。お前が何を言ってんのか、……一つもわからねぇんだよ」
僕は言葉を失い、衝撃を受けた。
僕の声が聞こえない彼が。僕の言葉さえ持たない彼が。僕を「可哀想な盲人」という枠に当てはめることすらできない彼が、僕を助けたというのか。
僕は震える指先を立て、彼の大きな掌に、一文字ずつ必死に文字を刻んだ。
(な・ま・え・は・? 僕・ヒ・カ・ル)
「シズヤだ。……乱暴にして、悪かった。でもお前、本当に死んじゃうかと思って。身体が勝手に動いちまったんだ」
彼は、僕の胸元にそっと手を置き、僕が生きて、鼓動を刻んでいることを確認するように優しく、いつまでもそばにいてくれた。
僕は、雨の中で声を上げて泣いた。
銀色の偽りの海よりも、この少年の熱すぎるほどの不器用な手のひらが、僕を強く、この現実へ引き戻していた。
(僕だって、本当は……生きていたいよ)



