光のない僕と、音のない君

 窓の外、激しさを増した夕立の雨音が、僕らの鳴らす音楽と完璧に調和していく。

 僕の部屋には、もう、ほうじ茶の香りは漂っていなかった。代わりに満ちているのは、古い楽譜のページを捲った時のような、乾いた紙の匂い。そして、第11話でシズヤの身体に触れてから僕の中に残ったままの、甘く、痺れるような創作の熱だ。

(シズヤ。名無しさんの『縺縺』の文字化けの怒りを、僕のピアノにシンクロさせられないかな? 彼が掲示板にぶちまけた感情を、僕らが最高の音に変えたい)

 僕が手話を描き終える前に、シズヤが僕の隣、手が触れるほどの距離に詰め寄った。モニターの青白い光を遮るように、彼の大きな影が僕を包み込む。

「……わかった。こいつがマウスをクリックした音、キーボードを叩いた音……全部、サンプリングしてビートに組み込んでやる。おい、名無し。見てろよ。お前の『死に場所』だったその画面を、俺たちがステージに変えてやるからな」

 シズヤがシンセサイザーのサイドを強く叩き、リズムの始点を合図した。その振動が鍵盤を介して僕の指に伝わり、凄まじい創作の熱が走った。

 ドクン、トクン、カチ、カチッ――。

 スピーカーから溢れ出したのは、これまでのボカロ曲の常識を覆すような、不完全で、ザラついていて、けれどどうしようもなく体温の宿ったリズムだった。

 それは名無しさんの孤独な心音であり、僕らの生きている証。

 僕は、その(いびつ)で愛おしいビートに、名無しさんのコメントから感じた旋律を重ねていく。

 歌詞は、ない。その代わりに、僕らの感覚が重なり合い、爆発するような。そんな曲。

 僕の耳には、シズヤがアレンジするピアノの低音弦が心地よく響いた。窓から差し込む夕陽に照らされ、音が光の洪水となってゆく。隣り合うシズヤの肩から伝わる震えが、ピアノの和音と完璧にシンクロした。

 音の心音が、やがて胎動へと変わり、自分の身体全体が、いや、僕とシズヤの二人の身体が一つの巨大な楽器になったような感覚がした。

 ――巨大な音の海。

 その海の中で、名無しさんの孤独の咆哮が、静かに希望の祈りへと変わっていく。窓の外、激しさを増した夕立の雨音が、僕らの鳴らす音楽と完璧に調和した。

(シズヤ、曲のタイトルが決まったよ)

 僕はピアノの鍵盤から手を離し、隣に座り直したシズヤの手をそっと握った。手話ではなく、繋いだ手の温度で。

『残響の海、魂の叫び』

「ヒカル、最高だ。これなら、あいつをパソコンの中から解放するための葬送曲になる」

 モニターの青白い光ではなく、創作の熱に照らされたシズヤの横顔を、僕は瞼の裏側に想像していた。



   *

【SNS:公開直後の反応】

●@ボカロマニア3.0
 歌詞がない? これ、本当に『光と音』の新曲?

●@海外ファン(翻訳)
 THIS IS ART. This isn't music, it's a prayer. Words are too simple for this kind of pain and hope. (これはアートだ。これは音楽じゃない、祈りだ。言葉はこの痛みと希望を表すには、あまりにも単純すぎる)

   *

 スピーカーの脈動が消え、モニターの青白いグリッチが去った後、部屋には静寂が戻った。

 瞼の裏側にはまだ、音の洪水が放つ残影があった。

(シズヤ。今頃、自由に音の海をたゆたっているのかな)

 僕は、隣に座るシズヤの手に、自分の指先を重ねた。シズヤの指は、創作の熱で驚くほど熱かった。

「ああ。ずっとあんな狭いところに居たんだ。思う存分、音楽を楽しんでいて欲しいな」

 シズヤの言葉に、僕は静かに頷いた。

 夕闇の中、僕らは疲れ果てて床に転がった。

(もう怪異、来ないといいね)

「疲れた。しばらくは、目も開けたくないや」

 もう一度、完成した音楽を流す。僕らは音楽という平穏な海へ、深く、深く、溶け込んでいく――。