光のない僕と、音のない君

『綺麗事だろ……お前ら』

 部屋の温度がさらに数度下がった。シズヤの視覚が戻ったとはいえ、この部屋に満ちる『負の感情』は増すばかりだ。

 鼻をつくのは、ただの腐敗臭ではない。誰にも見つからなかった数年分の嫉妬と自己憐憫(じこれんびん)が煮詰まったような独特な匂いだ。

(シズヤ。僕が言うことを、そのまま彼のPCのコメント欄に打ち込んで。逃げちゃダメだ)

「ヒカル、本気かよ。こんな奴と対話するのか?」

 僕はシズヤの震える右手に、僕の手を重ねた。

(逃げても、僕らの平穏は取り戻せふない。そうだろう?)

 キーボードのキーの冷たさが指先から伝わってくる。

「……だな。手話を感じ取りにくいから、ヒカルのスマホで手元を照らすぜ」

 僕が彼の掌に刻む『触手話』に、シズヤが神経を集中させた。

   *

【コメント欄】※ストリーミングサイト

• @光と音
 名無しさん。聞こえているよね。
 君のコメント欄の考察は確かに鋭かったのかもしれない。でも、それは音楽への愛じゃない。
 ただ『自分だけが分かっている』という優越感に浸りたかっただと思うんだ。

   *

「ヒカル、画面が激しく点滅してる。名無しの怒りなのか、PCの排熱ファンも高音で回転し始めた」

(大丈夫、落ち着いて)

「分かってるけど、また視覚を奪われたらと思うと。あっ……書き込みがあった」

   *

• @名無し402
 縺縺螟夜嵯

   *

「何か返信が来たけど、なんだこれ? 複雑な漢字で読めない」

(僕の掌に書いて)

 シズヤの指先が掌に這うが、何のことか分からなかった。

「ヒカル、検索してみる」

 シズヤがキーボードを打つ音がする。名無しのPCを使って調べているようだ。

「あった。縺って字から始まるのは、どうやら文字化けみたいだ。文字コードが関係するらしい」

(彼も人間だから。落ち着いて、僕らに分かる言語にしてって頼んでみて)

   *

• @光と音
 名無しさん。
 読めなければ対話にならない。何を言いたかった?

• @名無し402
 縺縺――お前、お前に何が分かる。
 お前らは脚光を浴びて、拍手も貰って、音楽制作で幸せな道を歩んでるんだろ

   *

 シズヤが舌打ちした。

(どうしたの?)

「いや、ちょっと俺に会話させてくれ。腹が立って」

(ダメだよ、冷静に――)

   *

• @光と音
 逆にお前に何が分かるっていうんだ

• @名無し402
 分かるさ。音楽を作れる才能がある奴らなんか、人生を好きに謳歌してるに決まってる

・ @光と音
 脚光を浴びて、拍手を貰うとか抜かしたな。
 俺たちユニットは、目見えなきゃ、耳も聞こえねぇ。
 脚光って何色だ? 拍手ってどんな音がすんだよ
 教えてくれよ

・@名無し402
 ……。

   *

(ねえ、シズヤ。大丈夫なの?)

「ああ、俺が本気で向き合ってるから、ヒカルは待ってろ」

   *

• @光と音
 何も言えないのか。いいか、甘えるな。
 お前は目が見えて、耳も聞こえていたはずだ。世界と繋がる手段を全部持っていたのに、自分から閉じこもった。
 孤独を言い訳にして、現実を見つめなかっただけだろ。

・@名無し402
 ……黙れ。放っておいてくれ

• @光と音
 黙ってられるか。
 俺はお前と今、真正面から語り合ってる。誰か説教してくれる人間はいたか?
 コメント欄の連中は都合よく、あんたを絶賛し、鼻につけば離れていった。だが、俺は逃げない。
 あんたの鋭いコメントが人々の胸を打った。その過去は本物だ。だったら、死んでからだって、好きな音楽のために生きたら良い。
 そうしないのは、てめぇの甘えなんだよ

・@名無し402
 …………………。
 認められたかった。音楽を早々に諦めた自分にとって、コメントの中の世界は、偉くなったような気分にしてくれた。
 鋭い、時代を捉えている。返信があるたびに震えるような喜びがあった。
 気がつけば、いつしか1日のほとんどをディスプレイの前で過ごすようになっていた。
 お前のいうとおりだ。甘えてたんだ。

・@光と音
 もう一度、俺たちの歌を聴いてみろ

   *

 しばらくの沈黙。

 僕はシズヤが読み上げながら打ってくれたコメントの数々に胸を打たれていた。

(シズヤだから、ここまでハッキリ言えたね)

「ちょっと言い過ぎたかな。怒ったかもな、こいつ」

 PCから突然、僕らの曲が流れ出した。

(彼、ちゃんと聴いてくれてるよ)

 シズヤが頷く。
 一瞬にも、永遠に感じる3分40秒が過ぎ去った。

   *

• @名無し402
 お前らの1stシングル『スイレン・クロウル』、もう一度聴き直したよ。

・@光と音
 どうだ?

・@名無し402
 ……シズヤ。お前、ボカロAIのブレス、あえて不規則に削っただろ。
 耳が聞こえないからこそ、数値上の完璧を疑って、生命の綻びを音にねじ込んだ。
 あの不快なまでの生々しさは、計算じゃ辿り着けない。
 そしてヒカル。
 お前のピアノのタッチ。一音一音が、まるで暗闇の中で誰かの体温を必死に探っているような、痛々しいまでの切実さがある。
 
 ……認めざるを得ないな。
 目が見えて、耳が聞こえていた俺が、一度も辿り着けなかった本物の表現がそこにある。
 
 光と音。お前ら……最高に、腹が立つくらいに、良い音楽を作るじゃないか。

.@光と音
 良いコメントだ。

   *

 シズヤの声が、少しだけ潤んでいるのが分かった。

 僕の耳には、今、PCの排熱ファンが『ため息』をつくように回転を落としていく音が聴こえた。名無しの陰鬱な感情が、完全に消えた気がした。

(シズヤ、彼に伝えて。君のことも曲にするって)

 シズヤが頷き、ゆっくりと言葉を刻む。

   *

• @光と音
 名無し。お前の言葉、しかと受け取った。
 お前みたいな不器用な奴が、二度と画面の向こうで孤独死しなくて済むような。
 ここからログアウトするための、最高の曲を作ってやる。
 新しい名前は、その時まで取っておけ。

・@名無し402
 ……ああ。
 楽しみにしてるよ。……ようやく、ログアウトできそうだ。そうだ、そこらに転がってるタブレットをもらってくれ。その中に思い出が残してあるから。
 じゃあな、二人とも。
 俺の代わりに、世界をぶん殴ってこい。

   *

 カサリ、という乾いた音がした。白骨化した彼の指先がキーボードから滑り落ちたらしい。と同時に、モニターの青白い光が、波紋のように広がって消えていく様子をシズヤが教えてくれた。


 
 真っ暗になった部屋の中に窓の隙間から、ほんの少しの明るさを感じた。
 
(……終わったんだね)

「ああ。……ヒカル、俺。なんだか腹減ったわ」

 シズヤが僕の肩に、ずしりと重い頭を預けてきた。

 彼の髪から漂う微かな汗の匂いと、朝の冷気が、僕らが『生きている』ことを何よりも強く教えてくれた。

 シズヤがタブレットを見つけてから、二人で手を取り合い、出口なき部屋を後にした。

 頭の中で、すでに新しいメロディが、強烈なクリック音を伴って鳴り始めていた――。