名無しさんの部屋から持ち帰った、彼が最後に使っていたタブレットの電源を入れた。
僕の部屋に漂うのは、淹れたてのほうじ茶の香ばしい香りと、シズヤが持ち込んだコンビニのビニール袋のカサカサと鳴る乾いた音だ。
「よし、ログインできた。ヒカル、こいつ、やっぱり本物だわ。自分の掲示板だけじゃなくて、大手の配信サイトでも相当やり合ってる」
シズヤの弾んだ声。タブレットを操作するたびに、画面が切り替わる微かな電子音が僕の耳をくすぐる。シズヤが僕の隣にどさりと座り込み、その体温が太もも越しに伝わってきた。
僕は窓を開け、夕立の予感を含んだ湿った風を肺に吸い込んだ。

(シズヤ、彼の足跡を教えて。彼がどんな音を愛して、どんな言葉を残したのか。それが僕らの創作の基礎になるんだ)
シズヤが画面をスクロールする。かつての名無しさんが放った『鋭利な刃』のような言葉たちをシズヤが読み上げ始めた。
▽▼▽
【名無しさんの音楽評:アーカイブ】
◉米津玄師『KICK BACK』 @名無し402
リズム隊が心臓をわざと一拍外して叩いてる。この『ズレ』が、現代人の割り切れない不安を肯定してる気がする。この曲は、もはや、ポップスの皮を被ったアヴァンギャルド。鳥肌が立つ。
*
(シズヤ。彼が『リズム隊』に注目したのは面白いね。普通、人はメロディに耳を奪われる。でも彼は、その下でのたうち回っているかのような、心臓の鼓動の異常さに気づいたんだ)
「……ああ。メロディなんてのは、外側を飾る綺麗な顔みたいなもんだ。でも、リズムは内臓だ」
シズヤの大きな手が、僕の膝の上に置かれた。そして、指先で『トン、トトン』と不規則なリズムを叩き始める。
「こいつは、音の腹を割いて、その中身を振動で感じてたんだよ。ほら、ヒカル。こんな風に、少し気持ち悪いズレ方。耳が聞こえる奴らがメロディにうっとりしてる横で、こいつは床から伝わってくる、吐き気がするような鼓動に一人で共感してたんだな」
膝から伝わるシズヤの指の震えが、僕の心拍を少しだけ早めた。
*
◉Ado『唱』@名無し402
彼女は『叫びという楽器』を、ミリ単位の精度でコントロールしてる。この低音のザラつきは、孤独を経験した人間にしか出せない周波数だ。
*
(……名無しさんのこの言葉は正しいよ。『唱』は確かに華やかなパーティの装いだけど、僕の耳には、その中心にいる彼女の歌声は、ひどく剥き出しの孤独さで、誰にも触れさせないほど鋭い刃のように聴こえる。名無しさんは、その刃に自分を重ねて、血を流しながら聞いていたのかも)
「……低音のザラつきか。耳が聞こえない俺には、あの音はメロディじゃなくて、ヤスリみたいに肌を擦る感覚で伝わってくる」
シズヤが膝から手を離し、今度は僕の肩を掴んだ。骨に響くような強い力で、名無しの感じていた圧迫感を伝えてくる。
「普通の奴らは、あの曲のリズムで楽しく踊るんだろうけどさ。名無しにとっては、あのザラついた振動だけが、誰も触れてくれない暗い部屋で、自分が生きてることを教えてくれる唯一の『感触』だったんだな。……ああ、分かるよ。名無しは、音に触れることで、まだ自分が死んでないって確認してたんだな」
*
◉Mrs.GreenApple『ケセラセラ』@名無し402
きらびやかな高音の裏で、ベースがずっと泥臭く泣いてる。光が強ければ強いほど影は濃くなることを、彼らはメロディだけで表現しきってる。救われる。
*
(……僕の耳には、この曲の高音域は、まるで眩しすぎて痛いくらいの白光なんだ。でも、その光が強ければ強いほど、低い場所で鳴っているベースの音が、逃げ場のない深い闇のように濃く浮かび上がってくる)
「……泥臭く泣いてる、か」
シズヤが少しだけ身体を傾け、僕の肩に自分の肩を重く預けてきた。
「耳が聞こえない俺には、高音はただの微かな震えだ。けど、その分、地面を這うようなベースの振動は、まるで『泥の中で足掻いてる誰かの重い足音』みたいに、ドスドスと直接、脳を叩いてくる。そりゃあ、救われるよな。綺麗な空より、汚れた地面に自分の居場所を見つけたんだから」
*
◉HANA 『Blue jeans』 @名無し402
綺麗なドレスじゃない。これは、何度も洗って色褪せた『Blue jeans』の音だ。彼女の声は、高らかに歌い上げることを拒絶して、僕の隣に座って、ただ一緒に溜息をついてくれる。完璧じゃない、綻びだらけの自分でも、そのまま生きていていいんだと、このハスキーな残響が許してくれた。
*
(……音の端々に含まれた微かな掠れが、完璧な調和よりもずっと深く、心臓の鼓動に寄り添ってくれるんだ。彼は、この曲の中に、誰にも見せられない自分だけの皮膚を見つけていたんだね)
「……『隣に座って溜息をつく音』か」
シズヤの吐息が、すぐ耳元で聞こえた。僕の隣に座る彼の体温が、じわりと右半身全体に広がっていく。
「耳が聞こえない俺にとって、この曲の低域は、激しい衝撃じゃなくて……ちょうど今の俺たちみたいに、隣に座った誰かの体温が伝わってくるような微かな空気の揺れに聴こえる。名無しはきっと、掲示板で他人を叩きながらも、本当は誰かに自分の横に座ってほしかったんだな」
シズヤの大きな手が、僕の右手をそっと包み込んだ。
「……なあ、ヒカル。俺たちの新曲にも、この『Blue jeans』みたいな、隣にいるだけで救われる温度を込めようぜ」
僕は固く繋がれた手の熱を感じながら、力強く頷いた。
僕らは顔を見合わせて、楽曲作りに入った――。
僕の部屋に漂うのは、淹れたてのほうじ茶の香ばしい香りと、シズヤが持ち込んだコンビニのビニール袋のカサカサと鳴る乾いた音だ。
「よし、ログインできた。ヒカル、こいつ、やっぱり本物だわ。自分の掲示板だけじゃなくて、大手の配信サイトでも相当やり合ってる」
シズヤの弾んだ声。タブレットを操作するたびに、画面が切り替わる微かな電子音が僕の耳をくすぐる。シズヤが僕の隣にどさりと座り込み、その体温が太もも越しに伝わってきた。
僕は窓を開け、夕立の予感を含んだ湿った風を肺に吸い込んだ。

(シズヤ、彼の足跡を教えて。彼がどんな音を愛して、どんな言葉を残したのか。それが僕らの創作の基礎になるんだ)
シズヤが画面をスクロールする。かつての名無しさんが放った『鋭利な刃』のような言葉たちをシズヤが読み上げ始めた。
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【名無しさんの音楽評:アーカイブ】
◉米津玄師『KICK BACK』 @名無し402
リズム隊が心臓をわざと一拍外して叩いてる。この『ズレ』が、現代人の割り切れない不安を肯定してる気がする。この曲は、もはや、ポップスの皮を被ったアヴァンギャルド。鳥肌が立つ。
*
(シズヤ。彼が『リズム隊』に注目したのは面白いね。普通、人はメロディに耳を奪われる。でも彼は、その下でのたうち回っているかのような、心臓の鼓動の異常さに気づいたんだ)
「……ああ。メロディなんてのは、外側を飾る綺麗な顔みたいなもんだ。でも、リズムは内臓だ」
シズヤの大きな手が、僕の膝の上に置かれた。そして、指先で『トン、トトン』と不規則なリズムを叩き始める。
「こいつは、音の腹を割いて、その中身を振動で感じてたんだよ。ほら、ヒカル。こんな風に、少し気持ち悪いズレ方。耳が聞こえる奴らがメロディにうっとりしてる横で、こいつは床から伝わってくる、吐き気がするような鼓動に一人で共感してたんだな」
膝から伝わるシズヤの指の震えが、僕の心拍を少しだけ早めた。
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◉Ado『唱』@名無し402
彼女は『叫びという楽器』を、ミリ単位の精度でコントロールしてる。この低音のザラつきは、孤独を経験した人間にしか出せない周波数だ。
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(……名無しさんのこの言葉は正しいよ。『唱』は確かに華やかなパーティの装いだけど、僕の耳には、その中心にいる彼女の歌声は、ひどく剥き出しの孤独さで、誰にも触れさせないほど鋭い刃のように聴こえる。名無しさんは、その刃に自分を重ねて、血を流しながら聞いていたのかも)
「……低音のザラつきか。耳が聞こえない俺には、あの音はメロディじゃなくて、ヤスリみたいに肌を擦る感覚で伝わってくる」
シズヤが膝から手を離し、今度は僕の肩を掴んだ。骨に響くような強い力で、名無しの感じていた圧迫感を伝えてくる。
「普通の奴らは、あの曲のリズムで楽しく踊るんだろうけどさ。名無しにとっては、あのザラついた振動だけが、誰も触れてくれない暗い部屋で、自分が生きてることを教えてくれる唯一の『感触』だったんだな。……ああ、分かるよ。名無しは、音に触れることで、まだ自分が死んでないって確認してたんだな」
*
◉Mrs.GreenApple『ケセラセラ』@名無し402
きらびやかな高音の裏で、ベースがずっと泥臭く泣いてる。光が強ければ強いほど影は濃くなることを、彼らはメロディだけで表現しきってる。救われる。
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(……僕の耳には、この曲の高音域は、まるで眩しすぎて痛いくらいの白光なんだ。でも、その光が強ければ強いほど、低い場所で鳴っているベースの音が、逃げ場のない深い闇のように濃く浮かび上がってくる)
「……泥臭く泣いてる、か」
シズヤが少しだけ身体を傾け、僕の肩に自分の肩を重く預けてきた。
「耳が聞こえない俺には、高音はただの微かな震えだ。けど、その分、地面を這うようなベースの振動は、まるで『泥の中で足掻いてる誰かの重い足音』みたいに、ドスドスと直接、脳を叩いてくる。そりゃあ、救われるよな。綺麗な空より、汚れた地面に自分の居場所を見つけたんだから」
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◉HANA 『Blue jeans』 @名無し402
綺麗なドレスじゃない。これは、何度も洗って色褪せた『Blue jeans』の音だ。彼女の声は、高らかに歌い上げることを拒絶して、僕の隣に座って、ただ一緒に溜息をついてくれる。完璧じゃない、綻びだらけの自分でも、そのまま生きていていいんだと、このハスキーな残響が許してくれた。
*
(……音の端々に含まれた微かな掠れが、完璧な調和よりもずっと深く、心臓の鼓動に寄り添ってくれるんだ。彼は、この曲の中に、誰にも見せられない自分だけの皮膚を見つけていたんだね)
「……『隣に座って溜息をつく音』か」
シズヤの吐息が、すぐ耳元で聞こえた。僕の隣に座る彼の体温が、じわりと右半身全体に広がっていく。
「耳が聞こえない俺にとって、この曲の低域は、激しい衝撃じゃなくて……ちょうど今の俺たちみたいに、隣に座った誰かの体温が伝わってくるような微かな空気の揺れに聴こえる。名無しはきっと、掲示板で他人を叩きながらも、本当は誰かに自分の横に座ってほしかったんだな」
シズヤの大きな手が、僕の右手をそっと包み込んだ。
「……なあ、ヒカル。俺たちの新曲にも、この『Blue jeans』みたいな、隣にいるだけで救われる温度を込めようぜ」
僕は固く繋がれた手の熱を感じながら、力強く頷いた。
僕らは顔を見合わせて、楽曲作りに入った――。



