窓の外の雨は上がったけれど、僕の隣には、創作の熱に照らされたシズヤの体温が、驚くほど熱く、けれど心地よく残っている。彼は疲れ果てて床に転がり、僕の指を重ねたまま、安らかな寝息を立て始めていた。
(……シズヤ。君の手に触れていると、創作の熱とは違う、あの『冷たかった放課後』を思い出すんだ)
シズヤの熱い手のひらを、僕は自分の両手でそっと包み込んだ。
あの日、屋上で彼が僕を抱きしめてくれなければ。あの冷たい雨の中で、彼が僕の『目』になってくれなければ、僕は今、ここにいなかった。
***
世界は、暗闇なのではない。
よく晴れた日。
目を開けても何も映らないこの感覚を、みんなは『真っ暗』だと想像するだろうけれど、僕にとっては違う。そこにあるのは、上下左右の概念すら消失した、『果てしない銀色の海』だ。

――小学校の教室。
僕にとって、無数の凶器がぶら下がった檻の中と同じだった。
朝、登校した瞬間に香るのは、重く湿った床ワックスの匂いと、微かに粉っぽい黒板消しの残り香。それから、数十人の子供たちが放つ、未分化で生々しい体温の混じり合った独特の熱気。
「ヒカル君、おはよう」
担任の教師が声をかけてくる。その声には、いつも薄い膜のような憐れみが張り付いている。
僕が椅子を引く。
ガリッという乾いた音が、静かな教室に異常なほど大きく響く。その瞬間、周囲のざわめきが一瞬だけ途切れるのを、僕は皮膚で感じ取っていた。
(まただ。みんな、僕を見てる)
視覚障害者にとって、もっとも鋭利な凶器は沈黙だ。
彼らが僕の白杖を見て、僕の焦点の合わない瞳を見て、かける言葉を失い、可哀想な子として接しようと意識を切り替える。その数秒の空白が、トゲ付きの空気となって僕を包囲する。
休み時間は、さらに過酷な戦場に変わる。
子供たちは予測不能だ。右から左へ、斜め後ろから前へ、叫び声を上げながら駆け抜けていく。
僕にとって、彼らの足音は、いつ爆発するか分からない不発弾の音だった。
ドタドタという振動が床から伝わり、僕のすぐ耳元を風が通り過ぎる。
「わっ、ごめんヒカル君!」
ぶつかりそうになった誰かが謝る。その声に含まれた罪悪感が、僕をさらに惨めにする。僕は怒ることもできない。誤魔化して笑うしかない日々。その嘘の笑顔が、僕の喉を内側から締め上げる。
見えないということは、情報の主導権を常に他人に握られているということに等しい。
誰がどこに立っているのか。
誰が今、僕を見て笑っているのか。
誰が、不快そうに顔を歪めているのか。
分からない。何も、見えない。
だから、僕はすべての音に過敏に反応するようになる。
遠くで誰かがクスクスと笑えば、それは僕の歩き方がおかしかったからではないかと疑う。
隣の席でノートを捲る音が聞こえれば、そこに僕の知らない悪口が書かれているのではないかと焦る。
給食の時間。
アルミの食器が触れ合う金属音は、僕の頭蓋骨を直接叩く打楽器のようだ。
隣の子が気を利かせて、僕のトレイの位置を直してくれる。
「ヒカル君、これ牛乳だよ。こっちがパン」
「……ありがとう」
その親切が、毒のように全身に回る。
僕は自分の意志で、目の前にある食べ物を選ぶことすらできない。他人に指し示された順番で、他人に計られた分量を口に運ぶだけの、意思のない人間。
(壊してしまいたい)
ふと、そんな衝動が脳裏をよぎる。
見えないこの手を、思い切り振り回して、この憐れみで満ちた教室をぐちゃぐちゃにしてしまいたい。
みんなと同じように、僕も怒り、走り、泣き、誰かの助けなんて必要ないと叫びたかった。
けれど、僕にできるのは、ただ白杖を握りしめ、自分がこの世界に馴染んでいないという事実を、絶え間なく主張し続けることだけだった。
ある日の放課後。
僕は一人、音楽室に残った。
ここなら、誰も僕を見ない。憐れみの視線も、罪悪感のこもった謝罪もない。
僕はピアノの前に座り、蓋を開けた。
指先が象牙の冷たい鍵盤に触れる。
一番端の、低い音を叩いてみる。
――ボォォン。
重く、鈍い振動が、指先から腕へ、心臓へと駆け上がった。
「……凄い」
思わず、声が漏れた。
このピアノだけは、僕を憐れまない。
強く叩けば、その分だけ、僕の怒りを受け止めて、乾いた音を返してくれる。
僕は鍵盤の上に突っ伏した。
冷たい鍵盤が頬に触れる。
(僕は、何のために生まれてきたんだろう)
何も見えない。何もできない。
ただ、世界が発する無数の音に翻弄され、溺れ、沈んでいくだけの人生。
そんな無の世界に、僕はいつまで耐えなければならないのか。
その時だった。
窓の外から、不意に雨が降り始めた。
アスファルトを叩く激しい雨音が、僕の聴覚を真っ白に塗りつぶしていく。
――カサリ。
雨音の隙間で、何かが動く音がした。
誰か、いる。
けれど、それは子供たちの足音でも、教師の靴音でもなかった。
もっと重く、粘りつき、――この世界のものとは思えない、異質な振動。
僕の首筋を、氷のような冷たい風が撫でた。
「……だれ、なの?」
虚無の中に、初めて恐怖という名の輪郭が現れた。これが、僕と怪異の、最初の出会いだったんだ――。
(……シズヤ。君の手に触れていると、創作の熱とは違う、あの『冷たかった放課後』を思い出すんだ)
シズヤの熱い手のひらを、僕は自分の両手でそっと包み込んだ。
あの日、屋上で彼が僕を抱きしめてくれなければ。あの冷たい雨の中で、彼が僕の『目』になってくれなければ、僕は今、ここにいなかった。
***
世界は、暗闇なのではない。
よく晴れた日。
目を開けても何も映らないこの感覚を、みんなは『真っ暗』だと想像するだろうけれど、僕にとっては違う。そこにあるのは、上下左右の概念すら消失した、『果てしない銀色の海』だ。

――小学校の教室。
僕にとって、無数の凶器がぶら下がった檻の中と同じだった。
朝、登校した瞬間に香るのは、重く湿った床ワックスの匂いと、微かに粉っぽい黒板消しの残り香。それから、数十人の子供たちが放つ、未分化で生々しい体温の混じり合った独特の熱気。
「ヒカル君、おはよう」
担任の教師が声をかけてくる。その声には、いつも薄い膜のような憐れみが張り付いている。
僕が椅子を引く。
ガリッという乾いた音が、静かな教室に異常なほど大きく響く。その瞬間、周囲のざわめきが一瞬だけ途切れるのを、僕は皮膚で感じ取っていた。
(まただ。みんな、僕を見てる)
視覚障害者にとって、もっとも鋭利な凶器は沈黙だ。
彼らが僕の白杖を見て、僕の焦点の合わない瞳を見て、かける言葉を失い、可哀想な子として接しようと意識を切り替える。その数秒の空白が、トゲ付きの空気となって僕を包囲する。
休み時間は、さらに過酷な戦場に変わる。
子供たちは予測不能だ。右から左へ、斜め後ろから前へ、叫び声を上げながら駆け抜けていく。
僕にとって、彼らの足音は、いつ爆発するか分からない不発弾の音だった。
ドタドタという振動が床から伝わり、僕のすぐ耳元を風が通り過ぎる。
「わっ、ごめんヒカル君!」
ぶつかりそうになった誰かが謝る。その声に含まれた罪悪感が、僕をさらに惨めにする。僕は怒ることもできない。誤魔化して笑うしかない日々。その嘘の笑顔が、僕の喉を内側から締め上げる。
見えないということは、情報の主導権を常に他人に握られているということに等しい。
誰がどこに立っているのか。
誰が今、僕を見て笑っているのか。
誰が、不快そうに顔を歪めているのか。
分からない。何も、見えない。
だから、僕はすべての音に過敏に反応するようになる。
遠くで誰かがクスクスと笑えば、それは僕の歩き方がおかしかったからではないかと疑う。
隣の席でノートを捲る音が聞こえれば、そこに僕の知らない悪口が書かれているのではないかと焦る。
給食の時間。
アルミの食器が触れ合う金属音は、僕の頭蓋骨を直接叩く打楽器のようだ。
隣の子が気を利かせて、僕のトレイの位置を直してくれる。
「ヒカル君、これ牛乳だよ。こっちがパン」
「……ありがとう」
その親切が、毒のように全身に回る。
僕は自分の意志で、目の前にある食べ物を選ぶことすらできない。他人に指し示された順番で、他人に計られた分量を口に運ぶだけの、意思のない人間。
(壊してしまいたい)
ふと、そんな衝動が脳裏をよぎる。
見えないこの手を、思い切り振り回して、この憐れみで満ちた教室をぐちゃぐちゃにしてしまいたい。
みんなと同じように、僕も怒り、走り、泣き、誰かの助けなんて必要ないと叫びたかった。
けれど、僕にできるのは、ただ白杖を握りしめ、自分がこの世界に馴染んでいないという事実を、絶え間なく主張し続けることだけだった。
ある日の放課後。
僕は一人、音楽室に残った。
ここなら、誰も僕を見ない。憐れみの視線も、罪悪感のこもった謝罪もない。
僕はピアノの前に座り、蓋を開けた。
指先が象牙の冷たい鍵盤に触れる。
一番端の、低い音を叩いてみる。
――ボォォン。
重く、鈍い振動が、指先から腕へ、心臓へと駆け上がった。
「……凄い」
思わず、声が漏れた。
このピアノだけは、僕を憐れまない。
強く叩けば、その分だけ、僕の怒りを受け止めて、乾いた音を返してくれる。
僕は鍵盤の上に突っ伏した。
冷たい鍵盤が頬に触れる。
(僕は、何のために生まれてきたんだろう)
何も見えない。何もできない。
ただ、世界が発する無数の音に翻弄され、溺れ、沈んでいくだけの人生。
そんな無の世界に、僕はいつまで耐えなければならないのか。
その時だった。
窓の外から、不意に雨が降り始めた。
アスファルトを叩く激しい雨音が、僕の聴覚を真っ白に塗りつぶしていく。
――カサリ。
雨音の隙間で、何かが動く音がした。
誰か、いる。
けれど、それは子供たちの足音でも、教師の靴音でもなかった。
もっと重く、粘りつき、――この世界のものとは思えない、異質な振動。
僕の首筋を、氷のような冷たい風が撫でた。
「……だれ、なの?」
虚無の中に、初めて恐怖という名の輪郭が現れた。これが、僕と怪異の、最初の出会いだったんだ――。



